女は仏になれない(第115経「多界経」)
中部経典の続きです。
本日は第115経「多界経」(多くの要素)。
註によると「いわゆる<女人の五障>に関する記述があることでも
注目されることが多い」お経らしいので、その部分をメモしてみました。
愛弟子アーナンダに、
「師よ、どういう場合に比丘は道理・非道理に通じているといわれるのですか」
と訊かれて、お釈迦さまは答えます、
はじめは「正しい見方をしている人」VS「凡人」を対比しているのが、
中盤で「男性」VS「女性」という図式になります。
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(以下はお釈迦さまの言葉)
「女性が尊敬に値する、正しく完全に悟った人になることはありえず、
考えられない。そんな道理はない」と知る。
「男性が尊敬に値する、正しく完全に悟った人になることはありうる。
そういう道理はある」と知る。
「女性が転輪王になることはありえず、考えられない」
(でも男性はありえる、以下同じ)。
「女性が帝釈天の位につくことはありえず、考えられない」
「女性が魔王の位につくことはありえず、考えられない」
「女性が梵天の位につくことはありえず、考えられない」
『原始仏典 中部経典Ⅳ』(春秋社)第115経 山本充代訳
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お釈迦さまは在家向けにわかりやすい俗説を混ぜるなど、
相手によって言葉を選んでいますが、
上記はアーナンダに言った言葉ですからね。たぶん本音です。
ほかにも、男の僧(比丘)より、女の僧(比丘尼)のほうが
律が多かったりして、組織運営上も男有利になっています。
そういうことから、「仏教は女性差別か」という議論がされるわけですが、
まぁ素直に読めば、女性差別ですよね、今の基準から見れば。
でも、いちおう女である私は、不思議とそれで腹が立ったりはしない。
「大昔だから仕方ないでしょう」でスルーできてしまうんです。
「生まれでなく行いで決まる」を基本テーゼに据えた以上、
お釈迦さまが現代にいたら
「あの男・女の条項は削除」と言うに決まってますし。
なので、仏教の女性差別問題には、興味がありません。
これって、考えたら不埒な考えかもしれないですね。
「お釈迦さまの教えも時代に拘束される」と思っているわけですから。
むしろ「女性差別だ」と怒る人のほうが真面目な仏教徒かも。
ただ、聞いた話によると、現代の僧団でも、
男というだけで比丘尼にエラそうにしている比丘もいるそうで、
それは顔を洗って出直せと思いますけれども。
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道を歩くのは自分(中部107経 算術家モッガラーナ)
中部経典の最後の巻『原始仏典・中部経典Ⅳ』(春秋社、中村元監修)
を読み始めました。
ふ~。
繰り返しが多いので、ここまでくるとさすがに、今まで読んだお経とだいたい同じ、
ということが増えてきます。
でも何度も同じフレーズを読むのは復習として大変けっこうだと思います。
第107経「算数目犍連経」(算術家モッガラーナ)。
あの仏弟子のモッガラーナとは別人ですよ。
算術家バラモン=算術によって生計を立てるもの=とのことですが、
数学者のようなバラモンなのでしょうか?
モッガラーナは、お釈迦さまに尋ねます。
建築物やバラモンの学問や算術には、順序だった指導法がある。
私たち算術家は、内弟子を取ったら、1、2から100まで数え上げさせる。
「どうです、ゴータマさん、できますか、あなたがたの教えと戒律においても
順序だった指示・営為・進展を示すことが」。
モッガラーナさん、軽く挑発していますね。
お釈迦さまは「できますよ」と答えて、「戒律によって品行を正すこと」に始まり
「瞑想の第四の境地の達成」に至るまでの指導の順序を説明します。
するとモッガラーナは、
「なぜそのように指導されても、寂静の境地に至る者と、至らない者がいるのか?」
と、さらに質問します。
これに対する答えが、お釈迦さまらしく初期仏教らしくて清々しい。
道順を教えても、目的地に着ける者と、着けない者がいるでしょ?
それと同じことだ、と。
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「寂静の状態は存在し、寂静の状態に至る道も存在し、教導者であるわたしもおり、
しかも、わたしの弟子たちは、わたしからこのように導かれ、
このように教えられていながら、
ある者は究極の目標である寂静の目標に至るのですが、
ある者は至ることがないのです。
そのことについて、わたしになにができるでしょう。
バラモンよ、如来は道を説き示す者なのです」。
訳:松田慎也
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お釈迦さまの道案内で、あとは自分でがんばって歩きましょう。
イメージとしては人跡未踏の地の探検隊長
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自分を信じるのはよくない(『サンガジャパン』Vol.7)
仏教雑誌『サンガジャパン』VOL.7を読んだ。今回の特集は「少欲知足」。
みうらじゅんさんのインタビューがかなり長く出ていて、本当にゆるゆるで笑えた。
「弥勒の出現まであと何日」っていう電光掲示板があるといい、とか、
「釈迦と酒飲んでもつまんないでしょ」とかね(つまんないでしょうね)。
ちょっとだけ引用すると
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僕たちは「I don't believe me」って書いたTシャツ着てたほうが
いいんですよ。自分のことを信じすぎてる人が一番よくないと思う。
(中略)
そうじゃなくて、「ジョン・レノンならそんなことしないだろう」とか、
「ブッダならこうするだろう」と考えないと。よぎるんですよ、頭にね。
あの人ならしないだろうって悪事を止めたこと、僕たくさんありましたから。
だってもう、わかってるんでしょ。死ぬってこともわかってるんでしょ。
若いときからうすうす気が付いてたけど、「言うとなあ…」ってこと
あるじゃないですか。しらけるし、やる気もなくなる。
(中略)
だからさ、シャーリプトラあたりが、突っ込めばよかったですね。
悟りについて語るブッダに「それ言っちゃあおしまいですから」ってね。
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いくつか、その理解でいいのか?と思う箇所もあったけれど、
自分の人生に仏教を”使って”いる人ならではの面白さがあった。
みうらさんの持論である「童貞力」の話になったとき、
みうら「ダライ・ラマはどうなんですか?」
編集部「ダライ・ラマは童貞だと思います」
って、こんな不埒な一文に仏教雑誌で出会えるとは思わなんだ。
でもダライ・ラマのような人間的な色気というかチョイワル感が
童貞にして醸し出せるなら、やっぱりたいしたものだ。
それから、ドイツ人の禅僧・ネルケ無方さんのインタビューもあった。
面白かったのは、初期仏教のヴィッパサナー瞑想やマインドフルネスと、
禅の座禅の違いについて。
前者の修行をした人がネルケさんのお寺にやってくることがあって、
「見ていると、何でも<ゆっくり>なのです」と。
「何かやりきれていない、一歩引いている印象があります。
掃除などの場合、半分は掃除をしていて、
半分は掃除をしている自分を眺めているのです。
禅だったら百パーセント掃除に打ち込みます。
掃除して自分を忘れる。そういう印象があります」。
理論的にどうかは別として、実践者の印象として、なるほどなあと思った。
それから『つぎはぎ仏教入門』を書いた呉智英さんと宮崎哲哉さんの対談は、
とっても難しい単語が飛び交う。
面白かったのは、実存の問題・・・生と死がどうとか、自我がどうとか、
ということは、生きるか死ぬかの厳しい状態だと考えてる余裕がない、と。
お釈迦さまが「人生は苦だ」とか考える余裕があったのは、
とんでもなく恵まれた環境にいたからかもしれず、
「衣食足りて実存苦を知る」
「つまり、知識とか思想ってそういうものじゃないか、と。
悪く言えば、金持ちのボンボンの妄想みたいなものかもしれない、と」
(by 宮崎さん)。
そう考えると、飢饉で人がバタバタ死んじゃうような時代には
お釈迦さまの教えがイマイチ受けが悪くて、
現代になってバック・トゥ・釈尊のような状況になっているのは、
みなさん衣食足りてきたからかも?と思えなくもない。
『サンガジャパン』、面白いよ!

