釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -83ページ目

血と肉とキリストが好きな園子温監督

11月12日(土)に、園子温(そのしおん)監督の新作映画「恋の罪」が公開される。
DVD派の私だけど、これは行かなくちゃ~。
恥ずかしながら最近の作品しか見ていないのだけれど。

いま日本で一番疾走感のある園子温さん(49歳)は、日本では珍しく宗教をいじれる監督だ。
「シオン」という名から想像するとおり、キリスト教、というかキリストのファンだという。
昔、家出して上京してすぐ、五反田駅前で「神を信じますか?」と声をかけてきた
新興宗教にも付いていって、どっかの教会で生活していたそうだ。
(そこから脱会するために、今度は成田闘争をやってた極左団体に入ったというのもすごい)


「恋の罪」
渋谷・円山町のラブホテルでの殺人事件(東電OLですね)に着想を得たという作品


http://www.koi-tumi.com/index.html


「愛のむきだし」
はっきり宗教を扱った作品。敬虔なキリスト教の牧師の一家が新興宗教に洗脳される。
満島ひかりが「コリント人への手紙13章」を延々絶叫するという、日本映画離れしたシーンも。
4時間もあるけど全然飽きず、世界がドギモを抜かれた。



「冷たい熱帯魚」
キリスト像が飾ってある禍々しい山小屋で、殺した人間を楽しそうに解体。


あと有名なのは、「自殺サークル」や「紀子の食卓」かな。
「自殺サークル」は、謎が解けないで終わるので欲求不満な人もいるようだけれど
「あなたとあなたの関係は?」という問いは、ちょっと仏教にも通じるかも。

どの映画も、血がビャーッと飛び散るので、真面目な仏教徒の方にはお勧めしません。
園監督は、インタビューで「クリスチャンではなくて、ソロのキリストのファン」と言っていた。
「たぶんジョン・レノンもキリストをライバル視してたと思うけど、
史上初のロックスターはキリストだと思う。若くして死んだっていうのもロックスター的だし」。
http://rooftop.cc/interview/001821.php

「愛のむきだし」の中で、満島ひかりが「カート・コバーンの次にカッコいい男を見つけた。
それはキリスト」とか言って、うっとり聖書を読んでるシーンもあった。
(カート・コバーンと言えばニルヴァーナ、ニルヴァーナといえばお釈迦さまでしょうが!)
思えば、私も、仏教ではなくてお釈迦様ソロのファンのような気がしてきた。

悔しい。仏教を扱った、こういうエッジの効いた映画は現われないものか?
仏教に触った映画は、なぜみんな辛気臭いのか?
たぶんキリスト教は血と肉の匂いがするから映画的なのだろう。
でも、無常とか無我を唱えたお釈迦様は結構な思想的テロリストで、
キャラクターではキリストに負けてないと思うのだが。

園監督、お釈迦さまも実はキリスト並みにヤバいスーパースターなんですけど、
釈尊映画を撮ってもらえませんかね?

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愛するものをつくってはならぬ(ウダーナヴァルガ 1)

本日は「ダンマパダ」と同じ文庫本に入っている
「ウダーナヴァルガ」の中から覚えておきたい詩のメモです。

『ブッダの 真理のことば 感興のことば』(岩波文庫 中村元訳)の
「 感興のことば」のほう。
昔はひろく読誦されたらしいけれど、
今では一般にあまり知られていないそうです。
「ダンマパダ」と重なる詩も多く、
「ウダーナヴァルガ」も名言の宝庫なんです。


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第1章 無常

43
「わたしはこれをなしとげた。
これをしたならばこれをしなければならないであろう。」
というふうに、あくせくしている人々を、老いと死が粉砕する。

第3章 愛執

4
恣(ほしいまま)のふるまいをする人には、愛執が蔓草のようにはびこる。
林のなかで猿が果実(このみ)を探し求めるように、
かれは(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。


第4章 はげみ

22
たといためになることを数多く語るにしても、
それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
牛飼いが他人の牛を数えているようなものである。
かれは修行者の部類には入らない。

23
たといためになることを少ししか語らないにしても、
理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てたならば
その人は修行者の部類に入る。


第5章 愛するもの

8
それ故に、愛するものをつくってはならぬ。
愛するものであるということはわざわいである。
愛するものも憎むものも存在しない人々には、わずらいの絆は存在しない。

18
どの方向に心でさがし求めてみても、自分より愛しいものをどこにも見出さなかった。
そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである。
それ故に、自分のために他人を害してはならぬ。

19
すべての者は暴力におびえている。すべての(生き物)にとって生命が愛しい。
己(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

25
他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである。
この世では人々にほめたたえられ、死後には天上に生まれる。

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ビジネス系自己啓発本などを見ると、
目標を決めて達成したら次の目標を決めて、というのが良しとされますが
1章43「『わたしはこれをなしとげた。
これをしたならばこれをしなければならないであろう。』
というふうに、あくせくしている人々を、老いと死が粉砕する」
という詩を思い出します。


5章8「愛するものをつくってはならぬ」。うくく・・・。


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南直哉さんの講座が強烈に面白かった

いちおう曹洞宗の禅僧・南直哉さんが、ほぼ月に1度やっている
「仏教・私流」という講座に行ってきた(@東京赤坂・豊川稲荷)。

ナマ南さんの話を聞くのは初めてだけれど、びっくりした!
噂には聞いていたが、ほとんど落語だ。内容も、めちゃくちゃ面白い。


南さんのブログ(http://indai.blog.ocn.ne.jp/ )に、
日時・場所だけが書いてあって、何の話だかも知らずに行ったのだけれど、
私の知りたいことに完璧にぴったりの内容だった。
基本的には仏教史で、この
日は日本に仏教が伝来する前後――
アニミズム的八百万(やおよろず)の日本が、
外交上の必要に迫られて仏教を輸入して、その立役者として
聖徳太子という在家者を仏教のヒーローに仕立て上げる過程を
1時間半にわたって話してくださった。


日本書紀からハイデガーまでをこってり煮込んで
落語仕立てにして会場を爆笑させるのだから尋常ではない。


ライブ前提で話したことを、
ブログとはいえ文字にしていいかどうかわからないので,ちょこっとだけ・・・。
(以下は私の興味で書きなぐっているので、南さんの言葉ではありません)。


不断の努力で自己を消しにかかるお釈迦様の硬質な教えが、
なんで日本では「ありのままでいいんだよ」(本覚思想)とか
「みんな本来は仏」みたいにふわっとした話になったのだろうか。

そこには、強固な地縁・血縁共同体の存在があるという。

島国で、異民族にバッサリやられたことがない日本では、
ちょぼちょぼ来る外国人を取り込む形で共同体が生き延びてきた。
そうすると、自己が自己である根拠を、
家族や地域や会社といった共同体が与えてくれる。
「○○村の角の家の息子」とか「○○ちゃんのお母さん」とか
「○○商事の社員」といったことで、とりあえず自分が安定する。
だから日本では、超越的なものは根付かない、と南さんは言う。
なぜなら、必要がないから。


理解不可能の異質な他者がごちゃごちゃいれば、
「じゃあ、こういう違いを超越した、物事の根源はなんだろう?」
「ここにポツンといる私というものの根拠はなんだろう?」
と悩み始めたりするけれど、日本はどうもそうでないらしい。
だから、仏教もキリスト教もマルクス主義も実存主義も、
日本風にコーティングされるか一時のブームで終わってきた。


むきだしの自分とお釈迦さま・・じゃなくて、ダンマとが、
この世に他の何も存在しないみたいに直接対峙する、
というふうにはならないわけだ。


「共同体にいる限り(自己を規定されている限り)、
<自由で平等な個人>なんて、絶対に現われません!」
と南さんは10回ぐらいおっしゃった。
そりゃそうだ。シナリオは共同体側が書いているのだから。

「○○商事の社員」、家に帰れば「○○ちゃんのパパ・ママ」として
日々暮らしてる「そんなあなたは、ありのままで実は仏です」
と言われてハッピーならば、結構なことだけれどね。


昨今、「無縁社会」がイカンということで、「共同体」「コミュニティ」の復権を言う人が多い。
私はそれが、少し気持ち悪い。

本当は誰も<自由で平等な個人>になんかなりたくないのかもしれず、

それを自覚してるなら一つの見識ではある。


南さんの「仏教・私流」は、予約不要で誰でも参加できる。
(参加者は100人ぐらいいたかもしれない。
 しかも無料で心苦しい。お布施でも取ってくれないだろうか)
次回は、たしか11月30日・午後6時半~だったかな。
南さんのブログでサラッと告知されるだけなので、興味ある人はお見逃しなく。

http://indai.blog.ocn.ne.jp/


 

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