釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -88ページ目

勝手に考案、プールで水中歩行瞑想

スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想講座に行ったとき、
初心者が一番取り組みやすいのは「歩行瞑想」とのことだった。
でもほとんど実行していない・・。


時間と真剣味が足りないのが一番だけれど、意外と困るのが歩く場所。
家だと狭くてつまらないし散らかってるし、
公園などでスローモーションで歩いているのも変な人だし。


前から、たまにプールに泳ぎに行っていたのだが、
ふと思ったのは、ここで歩けば一石二鳥じゃないの、と。
プールなら、超ゆっくり歩いている人がいても誰も不審に思わない。


そこで、邪道だわと思いつつも、水中歩行瞑想をやってみている。
これが意外と、いい感じなのだ。
自然とスローモーションになるし、水の抵抗で身体を意識しやすいし、
裸足なので「右足つきます」「右足離れます」という脳内実況中継も集中しやすい。

なにより、すごく気持ちがいい。

私の勝手な考案なのでお勧めはしませんよ。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

誰か水中歩行瞑想してる人っていないのかなあ、と検索してみると、
ヒットしたのが以下のサイト。プールで歩行瞑想しているのだという。
真言宗の木下全雄さんというお坊さんのサイトで、
なんとテーラワーダ仕込みの瞑想を朝日カルチャーセンターで教えてらして、
「五戒を守る僧侶の会」の代表だった。
こんなにちゃんとした方がやっているなら、
私の思いつきもあながち邪道でもないのかしら?


http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:cBGWWdMh3GUJ:blog.livedoor.jp/happyzenyu/archives/1166259.html+%E6%B0%B4%E4%B8%AD%E3%80%80%E6%AD%A9%E8%A1%8C%E7%9E%91%E6%83%B3&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


あと、スマナサーラ長老は、最初に、結跏趺坐で微動だにせず、
「死体になりきってください」と言ってらした。
これを応用して、プールに浮いて「溺死体」になりきってみた。

あんまりやると監視員が飛んできそうだ。


調子にのって、インドの暑さに見立ててサウナで10分ほど全裸座禅をやってみた。
気持ちよかったけれど、ただでさえサウナは身体に悪いのでこれは危ないかな。



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よくわからなかった「空」の話(中部121経「小空経」)

3連休なのに、あまり本を読む時間がありません。
家事・雑事に追われながら、ふと「もっとも仏教的な家事はなにか」と考えて、
「アイロンがけではないか?」と思ったのですが、いかがでしょうか。

放逸から静寂がたちあがってくる感じがね。


本日は中部経典・第121経「小空経」(空についての短い経)。

出たな、「空」。


日本では般若心経ばやりのために、仏教というと「空」がすぐ連想されますが、
阿含経典(初期仏典)の中には、数箇所にしかこの言葉は出てきません。

ただ、何においても固定的な実体はない、何もかも相対的な関係性で決まる、
という「縁起」を拡大発展して新味のある言葉に置き換えたのが「空」で、
基本的に同一線上のものだと(今の時点では)私は理解しとるのですが、
そういう話でいいのでしょうか?


ですが、「小空経」の「空」は、なんだかその「空」とは意味が違うような・・・。
わからないので、備忘録として一部を引用だけしておきます。


「アーナンダよ、私はこのごろよく空の状態にいる」というお釈迦さまの言葉から、
アーナンダとお釈迦さまが「空」について対話します。
以下は、お釈迦さまの言葉です。


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「たとえば、このミガーラ母の講堂は、
象・牛・雄馬・雌馬については空で、金銀については空で、
女や男の集まりについては空で、ただ次の『空でない状態』がある。
すなわち、比丘僧伽ただひとつに起因するものである」


ちょうどそのように、アーナンダよ、比丘は村の観念に心を向けるのではなく、
人間の観念に心を向けるのではなく、森林の観念ただひとつに心を向ける。
かれの心は森林の観念に跳び込み、満足し、落ち着き、集中する。

かれは『村の観念に起因するような煩いはここにはなく、
ただ次の煩いだけがある』と知る。


かれは『ここに観念としてあるものは村の観念については空である』と知り、
『ここに観念としてあるものは村の観念については空である』と知り、
『ここに観念としてあるものは人間の観念については空である』と知り、
『ただ次の(空でない状態)がある。
すなわち、森林の観念ただひとつに起因するものである』と知る。


このように、XにないものについてXは空であると理解し、
一方、Xに残っている、あり続けているものを『これがある』と知る。
このようにして、アーナンダよ、かれには『空である状態』が現実に、
紛れもなく、完璧な形で生起する」

(以下、同様の記述が繰り返される)

    

 『原始仏典 中部経典Ⅳ』(春秋社)第121経 山本充代訳
==================================


「空でない状態」って、なに・・・?
春秋社版にはあまり解説がないのですが、片山一良先生版にはあるのかな。


この「小空経」については、けっこう論文も書かれているようです。
安直にネットで探した範囲だと、
ヴィパッサナー瞑想と絡めて解説した論文とかがありましたが、
これがまた私の頭ではわからない。
今後の課題ということで、とりあえず逃亡します。


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誤ったことで生計を立てている(中部経典第117経「聖道経」)

本日は中部経典第117経「聖道経」(優れた四十の効果)。

これは、お釈迦さまが、悟りへの道の大基本「八支聖道(八正道)」
「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定」
を解説するお経です。

このなかで、「正しい生計」と訳されている項目(4つ目の正命)は、
ものすごく耳が痛かったです。


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「では、比丘たちよ、誤った生計とは何か。
もったいぶって(人の歓心を買ったり)、口先で丸め込んだり、
遠回しに何かをねだったり、人を貶めたり、
利益によってさらなる利益を追求すること――これが誤った生計である。


 『原始仏典 中部経典Ⅳ』(春秋社)第117経 山本充代訳

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いたたたた、耳が痛すぎる。
「この新製品は実は前のバージョンと大して変わってないんですよ」とか
「この投資信託は、内容を理解できない人にはお勧めしません」とか
本当のことを言って商売になればハッピーだけれど、
多くの仕事は、たいして必要ないものを買わせることで回っている

(とくに先進資本主義国ではね)。
街を歩いても書店に行っても、本心ではない言葉の瓦礫に呆然とします。
瓦礫を築くことに私はいつまで耐えられるだろうか。


現代語訳の註には、「もったいぶって~」以降の具体例は、
Visuddhimagga(清浄道論)を参考にした、とありました。
「清浄道論」は、パーリ仏典の注釈者・ブッダゴーサ(仏音)が
5世紀頃にスリランカで作った、修行法を詳説したもの。
これの現代語訳をして公開している奇特な方を発見しました。
http://cms.j-theravada.net/tipitaka/



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