「延暦寺、山口組の参拝拒否」ってどうなのか?
11月17~18日、新聞各紙やテレビで、以下のようなニュースが流れた。
===================================
延暦寺、山口組の参拝拒否 排除条例、広がる対応
天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)が指定暴力団山口組(総本部・神戸市)に対し、
寺が安置している歴代組長の位牌(いはい)への参拝を控えるよう伝えていたことが、
寺への取材でわかった。
家族の参拝も断る、としている。山口組側は了承したという。
延暦寺によると、位牌は初代~4代目のもので、阿弥陀堂に安置されている。
2006年4月、直系組長ら約90人が集まって開かれた法要の際、まとめて永代供養を頼まれたという。
滋賀県警は、香典として数千万円が山口組に上納された疑いがあるとみている。
この法要を引き受けたことについて、「軽率な行為」などとの批判を受け、
翌5月、寺の執行部7人全員が引責辞任。その後は「個人の参拝まで拒むのは難しい」として毎年、
組側からの連絡を受けて親族の参拝を受け入れてきた。
しかし、滋賀県警によると、親族ではない組関係者の参拝も確認されたという。
寺は、山口組が仕切る法要が定例化したことを危惧し、排除に向けて昨年から検討。
今年5月、家族を含めて関係者の参拝を一切認めないことを決め、6月下旬に組側へ文書で通知。
組側から7月上旬、承諾する旨の文書が届いたという。
延暦寺の小林祖承総務部長は位牌の扱いについて「宗教上、返還は許されない」と
安置を続ける意向を示しつつも、
「社会の一員として、暴力団排除について誠実に対応をしていく」と話した。
10月までに全国で暴力団排除条例が施行。
天台宗も加盟する全日本仏教会(東京)は12月1日の理事会で、
暴力団排除への取り組みを再確認する予定だ。
神社本庁(東京)は今月に入り、「暴力団の団体名による祈祷(きとう)祈願については、
慎重に取り扱うよう留意する」と求める文書を、47都道府県の神社庁に送付。
これを受け、兵庫県神社庁は17日の役員会で、集団参拝の申し入れを断ることを確認した。
ただし信教の自由を尊重し、組員個人の参拝は禁じないという。
大阪府神社庁も近く、約600の加盟神社に対し、暴力団と関わらないとの方針を確認する文書を送る。
(朝日新聞 2011年11月18日)
===================================
また、京都新聞によると
104の宗派・団体が加盟している全日本仏教会が、
「12月の理事会で警察庁から暴力団排除について説明を受けた上で、
全国の仏教会や加盟宗派に警察との協力を要請するという」とのことで、
仏教界をあげて「暴力団の墓参りは親族でもNG」になるということ?
これってどうなんでしょう?
日本人は「死んだらみんな仏になる」とか、
「どんな悪人でも往生できる」とか「すべての人に仏性がある」とか、
そういう仏教でやってきたわけでしょう?
その話と、「暴力団は区別する」とは、つじつまが合うのかしら?
しかも、暴力団でも戒名をつけてるってことは、
「死んだら受戒して仏弟子になった」という建前なんですよね?
仏弟子になったのに、暴力団のままという扱いなのでしょうか?
あと、暴力団といっても、テキ屋系とか博徒系とかがあって、
みんなが人殺ししてるわけじゃないですよね。
違法カジノで荒稼ぎしてた暴力団がNOで、
フリーの殺人犯はOKという理屈はありえるのかしら?
世俗的にいっても、
この暴排条例は憲法違反だとの指摘もあるわけですよ。
「法を犯して取り締まられるのはかまわない。だが、今回の条例は
法の下の平等を無視し、法を犯してなくても当局が反社会的勢力だと
認定した者には制裁を科すという一種の身分政策だ」という、
司忍・山口組組長の言葉(10月1日、産経新聞)は理にかなってるのでは?
このように「?」が飛び交ってしまう私でした。
そりゃわかりますよ、
お寺といえども警察や行政や世論に逆らえない現実的な事情はね。
法要という名の資金集めもあったことでしょう。
けれど、生前に暴力団員だったという世俗的な理由で、
”仏”を別扱いするなら、その仏教的な理屈を聞いてみたい。
イオンの「戒名料定額制」より、大事な問題だと思うのだけれど。
にほんブログ村
ディベートなんかやめておけ(スッタニパータ その4)
もっともくだらない時間を過ごしたな、と後悔するのは、
飲み屋での論争に巻き込まれたときです。
どうせシラフになったら忘れるんだからやめとけよ、
と思うけれども、好きな人がいますよねー。
仕事の会議でも、たま~に論争になることがあり、
鬼の首でも取ったように誰かを論破するのは、
それなりに気持ちのよいものではあります。
ですが、お釈迦さまは、
少なくとも修行者同士の論争はあほらしいからやめておけ、
という立場のようで、仏典に何箇所かその旨が出てきます。
「スッタニパータ」の以下の詩句は、耳に激痛が走ります。
===================================
第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテイヤ
824
かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、
他の諸々の教えは清らかでないと説く。
「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、
それぞれ別々の真理に固執している。
825
かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を(愚者である)と烙印し、
他人を(師などを)かさに着て論争を交わす。
――みずから真理に達した者であると称しながら、
自分が称賛されるようにと望んで。
826
集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。
そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、
(他人から)論破されると、怒る。
827
諸々の審判者がかれの論敵に対し、「汝の議論は敗北した。論破された」
というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、
「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。
828
これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、
これらの人々には得意と失意とがある。
ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
829
あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、
心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。
830
心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。
しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。
このことわりを見て、論争してはならない。
諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは
説かないからである。
『ブッダのことば』(岩波文庫 中村元訳)
===================================
「称賛を得ること以外には、なんの役にも立たない」。
世俗の論争(仕事の会議とか国会とか学会とか)まで
こう言い切っていいのかどうかわかりませんが・・・
たぶん世にある論争の半分ぐらいには当てはまるように思います。
自分の発言が、実は称賛されたいからではないかどうか、
よくよく気をつけておかないといけませんねえ。
気のせいかもしれないけれど、
この部分の中村先生の訳が、ひときわふるっている感じがします。
仏教学者が人格者である必要は全然ないと思うけど、
仏教論壇でも、学会や論文において口汚い論争が起きたりして、
内容以前にその言動が仏教的に負け!みたいなことが
けっこうあるんじゃないですかね。
ましてや仏教ブログ内での言い争いとか、やめときゃいいのにね。
真理は「一切の世間の人々と正反対である」(スッタニパータ その3)
今週はやたら忙しくて、仏教時間を持つことができません。
ですが、こういうときこそ一言だけでも仏の言葉を。
================================
第三章 十二 二種の観察
761
自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と
諸々の聖者は見る。
(正しく)見る人々のこの(考え)は、
一切の世間の人々と正反対である。
762
他の人々が「安楽」であると称するものを、
諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、
諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。
無智なる人々はここに迷っている。
(『ブッダの言葉』岩波文庫 中村元訳)
=================================
スッタニパータは何度読み直んでも素晴らしいなあ・・。
「一切の世間の人々と正反対」だと、お釈迦さまは重々承知だったんですね。
現代でも、人が恐怖するのは死によって完全消滅してしまうことで、
生まれ変わりや「あの世」を信じるほうが気休めになる。
お葬式の弔辞で「天国でゆっくり休んでください」とか言うのも、
どこかにまだ存在していると思いたいからでしょう。
お釈迦さまは、それと真逆のこと―ー輪廻が苦で消滅が安楽だ、と言う。
古代インドではある程度、受け入れられる話なのかと思ったら、
当時から「世間と正反対」だったわけですね。
お釈迦さまは「きっとわかってもらえまい」と思いながら、
「解し難い真理」を45年も説き続けたのではないかしら……
そう思うと、切なくなってくるのでした。
にほんブログ村

