リーベショコラーデ -8ページ目

リーベショコラーデ

thoughts about music and singers

エカテリーナ・サダヴニコヴァ(ソプラノ)
斎藤雅広(ピアノ)

Ekaterina Sadovnikova


プログラム
R.シュトラウス:夜 Op.13-3 /ひそやかな誘い Op.27-3/献呈 Op10-1/あしたに Op.27-4
ラフマニノフ: 夜、私の庭の中で/彼女に/夢(「6つの歌」Op.38より)
ラフマニノフ:私の窓辺に(「15の歌」Op.26より)ライラック/ここは素敵(「12の歌」Op.21より)
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モーツァルト:「ああ、私には感じる、愛が消えてしまったことを」(歌劇『魔笛』より)
ベッリーニ:「ああ、幾たびか」(歌劇『カプレーティ家とモンテッキ家』より)
ベッリーニ:「おお、私に希望を返して下さい~来て下さい、愛するお方」(歌劇『清教徒』より)
ヴェルディ:「さらば、過ぎし日よ」(歌劇『椿姫』より)
ヴェルディ:「不思議だわ!~ああ、そはかの人か~花から花へ」(歌劇『椿姫』より)

アンコール
ジャンニ・スキッキ:「私の愛しいお父さん」
アリャビエフ:「ナイチンゲール」


奇麗な人です。ロシア人。お子さんがいるそうです。34歳くらいかな。

今年はシュトラウスイヤーだそうで、献呈を聞くのも私的には四人目。
唄い終わった曲間に拍手が無いのを歌手さんはとまどっていました。

・・・この場合、四曲終わるまで待つのがいいのかどうか、私らには分かりません(曲間にしてもいいと思うけど)

ラフマニノフの歌曲というのは、実は初めて聞きました。これが良かった。
やっぱりロシアの歌曲はロシア人に限ると思いました。叙情のレベルが違います。

後半はがらりと雰囲気が変わり、
ミラノ・スカラ座、フェニーチェ歌劇場、ローマ歌劇場、フィレンツェ歌劇場など、イタリアを代表する歌劇場に次から次へと「主要な役」で出演を続けるという宣伝文句どおりの実力を聞かせました。名前を聞いた事がありませんでしたが、あちらでは名のある歌手に違いありません。よくこんな人を呼んでくれた、と武蔵野文化事業団には感謝します。


★携帯電話をならした客がいました。田舎の客層だからかな~。
パンフレットには「チラシを見る音」「飴をむく音」などまで注意するよう書いてある劇場なのに「携帯電話」はあまりに基本過ぎて、逆に穴だったようです。開演前に確認のアナウンスでもしたらどうでしょう。

ケイ・アーツ・オフィスが新宿三井ビルのロビーという
劣悪な環境で無料で企画制作している「55癒しの指定席」ランチタイムコンサート(第340回)佐藤優子(ソプラノ)・成田伊美(メゾソプラノ)・石塚幸子(ピアノ)に行ってきました。
2013年6月の青木エマ(ソプラノ)・磯地美樹(メゾソプラノ)・喜嶋麻実(ピアノ)のコンサート(第321回)に続いて二度目です。
前回、あまりの環境の悪さに懲りたようでにゃーを誘ったら断られました。


~女なんてこんなもの~という副題がついていましたがFrauen Drei Musikerというのはドイツ語で「三人の女性音楽家」ですから、二人の歌手だけじゃなくてピアニストも主役ということでしょう。

お目当ては先日中野区民合唱団の「カルメン」(カルメンは堀万里絵さん)で初めてみた佐藤優子さんです。カルメンではちょっとしか出番がありませんでしたが、とっても素晴らしい声をしていましたので注目しました。

コンサートは冒頭から実力全開でびっくりしました。
ロビー階の騒音(エレベーターのピンポーン、防火ドアのバシャーン)にもめげず、自分たちの世界をしっかり作っていました。若いのに舞台慣れしてます。おしゃべりも上手。ピアノも良かったです(これは特記すべきと思いました)。

佐藤優子さんは良い声をしています。高音を軽々と出して伸びやかです。魔笛の「夜の女王のアリア」をあれだけ軽々と唄えるのは凄い。この人は将来NHK新春オペラコンサートに出るようになるでしょう。

成田伊美さんはたまたま2013年11月に白寿ホールで見ました。お話があのときより慣れた風で、成長が感じられました。ソロの最初の歌としてハバネラを会場を一周しながら唄いました。演技を交えている所はなかなか工夫がありましたが、まだ新人らしく観客に「遠慮」がありました。堀万里絵さんなら側の男性の肩に片っ端から手を乗せます。(乗せられたのでファンになりました(笑))成田さんは誰にも触りませんでした。妖婉さが足りない。若くて真面目な歌手さんらしくて、まだ難しいのだと思います。

成田さんはメゾソプラノなのでケルビーノのアリアも唄いました。ズボン姿に着替えてました。この舞台に気合いを入れてるのが分かって好感を持ちました。ケルビーノのアリアって、日本人のメゾソプラノを何人も聴いていますが(レパートリに入れる人が多い所為があります)唄い方に三つの分類ができるように感じます。

(1)歌劇の演技を取り入れて劇中のように演技しながら観客に唄いかける方法(オペラ公演の時はまずこれしかありませんがコンサートでこうする人もいます)
(2)独立した歌曲のように自分の世界に没頭する方法(コンサートでこうする人のことです=オペラ公演ではしないでしょう)
(3)どっちつかずの方法

(1)(2)(3)のどれでも良いのですが、歌手さんによってはっきり違いますね。
ケルビーノをいつも(2)で唄う人がオペラに出て(1)のように唄う姿を観たいと思う歌手もいました。

日本のメゾソプラノの人の声というのは、よっぽど聞き慣れた歌手でないと聞き分ける事ができません。ソプラノと違って、声の特徴・個性が聴き取りにくい。似たような「暗い声」なのです。メゾソプラノの人は、個性の主張をどのようにするか、というのが大きな課題だろうと思います。

石塚幸子さんは声楽の伴奏ピアニストとして特別に誉めたいくらい良かった。伴奏ピアニストで上手いなぁと今まで感心したのは山田武彦さんがいますが(高橋光太郎さんも凄いですが「伴奏ピアニスト」とは言えませんので割愛)、今回の二人の歌手さんと相性が良いのだと思います。仲良しなのかな。大学も同じだし。


にしても、日本人て「ドアの閉まる音」にはとっても鈍感です!!
ロビーに防火扉があって、常に人が出入りしてるのですが、誰一人静かに閉める人はおらず、開けたら自分が通って後は勝手に「バシャーン」です。 ウルサイ!!

戸を閉めるときはそんなことしないでしょう?
ドアは日本に無かったから「静かに閉める」という躾を誰もして来なかったのだと思います。


「ドアは静かに閉めましょう」



Frauen Drei Musiker みんな頑張れ!
明けましておめでとうございます
本年初投稿です

血圧が高くて医者に通い始めましたが
原因がどうやら分かりました
あと数ヶ月の命かも知れませんのでよろしくお願いします

題名のない音楽会の収録に東京オペラシティまで昨日行ってきました。
宮川彬良(みやがわあきら)と彌勒忠史(みろくただし)が共演すると聞いたからです。
中身がなんだか知らないが、行って聞かずにはおれまい。

そしたらベートーヴェンの「運命」を宮川彬良さんが新解釈して作詞したものを
彌勒忠史さんが唄う、というある意味訳が分からないプログラムでした。

これがもう、面白いのなんのって、宮川彬良さんはおしゃべりも上手だけど
言ってる内容がとっても納得できるのです。
※詳しくは番組放送をご覧下さい。2014年4月27日にテレビ朝日で放送されます。

この音楽会はすべての音楽関係者に教えてあげたいです。音楽関係者=すべての人類。

宮川さんは「音楽をストーリーではなくもっと小さなモチーフに着目して解釈する」という話しをしました。それを受けて司会の佐渡裕マエストロがこれを上手に噛み砕いた説明をしました。曰く「僕は曲について"ここは川の流れを現している"とかストーリーをつける説明がキライです」【正確には番組をご覧下さい】
このお二人の話しは本当に共感できます。先生とか評論家とかが「ここは○○だ」などと説明するとそれが先入観になってしまって自分の理解のジャマになることを経験しませんでしたか。
今回のはそういう「物語をあてる」のではなくて「モチーフの解釈」です。
これが面白い。笑えました。クラシック音楽の話しで笑えるというのは珍しい経験です。
しかも、とってもよく納得できます。

昔、ドイツで初めて田園風景を見たとき、『これが田園なのか~日本には無い、想像もできない景色だ』と思ったことがあります。そもそも田んぼじゃないし。その話しを当時使っていたメーリングリストでしたら「ベートーヴェンの田園を聴くと次々に景色が浮かんで来る」と言う人が次々に現れて、私は音楽を聴いて景色が浮かぶ事がまったく無いので、「世の中には音楽を聴いて映像が浮かぶ人と浮かばない人がいるんだ」という発見をしました。

昔、北欧に行ったとき、「ここに来た事が無い人には絶対にシベリウスの音楽は理解できない」と確信を得た体験をしました。空気の重さからして違うのです。北欧体験を持ち出さなくても、沖縄の明るい太陽と暑さを知らずにエイサーの熱気は分からないでしょう。同じ事です。

音楽の理解はこのように人それぞれで、聴く楽しさに正解とか不正解はありませんが、理解の深み、というものはあるでしょう。
今回のプログラムは、とっても笑える楽しい「運命」でしたが、内容はとっても真面目で感心したのです。弥勒さんの歌が、まるで空耳アワーのように耳に残ってしまった。家に帰って、届いていた小学館の創刊特別号:〔カルロス・クライバー ザ・コンサート〕
ベートーヴェン「運命」ほか

¥840
Amazon.co.jp
をかけたら、弥勒さんの声が空耳してなんとも困りました(笑)

そこは、責任とれません。



【2014.4.27追記】
いま見終わりましたが、
(1)もっとも面白かった佐渡さんの話は全部カット(^^;
(2)弥勒さんの歌はテレビだと全然良さが伝わらない
編集して短くされた番組は会場で観たのとは別物でした。残念。「やっぱり生じゃないと」というのが感想です。

【2014.5.12追記】
宮川さんの話は別のところにもありました。
ニコニコ動画
2013年、暮れも押し迫った22日日曜日、某ピアノコンツェルトの切符を買ってありましたが
堀万里絵さんが「カルメン」を演じる(タイトルロール)というのを直前に知り、
4000円のチケットを棒に振って!(笑)カルメンに行きました。

中野区民合唱団の定期演奏会だそうです。



市民オペラというのを最近知りましたが、なかなか侮れないことも知りました。
二期会主催のものよりよっぽど面白くて熱があるもの「も」あるのです。
カルメンは日本で初めてオペラで観ましたが、それも市民オペラでした。
以来、カルメンはDVDも含め何作もオペラを観ていますが、あの綾瀬市市民オペラより優れた演出はありません。市民オペラがメトロポリタンのカルメンより良いなんて誰が想像できるでしょうか!


ということで、行ってきました。

演奏会形式+日本語のカルメン、、、苦手な形式ですがそこは堀万里絵さんですから、カルメンが。
あの人ほど今の日本でカルメンが似合う人はおらんでしょう。背高いし、フラメンコ踊れるし、美人だし、メッツォソプラノだし。
(カルメンとメルセデスがなぜソプラノでなくメゾなのか、という話しを昔書きましたが割愛)

万里絵さんがカスタネット叩いて踊ったのは予想外の素晴らしい演出でした。
フラメンコには前蹴りの形でスカートを上げる踊りがありますが、あれは短足の日本人がもっとも不得意でサマにならない踊りですが、これができるのは堀万里絵だけでしょう。(あと青木エマさんが身体的には似合います)

もともとこの合唱団は宗教音楽を演奏しているそうですが、ミサやらコラールやらって、結局ゴッドを信じていない日本人には無理ですので(中身がチンプンカンプンでは歌えません)、オペラにしたのは良かったと思います。しかも演技なしですから団員にとって難しいことは無いし。今後も「オペラ」を演奏してくれるなら中野まで行きたいと思います。

解説書に指揮者の山崎滋さんが面白いことを書いていました。
『(人物としての)カルメンは、脚本、演出によっていろいろな見方がありますが、仮に2つの見方に絞ると、一つは天性の悪女として、自分に対して正直に「なるようになるさ」と自由奔放に生きる女として見るパターン。
もう一つは実はもっと情け深くて昔の日本女性のように誰かに尽くす為に生まれてきたような人物として見るパターン。

(中略)

カルメンの想定年齢は17~18歳ですが、単に奔放なだけではなく、(中略)見た目のコケティッシュな美しさに周りが振り回されて、本人の思わぬ方向に事態が動いて結果的に破滅へと導かれてしまっただけではないかと考えます。
(恋の)対象がエスカミーリョに変わっていった部分についても解釈がいろいろあって、その一つに、カルメンがもともとホセと死ぬ運命であることを予見していて、その運命からホセだけでも遠ざける為に、わざとエスカミーリョに近づく振りをして敢えてホセが自分から去って行くように仕向けたのではないかという考え方があります。』

・・・念のため、以上は彼の解釈ではなくて彼による一つの解釈の紹介です。

解釈というのは個人の自由であって何をどう解釈しようと構わないものですが
何かをそのように解釈する、というのは必ず本人の願望に基づいている

そうあって欲しい」とか「そうであればスッキリする」とか「自分が得をする」からです。例外はありません。

わざとエスカミーリョに近づいてホセを自分から去って行くように仕向けた・・・

そんなことは絶対にありませんね。


ちゃんとその理由が説明できます。なぜかというと、
人間、他人になにかをさせたい時は、その方法は一つしか無いのです。
それは
『みずからそうしたいと思わせること』
です。(澤村翔子さんもこのことをよく記憶しているそうです)

ホセは自分から去って行く気になるわけがない。

だから殺されたわけです。運命を予見できるような女が「このことをするとどうなるか」に気が回らないはずがありません。

というような話しを、演じる人と話しができたら楽しいだろうな、と思う訳です。
以上、説明を終わります。


あと、歌唱についてですが、

ミカエラの安達さおりさん、奇麗な良い声をしています。ご年齢を存じませんが、ミカエラの実年齢の二倍半はあるでしょう。
それにしては声はミカエラにとっても合っていました。通常、日本語のオペラの歌唱というのは何を言っているのか聞き取りにくいものですが、日本語の発音も聞き取りやすくて素晴らしかった。けれども歌い方が古臭いです。あれは「お母さんと一緒」で歌われるような歌い方です。それで自分の世界を築いてこられた実績のある人なのだということは伺われましたが、他の新しい世代の歌手の歌唱とギャップを感じます。

後の主役三人は文句なし。三人のリサイタルのようでした。

残念なのはフラスキータ(佐藤優子さん)とメルセデス(杉山由紀さん)です。
その演出がまったくつまらなかった。出番が無い。どっちがメルセデスかも全然分からない。
せっかく若くて有望な歌手を呼んでるのだから、もっと出番を作るべきでした。
この二人が出るから来た人もいるでしょうに。

フラスキータとメルセデスというのは、大抵の演出でも「どーでもいい」役回りになっているものですが、そこへ行くと前述の綾瀬市の市民オペラではメルセデスにソロで踊らせたり歌も歌わせたり、とっても強い個性を与えていました。あんな演出はもう二度と観られないと思います。

杉山由紀さんは、第63回全日本学生音楽コンクール声楽の部で第一位と横浜市民賞を両方獲得した、という物凄い人です。横浜市民賞の選定員を今月の2日にしたばかりなので、あんなに票が割れる賞を両方獲れる人がいるなんて凄いと思います。歌声がほとんど聴けず、とっても残念でした。

佐藤優子さんは、ソロの歌が少しありました。良い声をしています。声量もありました。声音もよく通る声でした。もっと歌わせる工夫が欲しかった。この二人は経歴に「中野市民合唱団定期演奏会出演」とは書かないでしょう。ほとんど何もさせてもらってないし。残念。名前を見かけたらまた伺いたいと思う二人でした。

みんな、頑張れ!




銀座王子ホールで西山まりえさんソロコンサートを観てから、このチケットを買いました。西山まりえさん目的です。
リーベショコラーデ

平日(水曜日)の夜七時から埼玉県の川口、という非常に制限のある日時場所設定ですが完売したそうです。リリア音楽ホールは600席ありますから中規模のホールですが、天井が非常に高く、そのせいで横幅がとても狭いホールに見えます。古楽器演奏にはちょうど良いサイズのためにこのホールを選んだのかも知れませんが、川口は遠いです。この時間にどんな人で満席になるのだろう、と興味が湧きましたが、ほとんどが中高年で、しかもカップル率が高かった。これは西山まりえさんのコンサートと客層が同じ、つまり「アントネッロのファン」が来ているものと感じました。ハイソの方々の高尚な趣味の音楽の場。

と思いきや、やっている音楽はかなりノリノリの華やかで現代的なダンスミュージックで始まった。オルフェオの喜びの場面だから明るい楽しい音楽なのは当然ですが、古楽器でラテン?という意外な楽しい音楽に驚きました。これは良いです。古い楽譜が現代に生き生きと開花しています。アレンジの成果なのでしょう。アントネッロは「聖母マリアの夕べの祈り」を聴いた事がありましたが、新しい印象を持ちました。音楽は楽しくなくちゃ。

しかし、

オルフェオというのは音楽の神様(最初は人間ですが)で、その竪琴の音が草木や岩をも魅了した、とかいう逸話を聞いていたので「どんな音楽を弾くのか」が一番の興味で会場に来た訳ですが、それは「ダンサブルな楽しい音楽」であっては困る訳です。期待するのはそういう音楽では無い。

オルフェオの歌手はちょっとキャラクタが軽過ぎてオルフェオのイメージに合っていないのも気になりましたが、冥界で門番を眠らせてしまうときに弾いた竪琴は、それは、「オルフェオの竪琴の音色」としてとっても説得力がありました。夢のような音楽です。誰が弾いているのか、と楽隊をよく見たら、ハープ(竪琴だからハープが担当するのは当然かも知れませんが事前に気がつかず迂闊でした)。演奏者は西山まりえ。あ~、やっぱり、、、とため息が出ました。この音楽は彼女にしかできないだろう、と思いました。人間の気品が違う。他の人にはできません。アントネッロの音楽の高貴な雰囲気も、この人の存在によって強化されている事は間違いがありません。同行のにゃーの解説によると「女性はああいう気品を持つ人に憧れる」「その人たちが聴衆のかなりを占めているのでしょうね」とのことで、王子ホールのときのお客さんと本日のお客さんのかなりが共通の雰囲気をもっていらっしゃるのを見ても納得しました。このお客さん達は「古楽演奏家のファン」が多数で「歌手のおっかけ」という人は少ないように思いました。というより、歌手は今回は音楽に比べて目立っていなかった。というより、カウンターテナーの彌勒忠史さんが役としては「メッセンジャー」なのに目立ち過ぎて他の歌手の印象が飛んでしまいました。彌勒忠史さんはひとりダントツに迫力と存在感があります。なのに三幕では出て来ず、ちゃっかり着替えて客席に座ってるんだもん。

このオペラは魅力的なヒロインが出てこない(冥界まで夫が追いかけて来る女性なのに出番少ない、出ても顔を隠してる)ので、他に魅力的な役者がいなければ劇として面白くないのにオルフェオは容姿が素晴らしくはないし彌勒忠史さんがオルフェオをやれば良かったのにと思いました。音楽的には西山まりえ他アントネッロが素晴らしかった(冥界に入るときの不安感をタンバリンを擦って効果音を作っていたり、とても良かった)けれども、オペラとしては「歌手の個性が彌勒忠史ひとりのために飛んでしまった」くらい演劇的には強くなかった。カウンターテナーが二人出てきたところはなんというか「現実と異なる世界」を感じさせて良かったけれども、「エロス」が足りない。ギリシャ神話と言ったら主役は『エロス』でしょう。(エロスとはエッチとは違います念のため)

エロスというのは「人間の生き死に」に関わる事だから永遠のテーマになるわけですが、それに関連したことを濱田芳通さんが演奏ノートに少し書いていました。「装飾音」の解説のところです。以下全文引用します。

---ここから---
モンテヴェルディの書く「装飾音」を考えたとき、我々は装飾の概念そのものを考え直す必要があるだろう。もちろんこれには17世紀の装飾音全般についても言えることであるが、それは単なる飾り付けにあらず、メロディーのエネルギー感に変化をつける重要な役割を担っている。腰を据えて書かれたメロディーでもただの飾りでもない、言わばアドリヴ・フレーズの断片であると理解して頂きたい。装飾音がそれに続く主旋律に影響を与えることも多々あった。このようなフレーズ的な装飾音を「パッサッギ」と呼ぶ。対して「アッチェント」「トリッロ」「リバットゥータ」「トレモレッティ」「グルッポ」など部分的な装飾音もある。このオルフェオでもそれら装飾音が非常にモンテヴェルディらしいスタイルで使われ、特に主役オルフェオの歌う長大なアリア《大きな力を持つ精霊》では、原曲とモンテヴェルディ自身の手になるゴージャスな装飾例が2段譜で同時に記されている。
パッサッギはテキストの意味合い的な理由から書かれることもある。それは我々でも理解できる様なもの、例えばアリア《大きな力を持つ精霊》の「向こう岸」というところで歌われる、本当に川を飛び越えるような音型などのほか、現代人にはわからないが当時の人なら理解できたであろう、修辞学的な約束事によるものも見られる。このことに関しては、それぞれの単語に隠されたエロチックな裏の意味を知ることも重要なポイントである。(例えば「partire(出発する)」「morire(死ぬ)」「fuggire(逃げる)」「sfogare(打ち明ける)」「augellin(小鳥)」etc.)これらを紐解いていくと、作品全体にも隠されたエロチックな意味合いや教訓までも見て取れるのだ。このことは個人的には17世紀の音楽を語る上で最も大切なことのひとつだと思われるのだが、現代の日本では猥褻過ぎて「アート」と認識してもらうことが難しい。
---引用ここまで---

繰り返しますが「エロチック」は「猥褻」とはまったく別のものです。

音楽にブレンドされたエロスについてはいずれ濱田芳通さんにどこかで語って戴くとしてオペラとして私が「足りない」と感じたエロスというのを少し語らせて戴きますと(不要な方はここまでお読み戴き有り難うございました)、まず冥界の主プルトーネの奥さん、プロセルピーナがプルトーネの決断に対してこう言います。

「略奪されてここに連れてこられたけれど、今、あなたの心のやさしさに触れて、私はここに来て良かったんだと思う」(細部違うかも知れませんがだいたいこんなこと)

プルトーネがオルフェオに条件を付けてエウリディーチェを連れて帰って良い、と言ったことで心を動かされた訳です。プロセルピーナは略奪された奥さんだったわけで、要するに一方的なプルトーネの勝手にされた立場です。一方、エウリディーチェというのは、何がそんなに魅力なのか全然語られませんがオルフェオに決死の勇気を持たせて自分に会いに来て更に連れ帰って二人の未来を続けよう、と恋乞われる、プロセルピーナとまったく違う、女性のシアワセの極限にいる人である。(女性ならなりたいのは1000%プロセルピーナではなくエウリディーチェであろう。なれるかどうかは別として)

どうしてエウリディーチェはそこまで男にさせるのか?
別に美貌でなくても良いんです。(森麻季さんを呼んでこなくても良いのです)しかし、「エウリディーチェの魅力」の説明が足りない。そこには『エロス』の要素が絶対にあるはずなのです。だって、オルフェオは命懸けるんですもん。

同時に、プロセルピーナの哀切あるアリアを聴くと、「一方的に愛された女でも幸せを感じることはできるものなのだな」と分かって、ここは感動します。幸せには「一定の条件というものは無い」と分かるからです。そこで疑問が湧くのは「エウリディーチェは幸せなのか」です。みんながそれが当然のように思ってそこを素通りしてしまう。しかし劇中で冥界のエウリディーチェの感情は一切表現されません。肉体が無いからアリアも歌えない(にゃー発言)、のかも知れませんが、それではどうしてオルフェオを最後まで信じられなかったのか?今日の演出ではそこを書き換えて「オルフェオが不安になったから」としていましたが、オリジナルは(オリジナルなのか不確かですが)違います。そういう女性のどこがオルフェオをそこまで惹き付けたのか。説明が足りません。

結局二人の絆はほどけてしまって、オルフェオは二度とエウリディーチェに会うことは無くなる。そこは特段の悲劇ではないと私は思う。「愛した人と別れる、二度と生きて会うことが無い」という経験は、人間は誰でもするものです。誰でも、します。あなただけじゃない。オルフェオも私もです。そんなものは、死ぬほどのことではありません。そうしたらオルフェオはどうするか。「別のエロス」を求める筈です。だって、生きることとはエロスの実現ですから。そこにニンフが登場する訳ですが、可愛らしいけれど、そしてちょっと肌が露出する衣装でしたが、劇的ではなかった。私だったら、裸・・・猥褻と取られるので書きませんが、エロスが不足してました。お上品でした。仕方ないです。

で、オルフェオは「幸福が永遠に続く世界で永遠の命と永遠の喜びという祝福を受けるために」天に召される。

それはシアワセか?永遠に生きたいか?エロスは永遠じゃないから素晴らしいのじゃないのか?美人は必ずおばあさんになる。美は必ず翳り滅する。花は必ずしおれる。だから生が美しいのである。オルフェオの求めるエロスは、永遠に手に入らない事になったわけで、そこのところの追求がまた足りなかったと思うのです。本当は濱田芳通さんはもうちょっと違ったものをしたかった、んじゃないかなと思う舞台演出でした。音楽は最高でした。

しかし圧倒的に印象に残ったのは西山まりえさんの「オルフェオの竪琴の音色」でした。一生に一度の聞き物でした。素敵でした。それを奏でる彼女のダイヤモンドの素晴らしいネックレースがまた音楽の美を引き立てていました(ご本人ももちろん)。もう一回、このシリーズはあるそうです。お見逃し無く。


リーベショコラーデ
今年で67回目という歴史あるコンクールの「横浜市民賞」選定員ににゃーと二人で応募したら二人とも採用されたので行ってきました。決勝戦です。

ここまで予選を勝ち抜いてきた歌手はこちら。10人です。
$リーベショコラーデ


どの人も上手!

この人が一位になってもおかしくない」と思う人が五人はいました。
もう、二期会の若い歌手にひけをとらないくらい上手。二期会研修所なんかにお金払って行く必要無いんじゃないの?と思います。

一位から三位は専門の「審査員」が選びます。審査員は9人くらいいました。
横浜市民賞は、私たち「選定員」が自由に選びます。選定員は25人くらいいました。


こうみんな上手いと、どこで差がつくか、色々考えました。
「好み」でしょうけれど、『共通の、好まれる要素』というものがどこかにあるはず、と。


横浜市民賞は、25人が一票ずつ投じる(どうしても一人に絞れない時だけ次点票を投票できますが基本は一票)わけですが、25票は割れました。バラバラ。票が入らなかった歌手はいなかったのではないでしょうか。【主催者から投票の詳細は公開してはいけませんと言われたので割愛】
トップと二番目の人は一票差だったように【主催者から投票の詳細は公開してはいけませんと言われたので割愛】
私は五十嵐麻実さん(6番の歌手)に投票しました。そうしたらにゃーも彼女に投票したそうです。声が一番良かった。深みのある声をしています。なのに、審査員選定の一位から三位には入りませんでした。何故か、を入賞者を見てから考えました。


皆さん、誰が一位になっても良いくらい技量は高い。僅かな差は「ステージ姿」「歌い方」「選曲」だと思いました。「ステージ姿」というのは要するに見栄えです。顔、化粧、ドレス、立ち振る舞い。一位は斉戸英美子さん(9番の歌手)でした。この人は舞台姿が堂々としていて「この人が第67回全日本学生音楽コンクール一位の方です!」とのちのち紹介するのに十分です。「華」がありました。因みに、横浜市民賞は梨谷桃子さん(7番の歌手)でしたが、この方は「ステージ姿」つまり「顔、化粧、ドレス、立ち振る舞い」がとても良かった。けれど入賞はしませんでした。

「歌い方」については、ほとんどの人に共通でしたが、「全力で歌い過ぎ」と感じました。奥村育子さん(3番の歌手)の歌(ナクソス島のアドリアネから~偉大なる王女様)はものすごい技巧の必要な長いアリアですが、素晴らしい技量で歌い切りました。二期会の歌手にもこの歌を歌いきれる人はそういない、と思わせる歌唱でした。しかし、あまりに全力で歌っているので疲労感を覚えるのです。他の歌手も「声量全開」で聞かせる歌唱が多く、疲れました。もっと「緩急をつけて、弱音を聞かせる」歌唱をしたらどうなのだろうか、というのが感想です。奥村さんは技巧的には10人の中でもっとも難しい曲を大変良く歌い切りましたが、優勝しませんでした。(二位)

「選曲」については、「自分にもっともあった曲」を選んだのだろう、と想像しましたが、そこは分かるけれどコンクールで歌うのにはどうかと思わされる選曲がありました。個性に合っていたのは五十嵐麻実さん(6番の歌手)の「アンナ・ボレーナから~私の生まれたあのお城」などが良かったので市民賞に投票しましたが審査員の票は集まらなかった。それは既述の二つの要素のうち「ステージ姿」が負けていたからでしょう。お化粧してないし、素朴過ぎてました。「華」が足りないのです。ビジュアルは大事です。川口真貴子さん(1番の歌手)は「ステージ姿」は私的には一位でしたが、シェーンベルクとマーラーという選曲が地味過ぎです。ドイツ語が得意な人のようですが、イタリア語の明るい歌をコンクールでは歌ったらどうだったろうかと思いました。川口さんは三位に入賞しました。「選曲」が違ったら一位だったと思います。


全般的に、大学生なのに上手過ぎました。このあとどうするのだろう、と考えてしまいました。二期会研修所などで一年過ごす必要ありません。勉強するなら海外に行くしかないでしょう。しかし、海外で勝負できる人がプロの中にもほとんどいない中、どういう道を切り拓いて行くのだろうか、この若い人たちの未来を案じるとともになんとか応援してあげたいものだと心から思いました。

一位 斉戸英美子さん(大阪音大大学院)
二位 奥村育子さん(愛知県立芸大大学院)
三位 川口真貴子さん(武蔵野音大大学院)、井出壮志朗くん(武蔵野音大大学院)

横浜市民賞 梨谷桃子さん(大阪音大4年)
入選 和田朝妃さん、伊藤友祐くん、塚村紫さん、五十嵐麻実さん、増田勇人くん 
(以上10人)

2日続けてフィガロの結婚@藤沢市民オペラに行ってきました。
本日はキャスト総入れ替えでケルビーノは青木エマさんです。

先日も書きましたが、昨年(2012年)日生劇場50周年記念講演の「フィガロの結婚」のケルビーノは堀万里絵さんと澤村翔子さん(直前に降板)でした。

ぴったり一年後の今年、二期会から選ばれたのは同じ堀万里絵さんと、今回初めての青木エマさん。

ケルビーノは年齢を重ねたら演じられない役ですが、お母さんになった歌手にはもうこの役は回って来ないでしょう。澤村翔子さんのケルビーノは実現しないまま世代交替したんだなと、しみじみしてしまいました。

さて、この公演はいろいろ思うところがあるのですが、長くなるので青木エマさんのケルビーノに絞って書いてみたいと思います。

「恋とはどんなものかしら」を前日の堀万里絵さんとはまったく違う歌い方をしました。
伯爵夫人に「歌ってごらんなさい」と言われて、喜び勇んで笑顔で歌い始める。

そこはそれで大変結構なのですが、この歌というのは、歌い初めと歌い終わりとではケルビーノの感情はまったく別のものになっている筈です。ケルビーノは、最初はルンルン気分ですが、だんだん自分の内面の吐露が始まって、最後は切々と気持ちを訴える状態で終わる。そういう歌の筈です。ケルビーノは、歌い初めと歌い終わった後では、別人になるのです。

そこを前日堀万里絵さんは強烈と言えるほど変化をつけて歌いました。(ルンルンでは始まりませんでしたが、その狙いは正しいと思いました。「ルンルン」は堀さんの個性ではないし)

青木さんはその感情の切り替えのところが不十分だった。完全「優等生の卒業記念アリア歌唱」で、歌は非常に上手だけれども、演技の表現の部分が足りない。(補足:青木さんは「恋する喜び」の表現は素晴らしいが「恋する苦しみ」の表現が足りなかった・・・苦しみの経験が無いのかも知れません。美人だし。)

何度か書いてますが、人間、経験していない事を理解するには相当な想像力が必要です。演技の上手い人は、そういう経験の引き出しがたくさんある。しかし、すべての経験を歌手がしている筈がありません。オペラのヒロインは波瀾万丈な人ばかりですから、そんな経験をすべてしている人なんているはずがありませんし、している必要は無いのです。大事なのは「想像する力」です。これは、経験の無い人でも経験をカバーすることができるようになる唯一の武器です。

青木エマさんは歌は非常に上手です。しかしお嬢さんぽさが強くあります。あの美貌でスヌーピーのメモ帳なんか使ってたりしたら似合いません。年齢相応の努力をして「経験していない事を想像できるちから」を身につけるよう、精進して欲しいと思います。歌手として期待できる人だからです。

精進の方法は色んな世界の人と付き合う事が一番ですが、だいたい、歌に限って言えば今の時代は優れた先人がどんな歌を歌っていたかを勉強するのはカンタンなはず。研修所の先生や師匠の言う事ばかり聞いていたらダメです。自分の耳が一番の先生なのです。

frederica von stade voi che sapete
私的にもっとも感動する歌唱はこれです
ケルビーノは、歌い初めと歌い終わった後では、別人になる、という事がよく分かる筈。

フレデリカ・フォン・シュターデはこのとき28歳。
軍服が今回のと似ているのは偶然か。。。

日本語字幕つきで、意味をよくつかんでみましょう



青木ケルビーノ以外について書きますと、今回のプロダクションは今ひとつ演出が退屈しました。実績のある人による演出らしいですが、なんだか「歌手の皆さん、実力のある方ばかりだから、自由にやってみて下さい」
ときっと言ったのではないか、という内容でした。統一して目指すものが感じられないからです。
例えばこれは「喜劇」なのに、ちっとも笑えるシーンがありませんでした。
「ここ、笑っていいんだよね?」と思いつつ、会場はシーン。
オペラは芸術だから笑うもんじゃない、という空気が会場を占めていたように感じました。

一生懸命"コミカル"(喜劇)に徹していたのはスザンナだけ。(半田美和子さん)
周りが同じ呼吸を持っていないため(そういう指導が無かったのだと思う)、かなり空回りしていたのが気の毒でした。この人が一番「何をするべきか」を考えて演じていたように思いました。
あとの歌手は上手いけど「出番だから歌って、引っ込む」だけです。だから舞台が退屈してしまう。観客をひっぱる力が無かった。そこへ行くともっと小規模だったけどミラマーレ・オペラの「コジ・ファン・トッテ」は、観客を引っ張ってちっとも飽きさせなかったのは立派でした。歌はどちらも同じように素晴らしいのに、舞台としてどうかというと明らかに「フィガロの結婚」は劣っていたと思います。(歌は良かったです。スザンナと伯爵夫人のデュエットは一流でしたし、久しぶりに観た古瀬まきをさんのバルバリーナもとても良かった。青木エマさんももちろん上手でした)


2日続けて観て、ケルビーノが違うだけでこんなに印象が違うんだ感を新たにした舞台でした。あとは、会場の観客の「オペラ待ってました!熱」が出演者の熱よりまさっていて、舞台が観客負けしていたとにゃーは言ってました。意味が深過ぎて私にはよく分からないお言葉でしたが。。。

リーベショコラーデリーベショコラーデ
11月23日土曜日14:00開演、因縁のフィガロの結婚を藤沢まで観に行きました。

因縁というのは一年前の本日(11月23日)、日生劇場50周年の「フィガロの結婚」を澤村翔子さんが降板したちょうどその日なのです。あれから一年の間にいろいろありました。以下割愛。

この演目については色々ありますが、簡単に書きます。

(1)好きではない
   伯爵が処女権をどうのこうのというとんでもないストーリーなので

(2)子供に見せていいのか
   「本物のオペラが町に来る」ということで藤沢市は宣伝してますが中学生に見せていいのか
   (観客に子供がかなりいましたけど)

以下割愛。


それでも観に行ったのは日生劇場のが評判がちっとも良くなかったが堀万里絵さんのケルビーノだけはネットで誉められていたので同じ役で出演されるなら観てみようと思ったからです。

正解でした。感想は色々ありますが、堀さんのことだけ、書きます。

「フィガロの結婚」というオペラはケルビーノ次第で非常に印象が変わる演目と思います。他の役はどういじっても「頓馬な伯爵」「優雅なお妃」「動き回り歌い回るスザンナ」「本当に主役なのかフィガロ」です。(異論もあろうかと思いますが割愛)

このオペラのキーパーソンはケルビーノだ、というのが持論な訳ですが、(このオペラの中でもっともよく歌われるアリアは「恋とはどんなものかしら」by ケルビーノでしょう)、堀さんケルビーノはこのオペラの主役かと思わせるほど舞台を支配していました。非常に印象強いケルビーノで、逆に言うとケルビーノだけ「現代的」でその他は「古くさい」存在の演出だったと思います。

あの堀さんのプレゼンス(出で立ち姿)は他の人と全然違う。まるでアニメ「ワンピース」に出てきそうな、「動くフィギュア」です。非常に現代性を感じさせて異色なのです。もともとケルビーノというのは「性」を感じさせない中性的な役回り(それは年齢が子供だからではなく女性に演じさせるからです)ですが、堀万里絵ケルビーノはとっても「性」を感じさせます。堀さん自身が少年の色気と女性の色気を持ち合わせている。それは演出家の方も気がついていることだと思います。「恋とはどんなものかしら」を歌う時の軍服がよく使われる華美な装飾のナポレオンの軍服のようなものではなく本人をより引き立たせるシンプルなものを着せたり、ほとんどネグリジェのような衣装を着せて片方の肩をむき出しにさせたり、男女の性的なアピールが交互に随所に出ていてドキドキさせられました。特に堀さんは『なで肩』ではなくて本当に『少年のような美しい肩』をしている人なので、観ていて「ケルビーノは本当は女性だったっけ男性だったっけ?」と惑わされるほどです。

この堀万里絵ケルビーノ演出はこの公演の白眉だったと思います。

演出ばかりでなく、歌唱についても先日、胸の大きく開いたドレスでケルビーノを歌われてもケルビーノに聞こえないという経験を書きましたが、本日の「恋とはどんなものかしら」はとても素晴らしかった。フィギュアに似合った軍服姿で歌った所為もありますが(ファンは萌えたでしょう)何よりも本人が役に入り込んでいた。目があちらの世界に行っていました。その目が途中で戻ってきて、現実の眼の当たりの世界を見つめて感情が爆発するように涌き上がってくる、という流れがよく表現されていた。これはコンサートでこのアリアだけ演奏しても同じ表現はできないものであるな、と思いました。堀さんはきっと開眼するものがあったことと思います。

この背の高いケルビーノが窓から飛び降りる訳ですが、目撃した人が「フィガロより背が低かった」というセリフを言いますが、あれは失笑してしまいました。そんなことはともかく、こういう独特な個性の歌手さんをどのように延ばして行くか、というグランドデザインを誰がするものなのだろう、と終演後に思いました。ただ「こういう企画がありますから歌手さんを推薦して下さい」と東京二期会に「手配を依頼する」ものなのでしょうか?それでは「歌手を育てる」という事にはなりません。堀万里絵さんは若手の中でも強力な個性を持った人です。「舞台を支配するちから」を持っています。誰がどのように育てるものなのかな、日本にも劇場システム(劇場が専属歌手を育てるシステム)があればいいのになぁ、などと思いながら家路につきました。


※なお、カーテンコールでは堀さんは出演者の中でもっとも短い時間しか出ず、すぐに次の人に譲ってしまいました。もっと長く拍手を受けるべきなのに、あれも人柄なんだろうなぁ。人生三度目のブラ○ー!の声をかけ損ねました。(^^;


さて、本日(11.24)は堀さんの仲良しと聞いている青木エマさんのケルビーノを聴きに行ってきます。青木さんは「なで肩」だしフィガロよりもっと背が高いだろうし(笑)いろいろ楽しみです。
感想はまた明日。


リーベショコラーデリーベショコラーデ
木曜日夜18:30開演 という事で仕事を終えて直行しました。

このDuoを聴くのは三回目ですが、引き出しのいっぱいあるDuoさんです、感激しました。生涯二度目の「ブラボー」を叫んでしまいました。(一回目は神奈川県民ホールでのイタリアから来たオペラ団の「椿姫」で代役で歌ったジェルモンの歌唱【説明が長い...】)

もう、言う事ありません。素晴らしいです。年に四回程度しか拝見できないのが至極残念。

先日、熟女になってしまった歌手のケルビーノはとても聴き辛いと書きましたが、本日は塩谷裕子先生【歯医者さんだそうです】(ソプラノ)は、アンコールでムゼッタのワルツを歌いました。聴けました~。ムゼッタなんです。コンサートの初めは塩谷先生、ちょっと喉の調子が良くなかったみたいですが、アンコールまでだんだん調子を持ち直してよく歌って下さいました。
おいくつか存じませんが、二十代ではないでしょう。そう言えば、マリア・カラスが来日したとき、もう引退直前でしたが「私のお父さん」を歌ったカラー映像を見た事があります。本人(マリア・カラス)はその出来栄えが非常に不満だったそうですが、あの、生涯何度も歌った歌を、少女のように歌ったのは感動したものです。
本当は、歌に年齢は関係ないのかな、と思い直す経験を致しました。塩谷ムゼッタ、良かったです。調子悪かったでしょうに、有り難うございました。


先日、山岸茂人さんのピアノ伴奏が森麻季さんとの長い付き合いもあってか、とても素晴らしかったという話しを書きましたが、高橋光太郎さんのは『伴奏とはこういうものという鏡』です。
ピアノ弾きながら、塩谷さんがどういう歌い方をするかを見て、それに「合わせる」のではなくて、「それと両立する演奏」という、独立して演奏しても芸術として存在するがしかし歌があってこそ歌もピアノ演奏も生きる、という演奏です。伴奏のお手本、というか、協奏曲のソリストに合わせる指揮者兼オーケストラ、そういうのが高橋光太郎の演奏です。

(楽譜を弾きこなすのにいっぱい一杯の人や、歌手より目立つ伴奏をしてしまう人もいますが、一度聴きに行かれるようお薦めします)

高橋光太郎さんのピアノは、前にも書きましたが、タッチが非常に柔らかいというのか、打鍵が「指をかざすだけで鍵盤が任意の深さまで任意の速度で下がる」ようなピアニストなのですね。指をかざすだけだから、演奏が非常に滑らかです。しかも、指一本一本、鍵盤を下げる強さが任意に変えられるので、どのメロディラインを際立たせようとしているのかがとても良く分かります。
本日は高橋光太郎さんのベートーベンを初めて聴きました。高橋さんはショパンが素晴らしいですが、ベートーベンをベートーベンするピアニスト(日本語が変ですがそうとしか言いようが無い)だと分かりました。「悲壮」を弾かれました。あまりに素晴らしくてソナタの間に拍手がいっぱい入ってしまったのは曲想が分断されてしまって残念に思いましたが高橋さんは笑顔で立ってお辞儀をしていたのは偉かったと思います。

リストも良かった。同行したにゃーは「3つの演奏会用エチュードより ため息」が非常に良かったと言いました。最後はショパンです。「スケルツォ第2番変ロ短調作品31」この曲は何度も色んな人の演奏を聴いた事のある超有名曲ですが、まったく新鮮に聴きました。「こんな曲だったですか・・・!」です。高橋光太郎さんは私の知る限り、日本で最高のショパン弾きです。女性がショパンのフォルテを打鍵すると「バシャーン」と聞こえるものですが(誰とは申しませんが)、やはり男性の筋力なのか高橋さんの技術なのか鍛錬の成果なのか生来の才能なのか多分これら全部でしょうけれど、「強く弾いても音が割れない」ように聞こえるのです。ショパンには重要な事です。(ショパンじゃなくてもそうですが、割れるような音を弾いた方が良いという曲もありますから)

どんなに強い音でも、高橋さんの音は「指をかざした位置の鍵盤が勝手に任意の量だけ任意の速度で下がる」という音なのです。ある音の鍵盤は75%まで下がり、次の音は80%まで下がる。これぞ「ピアニストの技術」です。【これは比喩です。実際は叩くスピードと強さその他もろもろの要素のトータルとして一つの音が決まりますから】

これだけの水準の演奏会に300名弱のお客しかいない、というのは本当にもったいない事だと思います。私は余命数年と思っていますが、このお二人の演奏会には、行ける限り、全部の演奏会に行きたいと強く思います。CDなんかの録音では決して経験できない世界がそこにはあります。

みなさんも、ぜひどうぞ。 次回は2014年4月17日(木)18:30開演@横浜みなとみらいホール お問合せヴィーヴル・ワイ 042-576-6545 mrbiibaa753@yahoo.co.jp
ヤフーメールは届かない事故が多いですから電話を推奨します。

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帰り道ににゃーと話していて思ったのですが、この演奏会の入場料は全額「横浜ダルク」という薬物依存症ケア施設に寄付されるんだそうです。そうすると、「高橋さんはどうやって収入を得ているのでしょう」がにゃーの気になった事です。
学芸大学卒ですから、教員の免許は持っていると思われますが、高橋さんは「人にものを教える」タイプではないでしょう。何かに優れている人というのは、常にその先を求めて修行しているから後ろを振り返る時間はありません。「師匠の技術は教わるものではなく見て盗むもの」というのは実はそういう意味です。教える、というのはまったく、何にも、「自分の役に立つ事にはならない」ものなのです。教えるヒマがあったら、自分の疑問を追求したい筈です。(それは私がそうですから間違いありません)

だから「先生」ではないはずです。

プライバシーですから知る必要はありませんが、「人にレッスンしているような音楽家はもう自分の芸術を追求している人ではない」という話しをにゃーとして、家路を辿りました。


※以下にパンフレットを掲載しますが、曲の解説をお二人が書いているんです。
これがまた、良いです。是非お読みになってみて下さい。「演奏以外に説明する事は無い」と言う某メゾソプラノ歌手のような人もいますが、私は「それは言葉で語る能力を鍛えていない怠慢に過ぎない」と思います。

リーベショコラーデリーベショコラーデリーベショコラーデリーベショコラーデ
こちらの私の分のチケットをにゃーに譲って、彼女は帰国子女のキノコと二人で行ってきたので感想を聴取しました。

$リーベショコラーデ


ロシアの三大バレエ団は
ボリショイ・バレエ団
マリインスキー・バレエ団
キエフ・バレエ団
ですが、これらのバレエ団はS席7500円ではとても観られません。

モスクワ・クラシック・バレエ団というのは初めて聞きましたがS席7500円はお得なので買ってありました。全幕もの上演のための来日はおよそ20年振りだそうです。

以下、にゃーキノコのレビュー。

★オデット/オディール(エカテリーナ・ベレジナ)は上手だったけど陳(ひね)鳥だった・・・関西弁らしい(意味不明)。細身なのに筋肉が割れてて、踊りがとっても滑らかだったのはあの筋肉の所為と思う。

★ジークフリート王子(アルチョム・ホロシロフ)はドスンドスンとした踊りで気になったけど、舞台を支配する雰囲気は持っていた。踊りは上手くないけど、あれができるから主役になったんだと思う。

★白鳥の群舞は揃っていなくてロシア語でお互いを罵っているむかっのが聞こえた。(前から2列目の席)

★道化師(ウラジミール・ヤコヴレフ)はとっても上手だった。背があればジークフリートになれたんでしょうね。

★四羽の白鳥はとても良かった。日本人が二人もいた。(マイカ・成澤ガリムリーナ、吉田むつき)

★ヴェニスの踊りも日本人が踊っていた。(吉田むつき)外国で頑張っている日本人を観ると応援したくなる。

★最後はハッピー・エンドじゃない演出だった。とっても良かった。


「白鳥の湖」は演出がいろいろあって、今回のは改訂演出 N.カサートキナ、V.ワシリョーフ版だそうです。最後に二人とも死んでしまうのがオリジナル(1895年プティバ/イワーノフ版)なんだけど、社会主義政権下のソビエトでは「男女が力を合わせて悪に立ち向かい、打ち負かす物語への変貌を余儀なくされた」(出所:小学館「華麗なるバレエ第一巻」16ページ 守山実花)

世に残る物語というのは、どこかに「不条理」というものを含んでいるものです。
白鳥の湖も、二人が結ばれずに死んでしまう、というところに芸術の命があるのである。
悪魔に打ち勝ってハッピーエンドなんて、あまりに嘘くさい、少女向けのおとぎ話に堕している演出は好きではないがそういう演出の方が圧倒的です。(売っているDVDでも八割以上がそれ)

そういう中で二人とも救われない演出をしたのは偉かった。技量が高くないバレエ団でも観客に迎合せず自分たちのやりたい事をやったというのは偉かったと思います。「白鳥の湖」は、最後の不条理にショックを受けて、約束していた彼女との夕食もキャンセルして落ち込んで家に帰る、というのが王道なのである。

なのににゃーキノコは、鎌倉から戻った私と一緒に豚しゃぶを一キロも食べたのである。女子は感じ方が違うのかなぁ・・・。

$リーベショコラーデ


※後で知りましたが、この公演はオーケストラがつかず録音だったそうです。
チケット売る時にそのように説明して欲しいよなぁ。