仏教と量子力学をこじつける前に(科学と仏教の接点・第7回)
東京禅センター主催、花園大学・佐々木閑教授プレゼンツのセミナー
「科学と仏教の接点」第7回に行ってきた。
毎回、いろいろな科学分野の先生をゲストに招いてお話を聞くのだが、
今回のゲストは東工大・理学部物理学科の細谷暁夫教授。
ついに出たっ「量子力学」である。
というのは、「量子力学と仏教は似ている」という論調が一時期はやって、
量子力学によって仏教の正しさが証明された、ぐらいの勢いの人もいて、
個人的には、なんだか眉唾な論調だなあ、と思っていたのだった。
仏教だけでなく、老子関係の人からオカルトの人まで、
量子力学で「我が意を得たり」と盛り上がったようである。
でも、このセミナーは、そういう話ではない。
世界に対するさまざまな見方を知ることで、
私たちの”常識(または迷妄)フィルター”をいっぺん解除してみよう、
というストイックな態度で、9割は科学の話で終わる。
何年か前に、NHKで般若心経についての番組があった。
その最後に、量子力学でお馴染みの「シュレディンガーの猫」が出てきた。
このかわいそうな猫ちゃんは箱の中で、ある方法で毒ガスを浴びせられ、
量子力学によると箱の中で50%死んでいて同時に50%生きているみたいな、
常識は考えられない生死併行状態(重ね合わせ)にあるそうである。
観測者が箱を開けるといきなり、生きてる・死んでいるという、
どちらかの状態にジャンプするそうである(乱暴な説明で失礼します)。
これはシュレディンガーさんの思考実験で、動物虐待ではありません。
番組では、この、生きて同時に死んでいる猫ちゃんのあとに、
「これこそ色即是空です」的な解説を加えて、
「なんと最先端の科学が行き着いたのは『空』だったのです」的な
しみじみナレーションが入って、「般若心経すげえ」という印象を与えて終わる。
今回、細谷教授のお話を聞いて、
上記のような話が「やっぱり眉唾だった」という感想を持った。
(以下は私の脳内再構成なので、間違いがあれば私の責です)
細谷教授によると、量子力学というのは
「まずは事実があって、それを全部受け入れて、
なんとか説明して物事を前に進めるためのマニュアル」だという。
その最初にある「事実=実験結果」が、ものすごく常識はずれなので、
量子力学というマニュアルも、ものすごく常識と乖離したものになる。
少なくない研究者自身が「気持ち悪いなあ」と思っているらしい。
でも、このマニュアルが使える(各種実験結果が説明できる)もので、
現に量子力学を使った実用的な技術がバリバリ開発されている。
その奇妙な実験結果については、長くなるので省略するが・・・
・「二重スリット実験」で検索するといろんな人が書いている。
たとえば、日立の外村教授のこのページ
http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doubleslit.html
・もっと奇怪なことは「観測問題」「観測の公理」で検索すると
いろんな人が書いている。
簡単に言うと、同じ物理現象のはずなのに、
観測できる仕組みを作ると、実験結果が変わってしまうというのだ。
この腑に落ちなさで量子力学を嫌になってしまう学生も多いのだとか。
しかも! もう結果が決まったはずの事後に観測しても、
実験結果が変わってしまうというのだ。
(二重スリット実験で、もう粒子が2つのスリットの
どちらかを通ったあとで、どっちを通ったかわかる仕組みにすると、
干渉縞が消えてしまう。わかる仕組みにしないと干渉縞が出る)。
てことは、後でやったことが、前の事実を左右するも同然で、
だったら因果律は放棄すべきなのか?
セミナーでは、そういう鋭い質問が出た。
それに対する細谷教授のお答えが、ふるっていた。
「この程度のことで因果律を放棄すべきではない」。
因果で説明できると素朴には言えない、という程度のことであって、
この実験データも説明できる形で、因果律は再構築できると思う、
という趣旨の答えだった。
(ああ、やっぱり「二重スリット実験」を具体的に書かないと
全然わかんないですよね・・・)
なんか、文化系の人が見ると、事実としての実験データと、
それを説明するための便宜とを、ごっちゃにしてしまいがちだ。
よく言われる「光や電子は粒子でもあり波でもある」という話も、
「現実に見えてる<もの>は粒子。そのバック(見えてない状態)
を説明するには波という<こと>を使う必要がある」というふうに
切り分けて考えるべき、らしい。
それを「粒子は<色>で、波は<空>。つまり色即是空だ」と
書いた禅の人がいたけれど、
なんだかアバウトな雰囲気論だなあ、という気がする。
そんなわけで、科学者自身が量子力学の一部を「気持ち悪い」と
思っているなら、今後もっとクールな説明が出てくるかもしれない
(先ほどの、シュレディンガーの猫にしても、
「気持ち悪いでしょ?」と矛盾点を突くための思考実験だという)。
あるいは、さんざん議論して出てこないのだから、
もう新解釈は出てこないかもしれない。どうなるかわからない。
いずれにせよ、宗教・哲学の人は、自分の分野にこじつけて
あんまり舞い上がらないほうがいいように思った。
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原案は僧侶の著作でカンヌ受賞のタイ映画を観た(「ブンミおじさんの森」)
2010年のカンヌ国際映画祭で、タイ映画で初めてパルムドール(最高賞)
を取った映画だ。審査委員長は、ティム・バートン。
不思議な映画で、正直いって多くの人は「ああ退屈」と思うだろうし、
私も「素晴らしい」と思ったわけではないけれど、
なにか記憶に残りそうな映画ではあった。
お坊さんの著作にインスパイアされただけあって、仏教の香りもした。

=====ストーリー(公式HPより)============================================
タイ東北部のある村。
腎臓の病に冒され、死を間近にしたブンミおじさんは、ジェンとトンを呼び寄せる。
ジェンは、ブンミの死んだ妻の妹だ。
夜。ブンミとジェン、トンが夕食を囲んでいると、
そこにふっと、女性の姿が現れる。19年前に死んだブンミの妻、フエイだ。
フエイはブンミの病気が心配でやってきたのだ。フエイの姿は42歳の時のまま。
ブンミたちは最初こそ驚くものの、懐かしさから皆で語らいはじめる。
しばらくすると物音がして階段を何か黒いものが上がってきた。
数年前に行方がわからなくなった息子ブンソンが、姿を変えて戻ってきたのだ。
愛するものたちがブンミのもとに集まってきた。
いよいよ行く時が近づいてきたのだ。
ブンミは前世を思い出す。
ある日、ついにブンミはフエイ、ジェン、トンとともに森に入っていく。
奥へ奥へと森をすすみ、やがて4人は洞窟の中へ。
真っ暗な洞窟の中。
岩がまるで宇宙の星のように輝くのを見ているうちに、
ブンミはここで生まれたことを思い出し、自分の前世に思いを馳せながら、
つぶやくように話しはじめた……。
セーン・アルン寺の僧 プラ・シリヤッティヴェティー著
「前世を思い出せる男」より着想を得た
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死んだ人が現われたり、前世がどうのというと、またややこしくなるけれど、
この映画では「そんなこともあるかもね」ぐらいの、ふっとした感じで描かれている。
タイは仏教国ではあるけれど、「ピー」と呼ばれる精霊信仰も現役らしい。
前にバンコクに行ったとき、各家の庭に小鳥用の巣箱みたいなのがあって、
それはピーのための祠だとのことだった。
この映画でも、行方不明の息子ブンソンは、猿の精霊になって戻ってくる
(タイ語はわからないけれど、「ピー」という言葉が連発されていた)。
好きだったのは、ブンミさんのお葬式のシーン。
タイの橙色の袈裟を着たお坊さんたちが読経していて、
横に赤・青・黄の豆電球の電飾祭壇があって、
その郊外モーテルみたいな安っぽさが素敵だった。
あと、ブンミさんの甥っ子が、短期出家みたいなのをしていて
(親族が死ぬとそういう習慣があるのかな?)、
寺は怖くて眠れないという。
で、寺を抜け出して、母親が香典を数えてるホテルの部屋にやってくる。
「あんた、お坊さんなんだから、こんなとこ見られたら困るわよ」
なんて言われながら、ジーンズに着替えて、安っぽい店にご飯を食べに行く。
精霊とか、電飾祭壇とか、いい加減な出家とかに、
生きた仏教国らしさを逆に感じたのだけれど、どうなのでしょうか。
なにごとも、いい加減なほうが続くものですし。
ただ、タイ人がこの映画を観たらどう思うかはわからない。
2007年にカンヌでパルムドールを受賞した、奈良を舞台とする
河瀬直美監督の『殯(もがり)の森』を観て、私は最悪だと思った。
カンヌは、インテリ西欧人がアジアに求める”素敵なサムシング”を観せると
賞がもらえるという傾向もあるので、くせものである。
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仏教はなぜ「来世」を必要としたのか(『正法眼蔵を読む』その2)
正しい行いをせよ、善行を積みなさい、ということが仏教では説かれる。
もし私が、仏教などまるで興味のないヤサグレた人間なら、
訊くだろう、「なんで善い行いをしなきゃいけないの?」
「因果ってのがあってね、善いことをすれば善い結果(報い)、
悪いことをすれば悪い結果(報い)があるんだよ」
「でも、いつも善い行いをしている人のに酷い目に遭い続ける
人もいるし、逆に悪人がのうのうと幸せに暮らしているって、よくある話でしょ」
「うん、それは来世や来々世で帳尻が合うとされてまして・・・。
悪行も善行で相殺されるポイント制になっていて、
善業ポイントが貯まると仏になれることもあるそうだよ」
「そんなの、どうやって検証できるのさ?
その人が来世で誰になったかDNA鑑定でもするの?」
「検証はわかんないけど・・・でも、善いことすると、
とりあえず気持ちいいでしょ?」
などといって、薄く微笑するぐらいしかできないだろう。
根本敬画伯の名作漫画「因果鉄道の旅」(93年)。
で、南直哉さんの『正法眼蔵を読む 存在するとはどういうことか』
(講談社選書メチエ)の続き。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11029703092.html
この本で最後に提出された問いは
「仏教は何を説く目的で因果を教説に導入したのだろうか」ということだ。
(※本の中では『眼蔵』を引用しながら、もっと多角的に解説されて
いるのだけれど、以下は私の興味でつまんだものなので、
何かおかしくても私のせいです。青字は同書からの引用)
『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか (講談社選書メチエ)
原因ー結果の法則が、事実であれば話はシンプルだ。
けれど「この世界には因果律という原理が内臓され」ていて、
「機械のように自動的に作用する」ものとみなすこと、
イコール「因果の実体視」は、少し考えればすぐ破綻する、と同書は書く。
たとえば家が崖崩れでいきなり潰れたとして、その原因が、
地盤が緩んでいたせいなのか、家が古かったせいなのか、
子供のころ動物を殺したせいなのか、前世で何かやらかしたのか、
それとも山の神が怒ったのかは、証明不可能だ。
また、因果が「原理」「法則」なのだとしたら、
同じ原因に対して必ず同じ結果が現われないとおかしい。
でも、たとえば人を殺した場合、ある犯人は捕まって死刑、
ある犯人は逃げおおせてマカオで遊んで暮らしましたとさ、
じゃあ彼らは来世や来々世で帳尻が合ったかどうかなんて、
どうやったって証明不可能だ。
そもそも、何かの事態(結果)があったときに、
「なぜ?」と理由を探して、あとで何かの「原因」を探し出す、
というのが人間の思考パターンだ。
つまり「因果関係は実体としてそれ自体存在する原理ではなく、
人間の思考によって設定されたもの、考えるという行為の根幹を
なすとはいえ、ただの方法」なのだ。
では、お釈迦さまは、なぜこの「方法」を採用したのだろうか?
ここで南さんは、パーリ語仏典・増支部(3-61)を引用する。
お釈迦さまは「前に為されたものを堅実であると執する」宿命論や、
まったく偶然だとする論や、神の思し召しだとする論―ー
要は「自分の努力ではどうにもならん」という考え方を否定して、このように説く。
「比丘らよ、いま応供・正覚者である私も、
業論者であり、行為論者であり、精進論者である」
お釈迦さまが宿命論・偶然論・超越神論を否定するのは
「このような考え方が、修行者自ら為すべきことを意欲し、
それに向かって努力することを否定している点に、その核心がある」。
「釈尊の場合、因果を説くのは、志を立て努力する修行者の
在り方を可能にする方法として、不可欠であると考えているからであろう」。
だから、因果は修行をするための「方法的概念」ということになる。
「仏教の因果説は、この意味においてのみ正しい。
仏教の教えを信じ、納得し、共有し、精進しようという者たちにとってのみ、正しい」。
そして、因果という教えの効果は、修行によって検証するしかない。
修行をして、その結果悟れた・仏になれたー―と体感できればいいのだが、
「問題は、この世において、悟ることはともかく、
釈尊以外に確かに成仏したと言える人物が見当らないことである」。
「成仏も涅槃に入ることもこの世で簡単には成功しない以上、
最終的に方法の効果を検証することは難しいだろう」。
修行者は、効果を体験できないまま、検証を留保して、
「因果という方法を”信じる”ことの抜き差しならない必要性があるのだ」。
「つまり、仏教とは神でなく、因果を信じる教えなのだ」。
この「体験できないけど信じる」という状況のなかで、
来世や前世という概念が必要になってくる、と南さんはいう。
「修行の中で自分の力の限界が自覚されればされるほど、
その発心と志は未来を求めるだろう。
つまり、未完の修行の継続を願う意志が、来世をリアルに要請する」。
前世もまた同様。
「すなわち、前世も来世も、地獄も天界も、
修行への意志と教えへの確信がなければ無意味な概念なのである」
「この世での完成が不可能な修行を、さらに続ける意志と希望を、
あえて『来世』と呼ぶのである」。
この南さんの本は、ハッとする言葉がもっといくらでも出てくるのだけれど、
あまり転載すると営業妨害になるので、このへんで我慢します。
