リーベショコラーデ

リーベショコラーデ

thoughts about music and singers

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爆弾低気圧の影響もすっかり消え、蒸し暑いくらいの金曜の夜公演に行きました。



オペラ全3幕 <舞台上演日本初演>
日本語字幕付き原語(ドイツ語)上演

原案:フーゴ・フォン・ホフマンスタール
台本:ヨーゼフ・グレゴール
作曲:リヒャルト・シュトラウス
会場:東京文化会館 大ホール
公演日: 2015年10月 2日(金) 18:30
           3日(土) 14:00
           4日(日) 14:00

指揮: 準・メルクル
演出: 深作健太

装置: 松井るみ
衣裳: 前田文子
照明: 喜多村 貴

合唱指揮・音楽アシスタント: 角田鋼亮
演出助手: 太田麻衣子

舞台監督: 八木清市
公演監督: 大野徹也

キャスト 10月2日(金)
ユピテル  小森輝彦
メルクール 児玉和弘
ポルクス  村上公太
ダナエ  林 正子
クサンテ  平井香織
ミダス  福井 敬
ゼメレ  山口清子
オイローパ 澤村翔子
アルクメーネ 磯地美樹
レダ    与田朝子
4人の王&4人の衛兵
前川健生
鹿野浩史
杉浦隆大
松井永太郎


結論を先に書きます。
私は東京二期会の公演には厳しいように思われているようですが違います。
今回の公演はとても良かった。あと二日あるので推薦します。チケットはまだあります。
以下細部。

■ オーケストラ
非常に良かった。
準メルクル(指揮者)さんを初めて見ましたが、この音楽に合っている人に思います。日独ハーフの男っていうのはこういう物悲しい風貌をしているのが共通しています。ウチの息子も同じ。息子の友達の日独ハーフ男の子たちもみんな同じ。リヒャルト・シュトラウスの音楽って、人生に対する諦観というものが感じられて、そういう音楽にこの指揮者はとても合っているように思う。何調だか分からない複雑な音楽に、人間性が合っているのだと思います。凡庸な指揮者にはこの音楽は奏でられない。明るいイタリアンには同じことはできない。

■ 歌手
ソリストはダナエ(林 正子)とミダス(福井 敬)が圧倒的に良かった。
林 正子さん、初めて見ましたが蝶々夫人のように全幕ほぼ出ずっぱりで複雑なアンサンブルもたくさん出てくるのに最後まで声量も弱音のコントロールも衰えず、素晴らしかった。表現したいことがダイレクトに見る者に伝わって来る。中1日でもう一回歌えるものなのか心配なくらい燃焼していた。そういう姿を、観客は求めているのです。この人は終わったあとに「まだまだ反省点がある」などと言わないでしょう。そんな事を言う人はプロじゃないのです。あとは喉を壊さないよう希望します。

福井 敬さん、実は初めて見ました。ミダスの歌手の名前を知らないまま聴いていてその圧倒的な歌唱に名前を覚えようとしたら福井 敬さん。この人が福井 敬さんなのか。。。神奈川フィルの「オテロ」で見なかったもう一組のほうのオテロが福井 敬さんでしたが、両方のオテロを見ても良かったなぁ、と思いました。はっきり言ってユピテルより格上の人間に見えました。(実際物語的にはその通りなんですが)

■ 演出
事前に色んな記事を読みましたが、高田正人さんの解説ブログがたいへん役に立った。あれがなければほとんど理解不能の演出がいくつかありました。あんな記事はそもそも主催者が公開しなければならないのに、一回しか舞台にでない高田さんは偉いと思う。そういうところが東京二期会のダメダメなところ。やってることはやってるんだけど、才能が無い人がやってるからどれもこれも素人以下のものしかできない。(YouTubeのインタビュー映像もダメダメ)
(高田さんの出る日はスケートのJapan Openがあるので見に行けませんでした。高田さんゴメンナサイ)

で、演出のちからがどれほど今回の公演に貢献したかと言うと、私は「音楽そのもののちから」と「ソリストの熱演」でほとんど決まったと思います。演奏会形式でしても十分成功だったでしょう。けど、高田記事を読んでないと分からない演出というのはダメだと思う。もともと日本人にはほとんどギリシャ神話なんか縁が無いわけだし、三幕に突然現代の衣装で出てくるメルクールとはいったい何者なんだ。。。と誰しもなるでしょう。表現したい事がダイレクトに伝わって来る、そういうものが一流。説明など必要の無いもの、それが一流だと思う。

舞台装置はたいへんよかった。舞台を縦に立体的に使って、天井にオクルスを作って天上界との通り道に見せたりベッドの天蓋にしたり、西洋建築に知見のある人の提案に違いありませんがシンプルでお金もかかっていないのにそれを効果的に使っていました。(三幕では天上界との繋がりが関係なくなるのでオクルスをちゃんと隠していました)
舞台装置は松井るみさんという人だそうです。名前を覚えて他の作品も見てみました。この人は天才だと思う。

舞台装置は良かったけれど、小道具はことごとく良くなかったと思います。

まず、一幕の「ポルクス王の金の冠」です。遠目に見てもあれはボール紙です。嫌な予感がしました。

続く「黄金の雨」
ここは処女のダナエがこんなことを言うのです。
「黄金の雨に濡れて私の花が咲いた」
これは、、、『フィガロの結婚』で「喜びよ 遅れずにやって来て」というスザンナが歌うアリアの歌詞「いらして愛しい人、茂みの中へ」に匹敵するオペラ界最大のエロチックな歌詞ではないでしょうか。この黄金の雨のシーンはチラチラと少ない金色の紙がオクルスから落ちてくるだけ。。。エロスが足りない。ここはもっともコケティッシュな視覚的演出が必要だったのに。「コケティッシュ」という言葉は多くの日本人が誤解して「可愛らしい」だと思っている単語ですが、正しくは「エロイ」なのです。しかも、もともと品の無い女が何をしてもコケティッシュにはならない。そのことをよく理解しているのは赤池優さんで、あの清純さがジュネビビアンを着て歩いているような人がパーティーで知り合った男(友達の夫)に「ねぇ二人だけでそっと別の部屋へ行きませんこと?」と歌うのを「コケティッシュなタイプ」と言っていましたが(ダナエの愛とは別の公演の話です)、そういうことです。そもそもダナエは処女なんですから、そこを強烈にコケティッシュに描くのが演出家の腕の見せ所だと思うんだが、できていなかった。

「黄金のバラ」
赤いバラを触ると黄金のバラに変わる、というシーン。黄金のバラが元の赤いバラよりちっちゃかった。下手な手品を見ているようでした。

「黄金に変わるベッド」
照明の具合なのか、黄金色に見えず。(わたしの席の位置の所為かも知れません)

「ダナエに贈った衣」
あれは衣装担当が提案したのだと想像しますが「クリムト」まんま。観客に分かりやすさを狙ったのかも知れませんが、私は「工夫が無い」と思う。パクリに感じる。にゃーは「オリジナリティが無いから衣自体が偽物に見える」と。同感します。

衣といえば四人の女の衣装が舞台となんら色彩的に合わないのが大変ひっかかりましたが、これもクリムトからまんま持ってきたものだと知りました。

キノコのようなヘアスタイルもそのまんま。姿形としてはさすがにクリムトデザインでインパクトがありましたが、色彩的には舞台との調和がとっても無かった。ただの「変な模様の服」にしか見えず。

「最後に天上から落ちてくるお金」
あれはお札だったのでしょうか。にゃーは「葉っぱがお札に変わるんだと思う」と言っていたが葉っぱにも見えず、火事の紙の燃えかすが落ちてきたのかと。しかも量が圧倒的に足りない。

「ユピテルが去るときの火薬」
たぶん、事故で不発だっただけかと思いますが煙も火花も足りませんでした。

「女性がみんなかけている変な丸メガネ」
意味が想像できませんでした。
にゃーは「お金に目が眩んでいる人間のしるしじゃないか」と言っているがそれは眼鏡をかけている人に対する侮辱だし、四人の女の中でオイロパだけ眼鏡をかけているのは何故なんだ?誰が誰だか分からないから目印にかけさせたのか?
意味不明でした。わたしの理解力が足りないだけかも知れません。

小道具の細かいことは捨て置いても良いのですが、「ユピテルが人間界を破壊した理由」=「ダナエに振られたから」というのが物語的には受け入れられません。人間の何かの罪の代償というなら分かるが、そんな理由で瓦礫の世界にされてそこから立ち直っていくのが人間の宿命というのは、趣旨が頭の中で繋がらない。しかも演出家は3.11と結びつけたかったようですが、共通しているのは「ガレキ」だけであって、その他にダナエの破壊された世界との関連性を見つけることができません。
しかもメルクールは放射線防護服を着ていてガイガーカウンターを持っている。ということは原発事故もユピテルの仕業?いいえ、原発事故は厄災ではなくて人災でしょう?このすりかえはミスリードを誘う演出であって、私は到底受け入れられませんでした。安直に過ぎます。

それから、「ユピテルが年寄りだから」という演出も受け入れられません。多くの年寄りの観客の反感を買ったでしょう。そもそも台本にそう書いてあったのかどうかが疑われます。なぜかというとギリシャ神話の神々は「不老不死」のはずだから「年寄り」になるはずが無いのです。ギリシャ神話の神々というのは多くの日本人が宗教の神様と混同していますが、かれらは創造主ではないし、ゴッドというのはもともとひとりしか存在してはならないものだから(ひとりと数えるのも許されませんが)、たくさんいろんな神がいるのは一神教のゴッドとは別物なのです。(舞台ではドイツ語でGottと言っていましたが、英語で「ギリシャ神話の神々」のことはimmortalsと言います。「死なないもの」です。因みに「人間」は「mortals」です。「いずれ死ぬもの」です)ユピテルは不老不死だから、ダナエとミダスが死んだあとも生き続けます。つまり2015年の今でも存在している。ダナエとミダスが死に絶えたあとも生き続けて、ユピテルがどうなったか、そのことを現代の演出に取り入れるのも趣のあることだと思いますが、「年寄り」だという演出は誤っていると思います。

結論は私的にはとっても受け入れられるのです。「愛」が唯一大切なものという。
このオペラが書かれた頃はまだ資本主義が発展していなくて、人々がいまほど「お金の呪縛」に捕らわれていない時代ですが、現代の人間はみんな「お金」に縛られています。無いと困る、無いと心配、ある程度はあったほうが無いより良い、その他その他、多くの人がそういう風に思っている。(二期会会員の澤村翔子は「私はお金に困っている方の人間なので」と私に二期会の公演チケット代金(彼女のノルマ)を全額私に払ってくれと言いました。ノルマは嘘だった。他に頼る人がいませんというのも嘘だった。夫は頼りにならないのか? 彼女は芸術家とは呼べないニセモノです。)それを全否定できる思想というのが枯渇しているのが現代です。そこはこのオペラの優れている主張だと私は思う。決して、現実を見ない甘い考えで書かれているものでは無い。お金なんか無くたっていいじゃないか。私は無い。オペラを見に行くぐらいのお金はあるけど、それも無くなっても愛するものがあればまったく構わない。2000円しか財布に無いときも経験した(それは持っているお金は全部あげたからだ)し、それでもちっとも不幸と思ったことはない。

そもそも、「愛とはなにか」を知らない人が現代にはたくさんいます。「ミダスがあんなにステキじゃなかったら貧乏生活に耐えられるかどうか分からない」などと感想を述べている人もいるが、そういう人は「愛」の意味が分かっていません。「好きと愛するとはどう違うか」を知らないのです。「好き」はただの感情、「愛」とは行動なのです。ダナエは最後にユピテルにも飲み水を与えていた。「与えること」が「愛の本質」というメッセージです。それを分かっていないとこの作品はただの「愛はお金より大事」というおとぎ話でしかなくなるのです。

そういうことを、本当に理解して舞台に立っている歌手がどれだけいるだろうか。高田正人さんは分かっている一人だと思う。ブログの発言を読めば分かります。

奇しくもメルクールとユピテルが第三幕で似たような事を言います。
メ「お金がなくて幸せな女を見た事が無い」
ユ「お金がなくて、困っていないか?」

愛する人がいたら、「お金に困っている」と他人に言う女が果たしているだろうか?
それは「愛を知らない」「愛されていないし愛してもいない」という自白と同じです。



■ 一身上の理由で、この記事を最後にレビューを書くのを終了することにしました。

いままで拙い文章をお読み戴いてコメントを下さったり声をかけて戴いた方々に感謝致します。
4年間有り難うございました。



澤村翔子
澤村翔子
招待券をもらったので日本音楽舞踊会議という聞いたことのない団体の主催するコンサートに行ってきました。
HPはこちら。



盛田麻央さんと小林紗希子さん目当です。

うーむ。会場は五割の入り。ご年配の方多し。
歌手は盛田さんと小林さん以外は年金生活者比率高く。

むかし(2000年頃)、フィリッパ・ジョルダーノという歌手がいてアリアをコブシをつけて歌うのにびっくりしたことがありますが。
こちらは本家本元、アリアを演歌のように歌う団体らしい。。。

最初はにゃーと一緒に戸惑いを隠せませんでしたが次々出てくる年配の歌手がみなさん独自の世界を貫いていらっしゃるお姿を見るうちに「これはなかなか楽しい演し物である」と腹をくくりました。

ブラボーも飛び交い、ここはどこかの宴会場か。。。


盛田さんは初めて聴きましたが抜群に上手。(ここの出演者群のみならずです)
経歴を改めて読みましたが色んな賞を立て続け総なめ。フランス語が得意のようです。こういう人をサラブレッドというのでしょう。育ちも良さそうな人です。

なぜそんな人がここに出ているのか不思議ですが、司会の佐藤光政さんという人は第42回(1973年)日本音楽コンクール声楽部門第1位という経歴の人だそうで、盛田さんが第81回(2012年)の入賞者だから、そのご縁なのか。


小林さん。二期会マイスタージンガーで澤村翔子がいなくなった後にアルトのポジションに入った人ですが、初めて聴きました。サムソンとデリラの「私の心はあなたの声に...」を歌いました。
この歌には私には一家言あって、「高音の弱音」のコントロールがどのくらいできるかで歌手の技量が試される歌です。特に最後のところを「消え入るような弱音」に持っていく人と「声量いっぱいに歌う人」とはっきり分かれますが、前者の代表がオルガ・ボロディナ、後者の代表がジェシー・ノーマンです。最後の高音を強音で歌ってしまう人は、このアリアを分かっていないと思う。それはボロディナの歌を一度聴けば分かります。

ということでこの歌はメゾ・ソプラノの「音楽センス」を計る試金石のような歌ですが(もちろん、私にとっての、です)小林さんは最後の部分を大声で歌いました。歌唱後に司会の佐藤さんにも「スピントの声質」だと言われていましたが、全体にこの人は歌がウルサイです。声が大きいというのとは違う。情感が乗らない。もうちょっと工夫が欲しいものです。私が言うことでもありませんが。

佐藤さんに「スピントの声質で強い喉も持っているからソプラノも目指したらどうか」と言われたら「私は性格がメゾソプラノなのでメゾで行きたい」と答えました。性格がメゾソプラノって、どういう意味なんだろう。謎です。


この団体の来年のコンサートの呼びかけがパンフレットに載っていましたが、声楽はひとり8分程度の持ち時間で参加費用が3万円。3000円のチケットを30枚渡すから参加費は自分で元を取れる、とのこと。つまりノルマ制ですね。東京二期会のチケットは券面の10%が歌手のマージンだそうですが、こちらは100%のようです。募集は10名。

この団体は「年々状況が厳しくなっているクラシック音楽界において、才能、可能性を秘めながらも、音大などを卒業した後、経済的な理由などで、ステージから遠ざかり、才能を開花させることなく終わってしまう音楽家の卵たちの才能を発掘、育成すること」も使命の一つと考えているとパンフレットに書いてあり、その志は結構だけれど「どんな人が集まるか全く分からないコンサート」に出場するのも無謀な冒険だと思います。その例が本日のこのコンサートでは?ふさわしくない人と同じコンサートに出てしまって「この人は何処を目指しているのだろう」と思われる危険もある。実際には35歳過ぎてもそんな印象を持たされる歌手もいますけれど。

「道筋」を示してくれる人の存在が、日本の若い歌手には不足している。
そういう感想を強くしました。

最後までお読み戴き有り難うございました。
山口佳子さんが出る、というので多摩川を越えてはるばる成城まで行ってきました。




山口佳子さんは、2013.8.29 ミラマーレオペラの「コジ・ファン・トッテ」でデスピーナをやったのを観て素晴らしいと思って以来、今回で4回目。もっとも多く公演を見ている人のひとりです。


今回の催しはチラシに説明があるように「皆様のすぐお近く、地域のホールに」オペラコンサートをお届けする、という趣旨ですが、会場には私のようにお目当の歌手さんのために遠方(八王子から来たという人が多かった=山口さんの地元)から電車を乗り継いで、乗り継いで、乗り継いで、やってきた人もたくさんいました。実力のある人にはそういうファンがつくものです。


主催はブリーズノートという団体。
HPはこちら。
歌手が何人かいてコンサートの企画をやっているようです。

今回の歌手(四人)は全員藤原歌劇団の団員。

山口佳子さんは演技が本当に上手。なりきっているところが素晴らしい。東京藝術大学卒。ゲージユツのためには自分を捨てる覚悟を教える良い大学と聞いています。

テノールの所谷直生さんは歌う姿と声を聞いているうちに思い出しましたが、あの綾瀬市民オペラ「カルメン」(2012.6.8)でドン・ホセを演じた人でした。あの気迫迫るドン・ホセの姿を思い出しました。済みません、お名前をあのとき覚えませんでした、、、なにしろ大隅智佳子さんに圧倒された公演だったので。。。

歌手さん四人とも本当に上手。成城ホールというのも天井が高くて木造りで伝統を感じさせる素敵なホール。入場料:前売4500円 当日4800円 学生2000円 <<< 学生チケットがあるのが素敵ですが、学生さんの割合は少なかった。

この四人の演技を見るとオペラの本公演を見たくなるでしょう。ということで後半はハイライト版の「ウェルテル」
一応、こんな「あらすじ」を書いた紙が配られましたが、

字幕が無いのが決定的に困りました。演奏中は暗くて紙は読めないし。

歌も演技も四人とも素晴らしく気合が入っていて一流のプロの舞台でしたが(ピアノも良かった)
ウェルテルという演し物がそもそも暗くて血だらけでストーリーも共感できないので、「何故この客層でこんな暗い演目をするのか」が疑問でした。

それはともかく、「街にオペラを持っていく」というコンセプトは素晴らしいと思いますがお客さんをみると、自分を含めて、やっぱり「オペラが好きな人、知っている人」が「好きな歌手、知っている歌手」が出るならどこにでも見に行く、というのが実際のところなんだなぁ、と感じました。もっとこの人たちの才能を世に知らしめる方策が無いものか、と思います。公演というのは出演者や舞台装置のスタッフばかりで成り立つものではなくて「興行師」(この言葉がなんだかインチキ臭いのがまた問題だが)が必要なんだ、という意識が無いのか、あるいはそういう才能がいないのか。いないことはないでしょう。先日タダ券をもらったので「劇団四季」を初めて見に行きましたが、公演の内容は大したことないのに「団体」の動員があることにびっくり。高校生が観光バスで劇場貸切りで来るんです。オペラでなぜしないんだろう。オペラが長すぎるなら今日のこういう公演だって良いのに。

最後までお読み戴き有り難うございました。
綾瀬でオペラを!の会主催第2回目公演「アイーダ」を観てきました。


9月20日日曜日はヴィラゾンとディドナートの出る英国ロイヤル・オペラ「ドン・ジョバンニ」とどっちに行こうか迷いに迷ってこちらにしました。綾瀬でオペラを!の会は第一回公演が三年前にあって、演目は「カルメン」=私の人生に一生消えない思い出を残した公演だったのです。あそこで初めて大隅智佳子さんを見ました。ミカエラを歌いました。素晴らしかった。名前をメモしました。検索しました。以来、コンサートの追っかけになりました。どんなに素晴らしかったか、YouTubeにあります。


私はこれを100回聴いて100回涙が出ます。



綾瀬市ってどこ?の方がほとんどと思いますが神奈川県の真ん中の平地。綾瀬市市民文化会館はどの駅からも一時間に一本しかないバスで20分かかるという、とんでもない田舎にあります。バスを降りると三年前と風の匂いが同じで懐かしく思いました。名前が変わりましたが、もと綾瀬市市民文化会館。


「カルメン」をここで見てから何度も「カルメン」を見ましたが、ここのカルメン(2012年6月10日)に優る公演を見たことがありません。あのときの芸術監督は石川誠二、指揮は柴田真郁、演出は冨士川正美。歌手も良かった。オーケストラも良かった。一生に数度の感動をいただきました。

ということで
英国ロイヤル・オペラをけってこちらに来たのです。英国ロイヤル・オペラは毎年やってるがこっちは3年に一回、一日だけしかやらないんだから。

キャスト
アイーダ: 福田玲子
ラダメス: 井ノ上了吏
アムネリス: 大津香津子
アモナズロ 谷 友博
ランフィス: 保坂真悟
国王: 小田桐貴樹
巫女長:杉山沙織
伝令: 有本康人

オーケストラ:
バンダ: アイーダブラス
バンダチーフ: 山田幸央
バレエ: 角屋満李子バレエ団
バレエソリスト: 市川 玲 / 小嶋絵理子 / 石山 陸
合唱団: 綾瀬でオペラを!合唱団

芸術監督: 石川誠二
指揮: 小屋敷 真
演出: 久恒秀典
舞台監督: 八木清市
舞台監督: 水谷翔子
舞台監督助手: 土屋優紀
舞台監督助手: 家入賢仁
照明: 稲葉直人
衣装: AYANO
ヘアメイク: 星野安子
字幕: 幕内 覚

バレエ振付: 吉田千文
児童バレエ振付: 小嶋絵理子

演出助手: 橋詰陽子
副指揮: 石井裕望
稽古ピアニスト: 稲葉和歌子 / 松原裕子 / 武田麻里江 / 大下沙織 / 松島千波
制作: 宮松順憲


アイーダといえば、大隅智佳子さんが歌った「おお、わが故郷」が忘れられません。管楽器が演奏を始めたのか、と思うような高音の柔らかい響き。あれが芸術だ、と、思い出しても涙が出ます。。。

さて、アイーダは福田玲子さん。初めて拝見しますがスターの雰囲気をまとった人です。それはオペラ歌手には決定的に必要な要素です。役柄に合わせて褐色の肌にしていましたが、強烈な美人です。これなら「奴隷」でもラダメス(敵方の将軍)が恋に落ちるという説得力が有り過ぎるほどあります。アイーダという歌劇はここが一番肝心なところですが、そこは配役が成功していました。声量も十分で、正直に言うとアムネリスと格が違いすぎて重唱ではアイーダの声しか聞こえず、アムネリスの配役は残念だったと思います。

他の歌手さんはみなさんよく声が出ていて、経歴を見ても素晴らしいことがよくわかります。

しかし、当然かも知れませんが大隅智佳子さんをここで初めて観たときほどの衝撃は無かった。理由は演出にあります。地元の主催だから当然地元の人材を登用するのですが、今回はそれがバレエだったのです。(前回のカルメンでは当然ながら児童合唱でした)

オペラにバレエが出てくることはよくありますが、それはやはり歌手と同じ以上のレベルのものでなければなりません。しかし、言いたくありませんがこの子供達のバレエは可愛いけれども舞台が突然「発表会」のレベルに下がるのです。舞台の「気」が変わります。合唱だとそれは無いのだけれど(合唱はそもそも「子供が歌う」のがカルメンですから)子供のバレエが出てくると違和感が出ます。仕方ないかと思いますが、歌手さんたちには不満の残る演出だったのではないでしょうか。

そんな椅子に座りこごちの悪い気持ちで聴いたせいか、アイーダの「おお、わが故郷」の歌唱はあまり心に響きませんでした。決して福田玲子さんが調子が悪かったのではないのです。私が「舞台に巻き込まれなかった」のです。


カルメン、アイーダと来たら、次は蝶々夫人でしょう。大隅智佳子先生がNHK文化センターの講座で「日本でもっとも上演回数の多いオペラはABC」と言ってました。
Aida, Butterfly, Carmenのことだそうです。

3年後です。賛助会員になりました。生きていたらバタフライを見に行きます。バタフライは若い日本人でぜひお願いしたいです。

最後までお読み戴き有り難うございました。
2015.9.6日曜日、首都オペラ公演「トゥーランドット」を
一階S席、前から三列目で観てきました。



指揮:岩村力、演出:佐藤美晴、オーケストラ:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
総監督:永田優美子、合唱:首都オペラ合唱団、赤い靴ジュニアコーラス

トゥーランドット:福田祥子
リュウ:陰山雅代
カラフ:内山信吾
ティムール:佐藤泰弘
ピン:飯田裕之
ポン:根岸一郎
パン:髙嶋康晴
アルトゥム皇帝:北柴潤
役人:御舩鋼

前日の土曜日とダブルキャストですが、お目当は内山信吾さん、カラフ役です。
初めて拝見します。大隅智佳子(ソプラノ)のご主人です。澤村翔子のように結婚(北川辰彦との)を隠してませんから書いても良いでしょう。大隅さんが妊娠していなかったら(澤村翔子のように妊娠を隠してませんから書いても良いでしょう)リュウは大隅さんで聞けたかも知れません。

結論を先に書くと、とっても素晴らしかったです。演出が特に良かった。照明も良かった。

第一幕で首切り役人を女性のダンサー達が演じたんですが、それがもう「人間とは思えない」ような動き方、機械人形のような不気味な動きをして、その表情も恐ろしく、劇的でした。あれは良かった。首切り刀を振り回す仕草も恐怖を掻き立てた。今の日本には必要なのはこういう「裁かれる恐怖」です。オリンピック委員会の不手際の連続に対して、見よ、この国は誰一人責任をとろうとしない。それどころか「誰の責任と言わないほうが良い」と委員長が公言するという信じられない現実。こういう輩が天罰を畏れない、ということに我慢がならない。あの首切り役人を日本に呼びたいものだ、とまず思いました。それほど劇的な演出だった。
おどろおどろしい照明も良かった。首だけが天井から数珠繋ぎにぶらさがって赤い照明があてられていた。血の色です。大きな月が背景に照明で作られ、場面とともに明るさが変わり、一幕の最後には月がカラフが三回叩く銅鑼に模されました。

一幕は群衆も不気味な動きを指示されていましたが、やはりプロのダンサーの動きとは明らかな差が出ていて落差が目立ちましたが狙いは明確だったので良かった。(群衆の中にもひとり特に動きが上手な女性がいました)

一幕の最後の、カラフが皆んなが止めるのも聞かずにトゥーランドットへの愛を叫ぶのと同時にティムール(カラフの父)やらピン、パン、ポンやらが重唱する場面は神奈川フィルの圧倒的な迫力(この前もこの曲をやってましたから今年はそうとう何回も練習したはずです)に相まって本当に素晴らしかった。(ここで月を銅鑼に見立てて三回ぶったたくワケです。そこで一幕が劇的に終わる。痺れました)
同行のにゃーも「この演出は面白い」と言いました。私は一幕を観て感激して演出と照明が誰だか知りたくて珍しくパンフレット(1000円)を買いにロビーに走りました。

演出:佐藤美晴
照明:奥畑康夫

奥畑康夫さんは凄い実績のある有名な方のようです。
佐藤美晴さんはまだ若い女性です。この方は天才だと思う。

トゥーランドットと言えば昨年キエフオペラの公演を観てポロクソにレビューしてこの作品の真価が全然分からなかったのを翌日ゼッフィレリの演出版を観てプッチーニに謝った作品なワケですが、佐藤美晴さんの演出は予算がゼッフィレリとは少ないほうに桁違いなはずですが「面白さ」では優っていました。群衆の動き方や、ダンサーの使い方が素晴らしい。衣装は豪華絢爛とは言えないけれどそんなものは問題になりません。カラフに挑戦をやめさせるために美女が舞うのはお決まりのシーンですが、この公演では美女を役人が担いで来ました。美女が「道具だ」という表象が観客に突き刺さるわけです。よくできている。しかもちゃんと脚をカラフに見せる踊りをしました。オペラグラスで凝視してしまいました。脚フェチにはたまらないシーン(カラフはそれにも負けなかった、という表象が私に突き刺さる分け)です。パンツは見えませんでした。あの首切り役人のダンサーなんです。名前を知りたい。(一度観ただけで人に名前を覚えられるのがプロというものです=持論)

こちらはゼッフィレリ版

ドミンゴもよく耐えた



第二幕でトゥーランドット姫が歌い始める分けですが
福田祥子さんは姫の高貴な雰囲気を持っていてとても適役でした。

しかしながら、演出は強力な主役たちが歌うシーンが続くせいで群衆が棒立ちになるときが多く、劇的にはちょっとダレました。あれはキエフの公演を思い出させました。動きの指示はあったのでしょうけれど、聞き入ってしまったかのようになっていました。だけど五人の女性ダンサーは舞台の中央にいないときでもしっかりと演技を絶やしませんでした。あれはブロの実力なんだなぁと思いました。カラフルな扇子をあおぐ様子はバブルの頃の某所を思い出させましたがこの演出家はあの時代を知らないだろうに、どこからひらめきを得たのか、ご本人に話を聞きたいものです。

第三幕でリュウが何度も主役になりますが、あの死んでしまうシーンでのダンサー達の動きは素晴らしかった。あそこで首切り役人にどんな動きをさせようか、と考える視点自体が凄いです。そして、それに応えた、リュウのアリアを聞きながら崩れ落ちていく器械人形を演じたダンサーも素晴らしかった。もう今回の公演の主役はこの五人の女性ダンサーだと思うくらいです。

リュウは三幕の主役ですが、その衣装と演技は共感できませんでした。いかにも「これから悲劇のヒロインを演じます」という役作りは合わない。それは日本的なとても「お涙頂戴」に通底するもので、リュウの「強さ」とは相容れないものだと私は思う。しかも、洗濯してある真っ白のブラウスを着ていて、スカートはサテンのフレアスカートです。それは主人のために物乞いをして凌いできた奴隷の衣装じゃないだろう。衣装はバツでした。リュウのシーンには泣けませんでした。泣けたのは第一幕の最後でした。主役が揃う前の演出がもっとも面白かった。主役をもっとコントロールできればもっと素晴らしい作品作りができるだろうと思います。演出家のちからに感心した公演でした。神奈川フィルも音楽にキレと迫力があって抜群に良かった。指揮者の力もあったのだろうと思います。

日本人のトゥーランドットでこんなに感動するとは予想もしませんでした。首都オペラという団体を初めて見ましたが、次回も期待がふくらみました。皆さんもどうぞ注目してください。

余談ですが、幕開けに役人がソロで歌ったのですが、プロとはとても思えない貧弱な歌声で「首都オペラってこの程度なのか?」と冒頭から期待が沈み込んでしまいました。仲間内で制作すると人間関係からどうしても不適切な配役が出てしまう様子を何度も見たことがありますが、自戒してほしいものです。

最後になりましたが、歌手はピンの飯田裕之さんがとてもよかった。実力が図抜けていたと思います。初めて拝見しましたが一度でお名前を覚えました。

最後までお読み戴き有り難うございました。

今年の4月に観た公演の全幕が主催者によってYouTubeに公開されました。
公演から3ヶ月経っての公開です。

こういうのをやれば良いんです。今や動画は電車の中で子供でも見ている時代。
ビジュアルが大切。
タダなら見る人も増える。お金のかからない広告宣伝なんです。

と何度も言ってるけれど、ちっともそういうことを皆さんしない。
二期会にも言ったことがあるけどしなかった。

私のこの公演のレビューはこちら。

ではどうぞご覧ください。アンサンブルが素晴らしいです。



赤池 優さんがパミーナ姫をやる、というので両国まで遥々でかけました。

何度かこのブログで訴えていますが、私は『魔笛』が苦手です。
理由1 登場人物が多くて誰がなんなのか覚えられない
理由2 ストーリーが理解できない

以上の二つは全人類共通のものと思います。だからたいていの『魔笛』は
ステージ上の見栄えの演出、つまりビジュアルにチカラが入っていて
そうすると子供でも楽しめる演し物になって、お子様もどうぞ、という
オペラになりがち。ドイツでは子供が最初に見る舞台芸術はたいてい『魔笛』です。
どの公演を見てもそのビジュアルの面白さは凄い。
最近の演出だとハイテクの映像を導入したものなども現れた。
他のオペラではそういうのは考えられないでしょう。

ということで、ビジュアルは面白いけど物語が理解できないので苦手
というのが現在の全人類共通の評価ではないでしょうか。チガウ?


それを、
公演タイトルどおり
「あえて、小さな『魔笛』」としたのは偉かった。
なんでも、実は私が知らなかっただけで毎夏恒例8年目!なんだそうです。

この公演では六人しか出てきません。
パパゲーノ
タミーノ王子
パミーナ姫
夜の女王
ザラストロ(パパゲーノと一人二役)
パパゲーナ(夜の女王と一人二役)


弁者もモノスタトスも僧侶も三人の侍女も三人の童子も出てこない。みんなカット。

エセンシャル(essential)なものだけにした。これは私には分かりやすくて有り難い。
初めて『魔笛』についていけました。
子供もたくさん見に来ていて(チケット大人1000円!子供500円!)
こういうのに音楽賞(賞金付き)を授与したいものです。

それで、テーマは「歌手」なんですが、赤池 優さんです。
パミーナ姫です。
もともとこの方は素でお姫様ができる、というか
本人がお姫様な方ですが、
パミーナ姫というのはどの公演を見ても
(というかドイツ人が演じてるのしか知りませんが)
いまひとつ、キャラが分からない人です。
どんな人なのか、というのがよく分からない。
そこがまた物語に入り込めない理由な訳ですが、

今回赤池姫はそこが上手かった。アドリブがハマっていたのです。
舞台のはやーい時期にアドリブしました。
パパゲーノが蛇の被り物を片付けてパミーナ姫と一緒に退場するときに
「これ片付けるの手伝って」とパミーナ姫に言うと
「イヤ」と即答したのです。

会場はどよめきと笑いが起こりました。
お嬢さんかと思ったら嫌なことはイヤとはっきり言う。
そういうキャラクタは日本人には非常に珍しいです。
日本には「イヤ」とはっきり言える大人の女性は非常に少ない。
(ドイツ人は100%の女がはっきり言います)

そこが面白くて会場がどよめいたわけですが、
ご本人の翌日のFacebookの発言によると
あれは「アドリブ」なんだそうです。
台本には書いてない、ということです。

「イヤ」のセリフを聞いたときはあまりの自然な演技に「これは素なのか?」と
思いかけましたが、舞台が進むとパミーナ姫のキャラクタが、今まで見たことのないほど
はっきり分かってきました。「これは作ってそうしているんだ」というのが分かる。
それ(作っている事)は当然のことなんだけど、演出がそうしているのと演者がそうしているの
とでは違うはずです。そこが「舞台人の技量」というものです。アドリブは解釈の背景があって出てくるもの。

ご本人が言ってました。
パミーナは、やはり夜の女王の娘ですから、芯が強い女性だと思うのです。辛いことに泣くだけの女性ではなくて。
それに加え、柔軟性もあって素直な部分ももちろん…というようなキャラ設定で臨んでいます。
その上でのアドリブですよ^_-☆


この解説は納得しました。ただのお姫様ではない。感心しました。

こういう話をしてくれる、というところもこの方の偉いところです。
以前「ケイト・ピンカートン」を演じた人にケイトの気持ちをどう理解したかを聞いたら
こう答えました。
「役についてお話しする事は何もありません。」
「『私が何を考え解釈して舞台に立ったか』は聞いたり・読んだりすることではないと考えます。
私はそのために舞台に立つのですから必要ないと思います。分かる人もいるだろうし、分からない人は忘れるのです。」

この人は人と話をするのが「イヤ」だったのかな、と今では思います。

なんにしても赤池さんを再発見しました。歌も演技も素晴らしいパミーナ姫でした。
あれがアドリブなら次回はなんて言うんだろう?と興味津々になります。

本日と明日もあります。是非どうぞ。1000円です。終演後、お客さんとのミーティングもあるそうですよ。オペラ歌手に直接お話を聞けるなんて素晴らしい。


最後までお読み戴き有り難うございました。
■ 本文中、パミーナ姫をなんどもパミーノ姫と書き間違えていたので修正しました。
 魔笛は出てくる人の名前が覚えられないんです。(笑)
ハンガリーのソプラノ、アンドレア・ロスト さんは2013年だったか、病気のためにリサイタルがキャンセルになって、その時買ったチケットと同じ席を優先的に買えると連絡が来たので楽しみにしていました。初めて聴きます。



お名前を知りませんでしたがオペラ歌手として世界の五大歌劇場を制覇している(五大がどこかは知りませんが)ベテランだそうです。当日のパンフレットも素敵です。



みなとみらい大ホールの一階(1階は1,044席)は満席でした。(1階はS席8000円です=売上800万円)
これだけお客様を呼べるのは私が知らないだけで有名な歌手さんなのかも知れません。

曲目

モーツァルト:愛の神よ 「フィガロの結婚」より
モーツァルト:とうとう嬉しい時が来た ~ 恋人よ早くここへ 「フィガロの結婚」より
ドニゼッティ:騎士はそのまなざしに 「ドン・パスクワーレ」より
ドニゼッティ:さあ受け取って、あなたは自由よ 「愛の妙薬」より
グノー:宝石の歌 「ファウスト」より

---休憩---

チレア:私は創造の神のいやしい僕 「アドリアーナ・ルクヴルール」より
プッチーニ:歌に生き、愛に生き 「トスカ」より 
プッチーニ:お聞き下さい、ご主人様 「トゥーランドット」より
レオンカヴァッロ:鳥の歌 「道化師」より
プッチーニ:ある晴れた日に 「蝶々夫人」より

アンコール 二曲

こういう声質をなんと呼ぶのか詳しくないので知りませんが、ドラマチックではなく、軽いわけでもなく、綺麗で可愛らしい透き通るような声を年齢を感じさせずに維持している、という声です。若い時はもっと若々しい声だったかも知れませんが、「今でも変わらない声」です。年齢を重ねても衰えもないし重みも増していない。なによりその証拠に、「フィガロの結婚」の伯爵夫人を最初に歌い、二曲目がスザンナです。そして、あろうことかアンコールでケルビーノを歌いました。そんなプログラムを組む人が世の中にいるとは驚きです。そして、全部、似合っていた。そういう声なのです。ケルビーノを得意とする(単にレパートリーに入れているだけではなく)メゾソプラノでも、年齢を重ねて熟女の声になったらもうケルビーノは聞けたものではないという経験をしましたが、この方は違います。50歳は越えている手をしていますが(女性の年齢は手と首のシワで分かります)十分ケルビーノです。(若い頃はもっとケルビーノだったとは思いますが今でもOKなのです)

それでも一番良かったのは『ある晴れた日に』でした。蝶々夫人は若い日本人の歌手さんに歌わせたい、と最近の若い実力のある日本のソプラノを見て思いますが、アンドレア・ロストがこの年齢でこの声で若い蝶々夫人を歌えるのを聞いてしまうと、この人に勝つのは相当難しい、と思わざるを得ません。この人が若い時に蝶々夫人を演じた姿を観たことは無いわけですが、十分想像できます。というか、今でも容姿を別にすれば同じなんだと思います。パンフレットの別の写真も実に可愛らしいです。




しかし、

30年前の写真をチラシに使うのはどうなのか、と(音楽家はそういうのが非常に多いですが)。


あと、本人がステージで自分で言っていましたが「ステージで声楽家がおしゃべりするのは珍しいと思いますが」、マイクを持ってそれぞれのアリアの舞台でのエピソードを話しました。お喋りの得意な人とそうでない人というのはいるものですが、そのお話のセンスがまた年齢を感じさせました。要するに西洋人のパーティーでのスモールトークなのです。日本人のもっとも不得意なもののひとつ。それをまた通訳を介してするものだから笑うタイミングもはずしているしそもそもの「ノリ」が生まれない。そういうセンスは「古い」と感じます。観客の年齢層がそもそもお年寄りなのでそれで良いのかも知れません。(私も年齢は彼女より上だけど)


さて、本日の本題はそれくらいにして
実は当日「集団的自衛権」について考えさせられる事件が会場で起こりました。

どういうことかというとにゃーの隣に座っていたご老人がにゃーのカバンがはみ出して自分の足にあたって迷惑だと難癖をつけてきたのです。
実際はみなとみらいの二階席というのは舞台方向にひねって設置されているので、そのとおりの向きに座らなかったご老人がにゃーの方に足をはみ出していた、ということなのですが、外国産のにゃーにそんな理不尽なことを言ったら反撃されて引っ掻かれるのは火を見るより明らか(笑)

私は「自分で解決するだろう」と見込んで黙ってましたら、ご老人はにゃーの隣に私がいるのを気づいて黙りました。

すると今度はにゃーは私に「どうして私が攻められてる時に助けに来ないの?」と言いました。

私は「集団的自衛権を禁止されてるので手が出せないからです」
「そもそも、私が手を出さなくても私がいることで相手は攻めるのをやめたでしょう?私が控えていることが相手に分かるだけで相手は自分の行動を反省する機会が生まれて結局こちらから攻撃しなくて済むんです」と答えました。

にゃーはやっとこのことの正しい意味を理解しました。しかし、もともとにゃーには助ける必要がありませんが。自分でするから。


最後までお読み戴き有り難うございました。

■ 追記(2015.8.30)
『「フィガロの結婚」の伯爵夫人を最初に歌い、二曲目がスザンナです。そして、あろうことかアンコールでケルビーノを歌いました。そんなプログラムを組む人が世の中にいるとは驚きです。』と書きましたが、以前大隅智佳子さんが伯爵とスザンナとケルビーノを続けて歌ったのを思い出しました。こちら。
歌える人は歌えるものなんだな~感がします。世界のオースミならではか。
雨天の中、渋谷まででかけました。この演目を観るのは二度目。
特に好きな演し物じゃないんですが、声楽家が株式会社を設立して主催しているというので大変興味を惹かれたので行ってみました。こんにち、芸術家が自ら企画して実施までやる、という意気には感心せざるを得ません。若い人には新しい道を開拓していってほしいものです。



観たのは7/3 金曜日 19:00からの夢組です。

夢組のリーザ役の佐藤智恵さん(ソプラノ)がこの会社の代表取締役


この演目は前回観たときに宿題を書いておきました。

それをちゃんとやってるかな、というのが大きな興味でしたが、
リーザとジュパン、ちゃんとやってました。劇中でもっともよかったのはこの二人の幸せいっぱいのダンスシーンでした。よく練習して来たのが分かります。振り付けも音楽にぴったり、歌もしっかり出来ていた。演出家も満足でしょう。

私的には、それを観ただけでもう合格です。よくやった。声楽家なのに脚もよく上がって(佐藤智恵さん)、努力の成果を見せました。

あと、本物のダンサーを四人も呼んだのも演出上の効果を上げていましたね。演出面については前回の東京オペレッタ劇場のものより遥かに良かったです。一部、演出面でも不満がありましたが、それは出演者の技量によるものです。簡単に書いておきます。
・まず冒頭のジプシーバイオリンのシーンで、バイオリニスト以外のジプシー女がただ座っているだけ、というのは猿山のサル状態でまったく意味が分からない、かつもったいない。
・タシロは音楽とテンポが合わないシーンが多かった。指揮者を見てないのかしらとにゃー発言
・歌手に華がない人が多い(リーザとジュパンは良かった)
・クッデンシュタイン公爵夫人の出番はいらない(歌も演技もヘタです)

あと、これは台本作家の所為ですが、一番大きな笑いが起こったのは前回同様「太田胃散のギャグ」というのは情けない限りです。ラブコメと謳ってるのになんなんだと思います。

総じて、演し物としてはリーザとジュパンがムードをひっぱったお陰でちゃんと成立していました。しかし経営者の視点から見ると、この公演は企画を含めて反省点が多々あるでしょう。

まず、チケットが高すぎます。
SS席が15,000円、私たちの席は最前列S席でしたが9,000円です。

これは、ひとえに渋谷区の「さくらホール」という729席もある大きなホールを借りたことが原因ですね。このスペースで上演するには演出の規模も大きくせざるを得ません。また、その価格設定にしないと利用料が払えない。(4時間で104,500円~139,000円)
その、運営コストを上げている理由が舞台上にも舞台以外にも溢れかえっています。
舞台にはシャンデリアがみっつも下がっていて豪華。プロのダンサーを四人も雇った。
その他にパーティー会場要員の男女が数組。(東京オペレッタ劇場ではひとりも登場しない)

チケット代の所為と思いますが、客は6割弱の入りでした。(二階席は見えないので不確かですが)
有名な俳優・実力歌手を揃えた東京オペレッタ劇場でさえ183席の小屋でやっているのに無謀です。
チケットのつくりも手が込んでいてしかもフルカラー印刷です。

コストカッターが社内にいたら、あっちもこっちももっと節約させたでしょう。
経営的にはまったくシロウトの仕業です。良いものを求める気持ちは分かりますが、これで「黒字」だったのなら私は何も申しません。この公演は明らかに赤字でしょう。企業というのは「継続する責任」というものがあるのです。「いいな」と思ってくれた人たちが、それを利用できる状態を持続させる、というのが企業の責任です。ある日突然使えなくなったら、困る人がいる、それが企業が存続を求められる理由でしょう。なくなっても誰も困らないのなら、最初から無いほうがマシなのです。(最初から無ければみんなの損失を防げるからです)

■ 「利益を出すこと」「儲けること」は企業の義務です。(義務=立場上、身分上当然しなければならないこと)

あと、年間サポート会員というのも募集していましたが、会費は10,000円でした。
年間チケットを10,000円以上値引きで買える、と謳っていますが、それはよっぽどこの会社のファンでなければ、あるいはよっぽど気に入った歌手が所属しているのでなければ、払える金額ではありません。金銭感覚が疑われます。

最初に書いたように、一番関心があったのが「芸術家が自ら企画して実施までやる」というところだったので、「ペイする公演かどうか」をハラハラしながら鑑賞しました。コスト面を大幅に改善しないと大変なことになる、というのが一番の感想です。
参考になれば幸甚です。

あと、リーザのドレスは、デブに見えた東京オペレッタ劇場の青いドレスより遥かに良かったとにゃーが言ってました。同感です。脚がよく上がったのも良かった。リーザの帽子はデザインが似合っていませんでした 違う帽子の方が良いと思う。(にゃー発言)


帰りにロビーで澤村翔子を見かけました。会釈して帰りました。


三日前の日曜日、大隅智佳子、井上雅人共演という待望のプログラムに行ってきました。
このお二人は藝大の同期生なんだそうですね。
私も経験しましたが「○期には凄いのが揃ってる」というのが世の中にはあります。
個々人がもともと凄い所為もあるでしょうが、凄い仲間に出会ってどっちももっと凄くなる、という効果はあると思います。切磋琢磨というのは仲間がいないとできません。
(だから友達のいない人は伸びることもできないのです)


ということで待望の、しかも前回大隅さんのリサイタル(2015.4.30)に期待を満たされなかったところがあったのでスッキリしたく、かつこちらも久しぶりの井上雅人さんの声も聴きたく、でかけました。

神奈川県民ホールというのはですね、横浜の山下公園という港に面した公園の真ん前という一等地にありまして、銀杏並木が美しく、ヨーロッパの景色に負けない場所にあります。あのあたりは市民の宝物ですね。で、このブログをお読みの方だけに教えますが、神奈川県民ホールには「幻のA席」という特別な席があるのです。

これです。(赤い線の部分)



ここは二階席ですが、通路を挟んだ真ん中よりの席はS席なんです。
今回はS席とA席の差は2000円でしたが(それでも二人だと4000円安い)、来日オペラ公演なんかになるとこの数十センチの場所の違いが○千円にもなります。お金のある人は構いませんが、私はいつもこの席を見ています。知ってる人は知ってるのですぐに売り切れますから「幻のA席」なのです。

もちろん今回もここに座りました。
今後の参考にしてください。【このブログをお読みの方だけの特別情報です】

余談が長くなりましたが
■ 感想

大隅さんはリサイタルの時と違って、よーく声が伸びていました。高音の弱音も美しく、前回のリサイタルでは「なぜここでミミを歌うのか?」と違和感があったミミも、オールプッチーニのコンサートなら納得できます。大隅さん、今回知りましたが、三月にご懐妊されたんですね。妊婦姿で歌う歌手を見たのは二人目です。(一人目は2012年末の澤村翔子)声質も影響受けるものと想像します。

ただ、このコンサートは神奈川フィルの定期演奏会なので、どうにもオーケストラが主体の指揮になっていて、歌手の声をかき消すような演奏が繰り返されたのはやや不満を持ちました。オーケストラの演奏自体は良かったです。気合を感じました。でも歌手を呼んでるんだから歌手を主役にしないとね、と思いました。(アンケートにも書いておきました)


後半はトゥーランドット。私には因縁の作品ですが、字幕抜きの演奏会というのもがっかりしました。あれじゃ、トゥーランドット全幕を観たことがあって細部まで記憶してるような人にしか分からないでしょう。それは観客の一割もいないでしょう。オーケストラは気合が入っていて良かった。コーラスもよく練習の成果が出ていた。でもオーケストラと合唱の発表会のようになっていて、音量のコントロールとか字幕が用意されていないこととか、歌手に対しての気遣いが足りませんでした。(アンケートにも書いておきました)

歌手はみなさん良かった。並河寿美(ソプラノ)さんは初めて見ましたが、日本人でトゥーランドット姫をやれる人がいるとは知りませんでしたが大役を果たしました。衣装付きで観てみたいものです。あと、待望の井上さんですが、なんで出番があんなに少ないの?!一幕しか歌わなかったんじゃ?しかし姿勢を正したまま最後まで舞台に残っていたのは「真面目」という持ち味を十分発散していました。(他の歌手は出番が終わると楽屋に引っ込んでました)
井上さんをせっかく呼んでるのに、出番が足りなかったのは不満が残りました。(アンケートにも書いておきました)

それから、大隅さんはリューを歌いましたが、あれは悲し過ぎてまともに聴けませんでした。(にゃーも同じ発言)
藝術というのはそれに向き合う気力体力を必要とする時もあるものですが、聴くのに覚悟のいる歌唱でした。

神奈川フィルは実は高校の同級生がメンバー(ヴァイオリン)なのでよく聴きに行きますが、歌手がいるときにはもう少し力を加減して歌手に「歌わせる」ことを考えて欲しい、と思います。それは指揮者への注文です。

総じて、オーケストラも歌手も良いんだけれど、「一緒にやる」という点においてオーケストラ側の自己主張が勝っている演奏会だったと思います。

最後までお読み戴き有り難うございました。