人の死を嘆き悲しむのは無益である(スッタニパータ)
初期仏典読み直し、本日は初心に戻って
スッタニパータ(『ブッダのことば』岩波文庫)です。
何度読んでも名言の嵐だなあ・・・。
もっとも有名な「犀の角のようにただ独り歩め」シリーズはもう書かないけれども、
そのほか刺さる言葉をメモしてみます。
なかでも一番強烈なのは、「第三章 8 矢」ではないでしょうか。
逃れようのない「死」について、
これ以上ないほど身もフタもない事実が書かれていて、ドキドキします。
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第三章 8 矢
574
この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、
どれだけ生きられるか解らない。
惨(いた)ましく、短くて、苦痛をともなっている。
575
生まれたものどもは死を遁(のが)れる道がない。
老いに達しては死ぬ。
実に生あるものどもの定めは、このとおりである。
579
かれらは死に捉えられてあの世に去っていくが、
父もその子を救わず、親族もその子を救わない。
580
見よ、見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、
人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
581
このように世間の人々は死と老いによって害(そこな)われる。
それ故に賢者は世のなりゆきを知って、悲しまない。
582
汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。
汝は(生と死の)両極を見極めないで、いたずらに泣き悲しむ。
583
迷妄にとらわれ自己を害っている人が、もし泣き悲しんで
なんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
585
みずから自己を害いながら、身は痩せて醜くなる。
そうしたからとて、死んだ人はどうにもならない。
嘆き悲しむのは無益である。
590
だから(尊敬さるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、
「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
(『ブッダのことば』岩波文庫 中村元訳)
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人が死んだ。定めどおりのことが起こった。嘆き悲しむのは無益である。
すごい・・・・。
もうお釈迦さまには付いていけませんわ、という人が続出しそう。
でも私は、仏教のこういうところが大好きです。まごうことなき事実だもの。
「人は必ず死ぬ。嘆くのは無益。それでOK」とシレッとするのでなくて、
「じゃあどうする?どう生きる?」という問いがここから始まるのだと思う。
普通に死ぬだけじゃなくて、毎日世界で何百何千の人が、殺されています。
通り魔に惨殺される人がいて、それが自分や自分の家族でなかったことは
たまたまラッキーだったに過ぎないわけですよね。
世界で起きたもっとも悲惨なことが、自分に起きるのは想定内といいますか。
で、友達と「どういう人間になりたいか」という話になったとき、
「家族が通り魔に殺されても眉ひとつ動かさない人間」と口走って、
激しくドン引きされたことがあります。
本当は「自分が通り魔に殺されかけても眉ひとつ動かさない人間」
になれたら最強だけれど、それはさすがに無理そうです。
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「四無量心のテーマ曲」を勝手に選定した
この3日ほど、ドビュッシーのもっともメジャーな曲のひとつ
「月の光」が鳴っている。
この曲を勝手に「四無量心のテーマ」ということにした。
「四無量心」(CATU-APPAMANNA-CITTA、
チャトゥ・アッパマンニャー・チッタの四とは、慈・悲・喜・捨の4つ。
慈=Metta (メッター) : 多くの人々に深い友愛の心を無量に起こすこと
悲=Karuna (カルナー) : 多くの人々の苦しみに同感共苦する心を
無量に起こすこと。
喜=Mudita(ムディター) : 多くの人々にの幸福を共に喜ぶこと
捨=Upekkha(ウペッカー) : あらゆる執着を捨てる心を無量に起こすこと
(新・佛教辞典)
この4つの心で満たされた境地はなんて素晴らしいんだろうと想像するけれど
どうやら仏教のなかでは最上の目標ではなくて、過程のようだ。
阿含経典・中部のなかに、こんなお話が出てきます。
アーナンダ尊者が、昔なじみのバラモンに久しぶりに会ったら
彼は修行をサボっていた。
老いた親の面倒や、生活に追われて、修行どころではなかったのだ。
そのバラモンが、病にかかって、余命わずかとなった。
アーナンダは、もう今から涅槃を目指すのは間に合わん、と思って、
「四無量心で心を満たしなさい。そうすれば梵天に生まれます」
と言い、バラモンはそのとおりにして死んでいく。
さしあって今から間に合うことを教えるのが、
人間味あふれるアーナンダ尊者らしいけれど、
周囲の比丘は「もっと上を目指すべきなのに半端なことを教えた」
といってアーナンダを非難する。
対して、お釈迦さまは、「彼は梵天に生まれた」と言って、
はっきりではないけれどもアーナンダを認めるような発言をする。
たとえ"過程”であっても、凡夫にとって「四無量心」で十分、という気もする。
生涯の目標として、「四無量心」でも道のりは激しく遠い。
お経に、こんなふうに出てくる。
慈しみを、上に下に右に左に、無限に広げよ。
悲・喜・捨も、上に下に右に左に、無限に広げていけ。
そうして四無量心で、自分と世界をいっぱいに満たせ。
この、満たされた境地は、幸せで安らかだ。
慈・悲・喜・捨で満たされた人になりたい
冒頭に書いたドビュッシーの「月の光」も、
広がって満たされて浄化されるイメージのピアノ曲だ。
もしこの曲が気に入ったら、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」という映画を観てほしい。
最後に男の子が、この曲をまるごと1曲弾く。
聴衆がスタンディングオベーション、というハリウッド映画みたいな野暮な大団円はない。
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善いことをしたならば安心しておれ(ウダーナヴァルガその2)
本日もパーリ語仏典「ウダーナヴァルガ」現代語訳から、
忘れがたい言葉のメモです。
いっぱい並べすぎましたが、
一句ずつかみしめて頂ければと思います。
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第8章 ことば
3
人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。
ひとは悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである。
9
すでに(他人が)悪いことばを発したならば、
(言い返すために)それをさらに口にするな。
(同じような悪口を)口にするならば悩まされる。
聖者はこのように悪いことばを発することはない。
愚かな者どもが(悪いことばを)発するからである。
10
口をつつしみ、ゆっくりと語り、心が浮つかないで、
事柄と真理とを説く修行僧ーーかれの説くところは優しく甘美である。
第11章 道の人
1
勇敢に流れを断て。諸の欲望をきっぱりと去れ。
諸の欲望を捨てなければ、聖者は一体に達することができない。
第14章 憎しみ
15
旅に出て、もしも自分にひとしい者に出会わなかったら、
むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道連れにしてはならぬ。
第16章
3
起て、つとめよ。自分のよりどころをつくれ。
鍛冶工が銀の汚れを取り去るように、自分の汚れを取り去れ。
汚れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、
汝らはもはや生と老いとを受けないであろう。
4
恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じないで、
恐ろしくないことを恐れ、恐ろしいことを恐れない人々は
邪(よこしま)な見解を抱いて、悪いところ(地獄)におもむく。
第26章
1
亀が諸の肢体(首と四肢と尾と)を自分の中にひっこめるように、
自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、
他人を悩ますことなく、束縛の覆いを完くときほごして、なんびとをも謗るな。
第27章
1
他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は見がたい。
ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。
しかしこの人も自分の過失は隠してしまう。
狡猾な賭博師が不利なサイの目を隠してしまうように。
15
世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。
世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
第28章
13
人は他人を浄めることができない。
もしもその他人が内的に心のはたらきが浄らかでないならば、
金剛石が宝石を磨くように他人を練磨すること(はできない)。
31
この世で善いことをしたならば、安心しておれ。
その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、
安心するがよい。
人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。
それの果報があるのだから、安心しておれ。
『ブッダ 真理のことば 感興のことば』(岩波文庫 中村元訳)
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お釈迦さま、ありがとう! 中村元先生、ありがとう!
