増上寺三解脱門の一般公開に行ってきた
増上寺(東京・芝)三解脱門楼上の一般公開に行ってきた。
(2011年11月30日まで)。
平日なので拝観客は20人ほどで、あの様子だと休日もさほど混まないと思う。
http://www.zojoji.or.jp/index.html
拡大すると階上の窓が空いているのが見えるが、そこにお釈迦さまがいる。
楼上の釈迦三尊像(脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩)は、
戦後初公開だけあってさすがに保存状態がいい。
お釈迦さまは肌がチョコレート色で、衣には蒔絵風の模様がしっかり残っていた。
いままで作者は不明だったけれど、最新の研究によると
16世紀末~17世紀初めに奈良を中心に活躍した下御門仏師・宗印一門の
手によるものだという。
左右に並ぶ十六羅漢像は、阿羅漢(修行僧の最高位)なのに、
袈裟でなくて華やかな模様の着物を着ている。これじゃ在家だ。
初期仏教では、阿羅漢は仏と同じく涅槃に入って2度と生まれない、
ほとんど仏レベルの偉大な存在だったけれども、
大乗仏教では弟子の阿羅漢じゃ満足できないから仏を目指すぞ、という話になったので、十六羅漢像は有難味のない在家の格好をしていると聞いた。
(表情もけっこう邪悪だったりする)
奥が十六羅漢さん。手前の小さい像は増上寺の歴代上人。
この一般公開の入場料は500円で、
増上寺オリジナルのボールペンがついてきた。
要注意なのは、特設の階段がものすごく急なこと。
脚が弱ったお年寄りとか、極度の高所恐怖症の人にはキツいと思った。
あと、高いハイヒールは履いていかないほうがよさそう。
日本は釈尊像にあまり出会えないので、じっくり手を合わせてきた。
仏像に手を合わせるとき、頭の中でどんな言葉を唱えますか?
お釈迦さまなら「三宝に帰依いたします」と言えばいいのだろうけど、
日々仏典で教えを賜っている私がつい唱えてしまうのは
「いつもお世話さまです」。なんなら名刺でも出してしまいそうだ。
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修行僧の自殺に、お釈迦さまが言ったこと(中部経典144経「教闡陀経」)
本日は中部経典144経「教闡陀経」(修行僧チャンナの自殺)のメモです。
出ましたな、仏教における自殺問題。
自殺に触れたお経では「ヴァッカリの自殺」(サンユッタ・ニカーヤ)が
よく知られていますが、「教闡陀経」でも修行僧のチャンナが自殺してしまいます。
病気でひどく苦しんでいるチャンナ尊者を、
サーリプッタとマハーチュンダがお見舞いにいきます。
チャンナはあまりの苦しさに、「もう耐えられない」
「友サーリプッタよ、わたしは刃物を手に取り、(みずから命を絶つ)。
もうこれ以上、生き続けたいとは思わない」と言います。
それに対するサーリプッタの答えは、胸に迫るものがあります。
==================================
「チャンナ尊者は刃物を手にしてはいけない。
チャンナ尊者は行き続けるべきだ。
われわれはチャンナ尊者に行き続けてほしい。
もしチャンナ尊者にからだによい食べ物がないならば、
わたしがチャンナ尊者のために、からだによい食べ物を探してこよう。
もし、チャンナ尊者によく効く薬がないならば、
わたしがチャンナ尊者のために、よく効く薬を探してこよう。
(中略)
だからチャンナ尊者は刃物を手にしてはいけない。
チャンナ尊者は行き続けるべきだ。
われわれはチャンナ尊者に行き続けてほしい」
==================================
けれども、病苦に耐えかねたやはりチャンナ尊者は
「非難されるべきことはない」(註:もう生起しない、涅槃に入る)
と言明したうえで、刃物で自殺してしまいます。
このことをお釈迦さまに報告したら、お釈迦さまはこう話します。
==================================
「サーリプッタよ、そなたの面前で、修行僧チャンナは
『非難されるべきことはない』と言明したのではないか」
「だれかがこの身体を捨てて、(生まれ変わって)他の身体をもとうと
執着するならば、そういう人が『非難されるべきだ』と
わたしはいうのである。しかしチャンナ尊者はそうではなかった。
だからチャンナ尊者は非難されるべきことはなく、
刃物を手に取り(自殺)したのである」。
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仏典を読むかぎり、お釈迦さまは、自殺を批判はしません。
「ヴァッカリの自殺」でもそうでした。
カトリックで自殺を大罪と見るのは、神が自分に似せて創った人間が
自らを殺すのは、神への冒涜・反抗だという理屈が成り立つからでしょう
(だからカトリック国では、
本当は自殺でも事故死だとする人が少なくないと聞きます)。
そういう創造神を立てない仏教では、「自殺=悪」という考え方を導き出せない――
仏教者・専門家の一般的見解もそのようであるらしく、
なによりお釈迦さまの「自殺=悪」という言葉はないのですから。
禅僧の南直哉さんが、出家することを「自殺しない決断でもあった。
自殺も殺生だから」といったことを書いていて(「語る禅僧」かな?)、
果たして自殺は殺生なのかしら?と思っていたら、
最近のブログで少し違うことを書いてらして、共感しました。
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2011/08/post_9d72.html
「テレビで細木数子が『自殺すると地獄に落ちるわよ』と言ってたので、
怖くて自殺しなかった」という人に以前会ったことがあって、
うそでもそう言っておきゃあ、わずかな抑止力になるのかもしれません。
でもそれは諸刃の剣でもあって、私も親しい人が何人か自殺していますが、
彼らが地獄に落ちたことになってしまいます。
精神科医の斎藤環さんが、「どれだけ手をつくしても、自殺する人はしてしまう」と
辛そうに言っていましたが、
他人からは伺い知れない全身全霊の決断を「ダメだ」と否定はできないし、
否定しなかったお釈迦さまはやっぱり素晴らしいと思う。
じゃあ、自殺にシレッとしてればいいかというと
そう単純なものではないと思うのは、前述のサーリプッタの言葉です。
「私はあなたに生き続けてほしい。そのためには何でもする」
こちらも全身全霊でそう言う以外に、やれることはないように思います。
こういう本があった。未読だけれどハードボイルドな内容らしい。
つれない人・お釈迦さま(中部経典142経「施分別経」)
お釈迦さまは、つれない人です。
いくら思慕しても、いくらお布施を積んでも、
満面の笑みでハグしてくれたりはしません(お経に残された限りではね)。
だから、お世話係でいつもお釈迦さまにくっついてるアーナンダに、
みんな嫉妬したんじゃないですかね。
そんな、つれないお釈迦さまのエピソード。
中部経典・第142経「施分別経」(布施の解説)。
マハーパージャティー・ゴータミー(お釈迦さまの生母の妹、育ての母)が、
自ら紡ぎ自ら織った新しい布を持ってきて、
どうかお釈迦さま個人に受け取ってほしいと言います。
ですがお釈迦さまは
「ゴータミーよ、教団に与えなさい。あなたが教団に与えるならば、
まさにわたしが供養され教団も供養されるのです」と、個人では受け取りません。
マハーパージャティー・ゴータミーが3回頼んでも、
お釈迦さまは自らは受け取りませんでした。
こういうときにいつも、とりなし役になる心優しきアーナンダが
「尊師よ、まぁそう言わずに。
あなたを母乳で育ててくれた彼女が頼んでるんだから
受け取ってあげたらどうですか?」みたいなことを言っても、
やっぱりお釈迦さまは首を縦には振りません。
そこでお釈迦さまは、お布施の序列を解説します。
(1)個人に対する布施には14段階がある。
(如来への布施が1番、独りで覚った人への布施が2番・・・に始まり、
凡夫への施しが12・13番で、動物への施しが14番)
要は、徳の高い人に施すほど功徳が大きい。
(2)教団に対する布施には7段階ある(細かくは省略)。
でも、最低位の教団への布施であっても、
個人への布施よりも功徳がある。
面白いのは(1)で言うように、「誰々に布施したい」という
ご指名ができたということですね。別の本に書いてありましたが、
人気がある比丘は指名の布施が入ってリッチになり、
不人気比丘は貧乏だったというから、出家生活も楽じゃありません。
もちろん指名NO.1は、お釈迦さま自身でしょう。
でも個人よりも「教団への布施」を推奨するのをはじめ、
リッチ比丘とプア比丘の格差をなくすような仕掛けが
いろいろとあったようです。
それから、註に書いてあって面白かったこと。
(2)では、布施の序列が、男女教団両方→男教団→女教団という順で
功徳があるとされているのですが、これはおかしな話です。
なぜなら、この時点でまだ女性の修行僧はまだ一人もいないはず。
最初の女性教団は、マハーパージャティー・ゴータミーほか500人とされています。
マハーパージャティー・ゴータミーが出家したいと懇願しても、
お釈迦さまが「女性はなぁ・・」となかなか認めなかったのを、
アーナンダが「まぁそう言わずに」ととりなして、
500人の女性とともに出家したのが、初めての女性教団とされています。
とすると、この「施分別経」の段階で、マハーパージャティー・ゴータミーは
まだ在家だから、「女性教団」は存在しないではないかーーというのが、
註釈のいうところです。
あとでお経に手を加えて、
矛盾が出てしまったのかもしれませんね。どうなんでしょう。
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