オペラ全3幕 <舞台上演日本初演>
日本語字幕付き原語(ドイツ語)上演
原案:フーゴ・フォン・ホフマンスタール
台本:ヨーゼフ・グレゴール
作曲:リヒャルト・シュトラウス
会場:東京文化会館 大ホール
公演日: 2015年10月 2日(金) 18:30
3日(土) 14:00
4日(日) 14:00
指揮: 準・メルクル
演出: 深作健太
装置: 松井るみ
衣裳: 前田文子
照明: 喜多村 貴
合唱指揮・音楽アシスタント: 角田鋼亮
演出助手: 太田麻衣子
舞台監督: 八木清市
公演監督: 大野徹也
キャスト 10月2日(金)
ユピテル 小森輝彦
メルクール 児玉和弘
ポルクス 村上公太
ダナエ 林 正子
クサンテ 平井香織
ミダス 福井 敬
ゼメレ 山口清子
オイローパ 澤村翔子
アルクメーネ 磯地美樹
レダ 与田朝子
4人の王&4人の衛兵
前川健生
鹿野浩史
杉浦隆大
松井永太郎
結論を先に書きます。
私は東京二期会の公演には厳しいように思われているようですが違います。
今回の公演はとても良かった。あと二日あるので推薦します。チケットはまだあります。
以下細部。
■ オーケストラ
非常に良かった。
準メルクル(指揮者)さんを初めて見ましたが、この音楽に合っている人に思います。日独ハーフの男っていうのはこういう物悲しい風貌をしているのが共通しています。ウチの息子も同じ。息子の友達の日独ハーフ男の子たちもみんな同じ。リヒャルト・シュトラウスの音楽って、人生に対する諦観というものが感じられて、そういう音楽にこの指揮者はとても合っているように思う。何調だか分からない複雑な音楽に、人間性が合っているのだと思います。凡庸な指揮者にはこの音楽は奏でられない。明るいイタリアンには同じことはできない。
■ 歌手
ソリストはダナエ(林 正子)とミダス(福井 敬)が圧倒的に良かった。
林 正子さん、初めて見ましたが蝶々夫人のように全幕ほぼ出ずっぱりで複雑なアンサンブルもたくさん出てくるのに最後まで声量も弱音のコントロールも衰えず、素晴らしかった。表現したいことがダイレクトに見る者に伝わって来る。中1日でもう一回歌えるものなのか心配なくらい燃焼していた。そういう姿を、観客は求めているのです。この人は終わったあとに「まだまだ反省点がある」などと言わないでしょう。そんな事を言う人はプロじゃないのです。あとは喉を壊さないよう希望します。
福井 敬さん、実は初めて見ました。ミダスの歌手の名前を知らないまま聴いていてその圧倒的な歌唱に名前を覚えようとしたら福井 敬さん。この人が福井 敬さんなのか。。。神奈川フィルの「オテロ」で見なかったもう一組のほうのオテロが福井 敬さんでしたが、両方のオテロを見ても良かったなぁ、と思いました。はっきり言ってユピテルより格上の人間に見えました。(実際物語的にはその通りなんですが)
■ 演出
事前に色んな記事を読みましたが、高田正人さんの解説ブログがたいへん役に立った。あれがなければほとんど理解不能の演出がいくつかありました。あんな記事はそもそも主催者が公開しなければならないのに、一回しか舞台にでない高田さんは偉いと思う。そういうところが東京二期会のダメダメなところ。やってることはやってるんだけど、才能が無い人がやってるからどれもこれも素人以下のものしかできない。(YouTubeのインタビュー映像もダメダメ)
(高田さんの出る日はスケートのJapan Openがあるので見に行けませんでした。高田さんゴメンナサイ)
で、演出のちからがどれほど今回の公演に貢献したかと言うと、私は「音楽そのもののちから」と「ソリストの熱演」でほとんど決まったと思います。演奏会形式でしても十分成功だったでしょう。けど、高田記事を読んでないと分からない演出というのはダメだと思う。もともと日本人にはほとんどギリシャ神話なんか縁が無いわけだし、三幕に突然現代の衣装で出てくるメルクールとはいったい何者なんだ。。。と誰しもなるでしょう。表現したい事がダイレクトに伝わって来る、そういうものが一流。説明など必要の無いもの、それが一流だと思う。
舞台装置はたいへんよかった。舞台を縦に立体的に使って、天井にオクルスを作って天上界との通り道に見せたりベッドの天蓋にしたり、西洋建築に知見のある人の提案に違いありませんがシンプルでお金もかかっていないのにそれを効果的に使っていました。(三幕では天上界との繋がりが関係なくなるのでオクルスをちゃんと隠していました)
舞台装置は松井るみさんという人だそうです。名前を覚えて他の作品も見てみました。この人は天才だと思う。
舞台装置は良かったけれど、小道具はことごとく良くなかったと思います。
まず、一幕の「ポルクス王の金の冠」です。遠目に見てもあれはボール紙です。嫌な予感がしました。
続く「黄金の雨」
ここは処女のダナエがこんなことを言うのです。
「黄金の雨に濡れて私の花が咲いた」
これは、、、『フィガロの結婚』で「喜びよ 遅れずにやって来て」というスザンナが歌うアリアの歌詞「いらして愛しい人、茂みの中へ」に匹敵するオペラ界最大のエロチックな歌詞ではないでしょうか。この黄金の雨のシーンはチラチラと少ない金色の紙がオクルスから落ちてくるだけ。。。エロスが足りない。ここはもっともコケティッシュな視覚的演出が必要だったのに。「コケティッシュ」という言葉は多くの日本人が誤解して「可愛らしい」だと思っている単語ですが、正しくは「エロイ」なのです。しかも、もともと品の無い女が何をしてもコケティッシュにはならない。そのことをよく理解しているのは赤池優さんで、あの清純さがジュネビビアンを着て歩いているような人がパーティーで知り合った男(友達の夫)に「ねぇ二人だけでそっと別の部屋へ行きませんこと?」と歌うのを「コケティッシュなタイプ」と言っていましたが(ダナエの愛とは別の公演の話です)、そういうことです。そもそもダナエは処女なんですから、そこを強烈にコケティッシュに描くのが演出家の腕の見せ所だと思うんだが、できていなかった。
「黄金のバラ」
赤いバラを触ると黄金のバラに変わる、というシーン。黄金のバラが元の赤いバラよりちっちゃかった。下手な手品を見ているようでした。
「黄金に変わるベッド」
照明の具合なのか、黄金色に見えず。(わたしの席の位置の所為かも知れません)
「ダナエに贈った衣」
あれは衣装担当が提案したのだと想像しますが「クリムト」まんま。観客に分かりやすさを狙ったのかも知れませんが、私は「工夫が無い」と思う。パクリに感じる。
は「オリジナリティが無いから衣自体が偽物に見える」と。同感します。衣といえば四人の女の衣装が舞台となんら色彩的に合わないのが大変ひっかかりましたが、これもクリムトからまんま持ってきたものだと知りました。
キノコのようなヘアスタイルもそのまんま。姿形としてはさすがにクリムトデザインでインパクトがありましたが、色彩的には舞台との調和がとっても無かった。ただの「変な模様の服」にしか見えず。
「最後に天上から落ちてくるお金」
あれはお札だったのでしょうか。
は「葉っぱがお札に変わるんだと思う」と言っていたが葉っぱにも見えず、火事の紙の燃えかすが落ちてきたのかと。しかも量が圧倒的に足りない。「ユピテルが去るときの火薬」
たぶん、事故で不発だっただけかと思いますが煙も火花も足りませんでした。
「女性がみんなかけている変な丸メガネ」
意味が想像できませんでした。
は「お金に目が眩んでいる人間のしるしじゃないか」と言っているがそれは眼鏡をかけている人に対する侮辱だし、四人の女の中でオイロパだけ眼鏡をかけているのは何故なんだ?誰が誰だか分からないから目印にかけさせたのか?意味不明でした。わたしの理解力が足りないだけかも知れません。
小道具の細かいことは捨て置いても良いのですが、「ユピテルが人間界を破壊した理由」=「ダナエに振られたから」というのが物語的には受け入れられません。人間の何かの罪の代償というなら分かるが、そんな理由で瓦礫の世界にされてそこから立ち直っていくのが人間の宿命というのは、趣旨が頭の中で繋がらない。しかも演出家は3.11と結びつけたかったようですが、共通しているのは「ガレキ」だけであって、その他にダナエの破壊された世界との関連性を見つけることができません。
しかもメルクールは放射線防護服を着ていてガイガーカウンターを持っている。ということは原発事故もユピテルの仕業?いいえ、原発事故は厄災ではなくて人災でしょう?このすりかえはミスリードを誘う演出であって、私は到底受け入れられませんでした。安直に過ぎます。
それから、「ユピテルが年寄りだから」という演出も受け入れられません。多くの年寄りの観客の反感を買ったでしょう。そもそも台本にそう書いてあったのかどうかが疑われます。なぜかというとギリシャ神話の神々は「不老不死」のはずだから「年寄り」になるはずが無いのです。ギリシャ神話の神々というのは多くの日本人が宗教の神様と混同していますが、かれらは創造主ではないし、ゴッドというのはもともとひとりしか存在してはならないものだから(ひとりと数えるのも許されませんが)、たくさんいろんな神がいるのは一神教のゴッドとは別物なのです。(舞台ではドイツ語でGottと言っていましたが、英語で「ギリシャ神話の神々」のことはimmortalsと言います。「死なないもの」です。因みに「人間」は「mortals」です。「いずれ死ぬもの」です)ユピテルは不老不死だから、ダナエとミダスが死んだあとも生き続けます。つまり2015年の今でも存在している。ダナエとミダスが死に絶えたあとも生き続けて、ユピテルがどうなったか、そのことを現代の演出に取り入れるのも趣のあることだと思いますが、「年寄り」だという演出は誤っていると思います。
結論は私的にはとっても受け入れられるのです。「愛」が唯一大切なものという。
このオペラが書かれた頃はまだ資本主義が発展していなくて、人々がいまほど「お金の呪縛」に捕らわれていない時代ですが、現代の人間はみんな「お金」に縛られています。無いと困る、無いと心配、ある程度はあったほうが無いより良い、その他その他、多くの人がそういう風に思っている。(二期会会員の澤村翔子は「私はお金に困っている方の人間なので」と私に二期会の公演チケット代金(彼女のノルマ)を全額私に払ってくれと言いました。ノルマは嘘だった。他に頼る人がいませんというのも嘘だった。夫は頼りにならないのか? 彼女は芸術家とは呼べないニセモノです。)それを全否定できる思想というのが枯渇しているのが現代です。そこはこのオペラの優れている主張だと私は思う。決して、現実を見ない甘い考えで書かれているものでは無い。お金なんか無くたっていいじゃないか。私は無い。オペラを見に行くぐらいのお金はあるけど、それも無くなっても愛するものがあればまったく構わない。2000円しか財布に無いときも経験した(それは持っているお金は全部あげたからだ)し、それでもちっとも不幸と思ったことはない。
そもそも、「愛とはなにか」を知らない人が現代にはたくさんいます。「ミダスがあんなにステキじゃなかったら貧乏生活に耐えられるかどうか分からない」などと感想を述べている人もいるが、そういう人は「愛」の意味が分かっていません。「好きと愛するとはどう違うか」を知らないのです。「好き」はただの感情、「愛」とは行動なのです。ダナエは最後にユピテルにも飲み水を与えていた。「与えること」が「愛の本質」というメッセージです。それを分かっていないとこの作品はただの「愛はお金より大事」というおとぎ話でしかなくなるのです。
そういうことを、本当に理解して舞台に立っている歌手がどれだけいるだろうか。高田正人さんは分かっている一人だと思う。ブログの発言を読めば分かります。
奇しくもメルクールとユピテルが第三幕で似たような事を言います。
メ「お金がなくて幸せな女を見た事が無い」
ユ「お金がなくて、困っていないか?」
愛する人がいたら、「お金に困っている」と他人に言う女が果たしているだろうか?
それは「愛を知らない」「愛されていないし愛してもいない」という自白と同じです。
■ 一身上の理由で、この記事を最後にレビューを書くのを終了することにしました。
いままで拙い文章をお読み戴いてコメントを下さったり声をかけて戴いた方々に感謝致します。
4年間有り難うございました。



