今回のテーマは、
例の130万部を超える大ベストセラーと同じタイトルです。
ある意味、『嫌われる勇気』とは、
「新しい自分に生まれ変わる勇気」、
もしくは、「本当の自分を取り戻す勇気」、といえるかも知れません。
つまり、嫌われる事を恐れていたら、
本当の自分には出会えない訳ですね。
漫画家の蛭子能収さんを知ってますか?
そう、『えびす』さんです。
漫画家というよりタレントだと思ってる人の方が多いでしょうね。
福々しい笑顔はまさに恵比寿様みたいで、
飾らない人柄にも好感が持てます。
あんな人が仲間内でいたら、きっと人気者に違いないと思うし、
実際に友達も大勢いそうに見えませんか?
ところが、現実の彼は芸能界でも随一の一匹狼なんです。
蛭子さんは、仕事後に共演者やスタッフが打ち上げに誘っても、
一切応じる事はないといいます。
そして、プライベイトでも人付き合いはなく、
友達といえる存在もいないらしいです。
一体、何故か
理由は簡単で、単に面倒くさいからだといいます。
彼は集団を厭い、群れる事に拒否感があるようです。
企業にしても、学級にしても、友達グループにしても、
あらゆる集団には必ずリーダー的な存在がいるでしょう?
いつも進んで意見をいい、
いろいろと提案して集団を思った方向に動かしたがり、
あらゆる場を仕切りたがる人が…。
それが、蛭子さんは嫌なんだそうです。
リーダーがいるかどうかは別にしても、
集団では個人の自由が抑圧されます。
各々が自分の主張を掲げ、互いに干渉し合って自由を奪い合います。
結果、我の強い人の主張ばかりが通り、
大人しい人は、常に従うだけの役回りを背負わせられるのです
蛭子さんは、他人に自由を束縛されるのが嫌で堪らないし、
また他人の自由も侵害したくないとの事ですが、
これには強く共感します。
基本的に、僕も群れる事が苦手で、現に友達もあまりいません。
大勢でいれば心強いし、淋しさも和らぐのは確かですが、
自分を殺してばかりではストレスが溜まるじゃないですか?
特に、「なあなあ」の関係は大嫌いです。
互いに遠慮し合って気を遣って当たらず触らずで、
自分のいいたい事もいえず、
嫌な事をされても黙って耐え、後で愚痴ったり陰口をいったりして、
何とも気が滅入るじゃありませんか
蛭子さんは、人が集まる事そのものを否定していません。
同じ志を持つ人々の集いや、趣味の会、
何でもいいたい事をいい合える呑み仲間同士なんかは、
むしろ肯定しています。
これにも僕は同感です。
問題は、集団にしがみつくために
自分の尊厳を否定する事にあります。
個人の自由を侵害するような『群れ』ならば、
いっそ離れた方が建設的だと思いませんか?
集団の中で自由と個性を抑圧されて、
絶えず猫を被らねばならないとしたら
そんな群れに所属する意味などないでしょう。
アドラーがいう『対人関係の悩み』は、
『自分が自分らしくいられない』という苦しみが
大きな位置を占めてるように感じます。
常に他人の顔色を窺い、愛想笑いをし、場の空気を読み続ける毎日に
ストレスを感じる人は少なくないはずです。
他人からの不都合な頼みや誘いに、
はっきりとNOをいえたらいいと思いませんか
自由自在に、思いのままの日常を送りたいとは思いませんか
何故、本音を語れないかといえば、
きっと嫌われる事を怖れてるからです。
嫌われたら集団から省かれますよね。
そうなると様々な恩恵が受けられなくなります。
だから、特に好きでもない仲間に依存し、
対して気の進まないグループに所属し続けようとするのです。
これは、未だ、人として自立していない証拠ともいえます。
与えられる側から与える側への移行が成されていないのです。
他人からの恩恵を受けるには、
他人から好かれなければなりません。
そのために、無理して気を遣い、心を配り、
作り笑いをして、気前良く振る舞い、嫌な頼み事も断らず、
優しくて親切なキャラを演じ続ける人がいます。
でも、本当に、それで、
他人から嫌われる事がなくなるのかは疑問です。
むしろ、誰にでも媚びを売る八方美人の方が
逆に嫌われるのではないでしょうか
『嫌われる勇気』の作者、岸見一郎氏はいいます。
「どんなに他人に嫌われないように気を付けても、
嫌ってくる人は必ずいるから、無理して気を遣う事はない」。
「10人の知人がいれば、
その内の1人くらいは自分を嫌う人がいる…、
内7人はどうでもいい表面的な関係の人たちで、
残り2人は本音を語れる大切な友になる…、
その2人と仲良くしていけば良い」と。
どんなに気を遣っても、逆に気を遣わなくても、
上記の『自分を嫌う人と大切な友人』の数(比率)は
変わらないでしょう。
気を遣う人に対して親近感が湧かず、
逆に打ち解けられない人もいるでしょうし、
気遣いも遠慮もしない人の方が
付き合いやすく感じる人だっている訳です。
ならば、自然体でいても人間関係に支障はなさそうだし、
むしろストレスがなくて楽ですよね
いずれにしても、
その他大勢の表面的な人たちと無理して仲良くする事はなく、
自分を嫌う人を意識する必要もないでしょう。
何故なら、人生は長いように見えて実は意外に短く、
僕らが死ぬまでに出来る事はそんなに多くないからです。
人生の最大テーマである『対人関係』で、
どうでもいい人に貴重な時間を遣うのは勿体ないと思いませんか?
限りある人生ならば、
本当に信頼し合える人たちと過ごした方が有意義に決まってます。
以上は、あくまで蛭子さんと僕の主観に過ぎません。
出来るだけ多くの人と交遊関係を持ちたいというならば、
それも素晴らしい事だと思います。
また、『広く浅く』という人間関係を求めるのも有りでしょう。
それで、本人がハッピーならば、何の問題も有り得ません。
世の中には、
幅広く大勢の人たちと濃密な付き合いをしている人もいます。
それには、多大な資金と時間と労力が必要で、
一握りの恵まれた人にしか出来ません。
我々のような一般庶民には、
家族と少数の知己(親友)と秘かに過ごすくらいが関の山ですね。
でも、これで充分じゃないですか?
実際、蛭子さんは家族と過ごす時間を最も大切にしています。
とにかく家族と一緒にいるのが楽しくて、
友達付き合いする時間がなくなるそうです。
当然、蛭子さんの生き方が正しい訳ではなく、
人それぞれが自ら望む人間関係を築く自由があります。
もし、蛭子さんや僕やアドラーと同じ考えならば、
どうぞ勇気を出してください。
嫌われる勇気を。
今いる多くの仲間たちに嫌われる覚悟で、
素直な気持ちで接してみるのです。
まずは、既に述べた通り、
『全ての人間は平等で対等』だと認知しましょう。
そして、家族に対する遠慮をなくし、周囲の仲間たちに対して、
飾りのない自然な自分の姿を見せてみませんか
もしかしたら、人生が変わるかも知れませんよ。
表面的だけの薄っぺらい関係は終わり、
信頼と絆の溢れる新たな人間関係が始まるでしょう