釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -79ページ目

もし神が狂っていたなら?

末木文美士先生の『日本仏教の可能性』(新潮文庫)を読み終わった。
(2~3日で読めますよ)。


いいことがいっぱい書いてあって、読むべき本もいっぱい出てくる。
ですが、手書きなら筆圧が、PCならキーボード圧が高そうな部分が
いくつかあって、たとえば「一神教と多神教」(P205)の項。


9・11以降、キリスト教VSイスラム教の”一神教バトル”は、
非寛容同士だから、どうしようもない血なまぐさいことになるね、
その点、日本は寛容な多神教でよかったね、
というような俗説が流布されている。
それを末木先生は「危険な議論」だと強く批判する。


(青字が引用)

===================================

そういう人たちによると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は
非寛容で戦闘的であり、それに対して日本のような多神教は寛容であり、
平和を求めるものだ、というのです。


しかしそのような議論ほど現実離れした危険な議論はありません。
明らかに為にする議論であり、偏狭なナショナリズムをカムフラージュして、
俗受けを狙ったものとしかいえません。

そもそも多神教の日本の宗教がそれほど寛容であったかどうか、
少し歴史を振り返ってみればわかることです。


(中略・江戸時代にキリシタンを拷問して弾圧したこと、
 昭和の戦争に神道仏教ともども易々と突っ込んでいったこと)


そのように見れば、多神教は寛容で一神教は非寛容だなどと、
軽々しく結論できないのは明白
です。


状況次第で、人は寛容にもなり、不寛容にもなります。(中略)
主義主張で寛容か不寛容か決まるわけではありません。

そもそも、一神教と多神教をそれほど決定的に相違するものと
見ることができるでしょうか。


(中略・戦国時代、神道は最高神を求める思考が発達するし、
 蓮如たちの阿弥陀信仰はかなり一神教的なところがある。
 逆に、キリスト教の聖者崇拝やマリア崇拝には多神教的要素がある)


一神教の発想の中には、私たちが学ぶべきことが少なくありません。
とりわけ、アウシュヴィッツの悲劇を生き延びたユダヤ人たちの哲学には、
私たちの思い及ばないような深い思索が展開されました。


『日本仏教の可能性』(末木文美士著、新潮文庫)
===================================


として、例示されるのが、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家です。
自らのホロコースト体験を「夜」という自伝的作品に書いて、
そののち86年にノーベル平和賞を受賞した人だそうです。

そのヴィーゼルの『たそがれ、遥かに』(原書1987、邦訳2005)という本の
引用が載っているのですが、これが、ものすごい。
孫引き引用させていただくと・・・


===================================

ぼくは言う、「今でも神を信じるには、狂っていなければならない、
君もそう思うかい、僕のように?」(中略)
しかし(ペドロは)答える。「私は別の説明を考えている。
もし狂っていたのが神だったとしたら?」


狂った神か、狂った人々の神、神は一人で、その孤独が彼に重くのしかかる。
もし、彼を癒すために、ぼくの確信を、ぼくの明日を危うくすることが必要なら、
ぼくはそうするだろう。


『たそがれ、遥かに』(人文書院、前田直美訳)
===================================


ホロコーストを体験して、なお神を信じるとすれば、
そんな悲惨を許した神を「狂っていた」と思うしかない・・・
というのは、まだ理屈の世界でわかる。


でも「その神の狂気をなお憐れみ、彼を癒すために自らを擲(なげう)とうと
するのです。そこには、いったんは揺らぎかけた神への信頼に、
再び回帰してゆく強靭なユダヤの伝統があります。
それは、日本のようなルーズな多神教世界では考えにくいことです

と末木先生は書いています。


「神の狂気を憐れむ」んですよ!?
このような、とんでもない信仰の世界は、想像もできません。

人間が理解できようができまいが、超絶的に存在する神がいるとすれば、
その点で、否定的な表現を使えば『無』と言ってもよいでしょう。
そう考えれば、仏教が最終的に突き詰めていくその極限と、
それほど変わりはありません
」と末木先生。


仏教は、超越的な神を立てない宗教といわれます。
それはそうなんだけど、
「無常」とか「空」とかの諸々は、狂った神と同じように、
底のほうでパックリと口を開けた交流不可能な闇のようにも思え、
ではアンタはどうするのか?と恐ろしい問いかけの声が
聞こえる気もしてくるのでした。

気休めに、『たそがれ、遥かに』を買ってみた。
アマゾン新刊は売り切れで、中古で850円て、安すぎないかい!?


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


お釈迦さまは偉大なる社会主義者 by高木顕明

日本仏教の可能性 現代思想としての冒険』(末木文美士著、新潮文庫)

を読み始めた。
2003~2006年の講演録が、いったん単行本になって、それが最近、文庫化された。
講演録だから、やさしく読みやすい。


仏教は昔の素敵なサムジングということじゃなくて、
自分の人生、社会の変革に、真剣に生かそうとした人が
近代日本にも随分といたそうで、
末木先生はそのへんの日本近代仏教の第一人者だ。


よく知られているのは清沢満之(きよざわまんし、1863~1903)。

だけれど、この本で、末木先生が注目している人物として、
高木顕明(1864~1914)を挙げていた。初めて知った名前だけれど。


高木顕明は、真宗大谷派のお坊さんで、仏教に社会主義を見た人なんですねー。
で、社会主義者弾圧の大逆事件によって、
ヌレギヌ的に無期懲役に処せられて刑務所で自殺してしまう。


欧米の借り物ではなくて仏教を社会主義の根拠にしたこと、
お釈迦さまを「偉大なる社会主義者」と書いていること、
阿弥陀仏は「平等な救済」で、浄土を「社会主義の実践の場」
と見ていることなどすごく興味深い。


「余が社会主義」という文書には、こんなふうに書いてある。

===================================

「余が社会主義」


緒言。余が社会主義とはカールマルクスの社会主義を禀けたのでない。
又トルストイの非戦論に服従したのでもない。
片山君や古川君 (ママ)や秋水君の様に科学的に解釈を与へて
天下に鼓吹すると云ふ見識もない。
けれども余は余丈けの信仰が有りて、実践して行く考へであるから
夫れを書て見たのである。何れ読者諸君の反対もあり御笑ひを受ける事であろ-。
しかし之は余の大イニ決心のある所である。
(中略)


第一番には釈尊である。彼れの一言一句は或ハ個人主義的義論もあろ-。
尓し彼れの一生はドーであるか。帝位を捨てゝ沙門と成り、
吾れ人の抜苦與楽の為二終生三衣一鉢で菩提樹下二終る。
其の臨末二及んて鳥畜類迄別れを悲Lんだとは実に零界の
偉大なる社会主義者ではないか
(尓し乍ら自今平民社や直言者やの社会主義者とは同一義論では無かろ)。


余は極楽を社会主義の実践場裡であると考へて居る。

諸君よ願くは我等と共に此の南無阿弥陀仏を唱へ給ひ。
今且らく戦勝を弄び万歳を叫ぷ事を止めよ。
何となれば此の南無阿弥陀仏は平等に救済し給ふ聲なればなり。


http://www1.ocn.ne.jp/~jyosenji/

===================================

お釈迦さまは、個人主義的もあったけれど、
王位と財産を捨てて、人々の苦を減じるよう活動したのは、
社会主義者ではないかーーと高木顕明は書いている。
これは変な解釈とも思えず、ふつうに読めばそうだよなあ、とも思う。
ただ、お釈迦さまは社会変革にはぜんぜん興味がなくて、

人間の内面改革を目指したので、

革命やってるヒマがあれば瞑想しな、と言ったかもしれないけど。


高木顕明は東本願寺から擯斥処分にされてしまい、
その85年後に処分取り消しになったそうだ。

高木顕明が住職だった浄泉寺が、
名誉回復をめざしてHPにも解説をのせています。
http://www1.ocn.ne.jp/~jyosenji/



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

日本仏教の可能性―現代思想としての冒険 (新潮文庫)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

「法然と親鸞」展のあとは表慶館ものぞこう

先日、書ききれなかった
「法然と親鸞 ゆかりの名宝展」(東京国立博物館 12/4まで)のメモの続きです。


◆ 親鸞さんはさすがの勉強家 ◆

親鸞直筆の「教行信証」ほか、お経に註を書きこんだ文書があって、
信者さんにとっては涙ものじゃないですかね。
特に、「阿弥陀経」にびっしり赤字で註を書きこんだものには感動した。
命がけで仏教やった人、というのが伝わってきた。


◆ 「念仏だけじゃダメ」という一派もあった◆

説明パネルによると、法然死後、

浄土宗は「弥陀の二十願の扱いをめぐって4流に分かれた」。
面白いのは、「念仏だけじゃダメ」という一派もいたということだ。
長西らが唱えた「諸行本願義」は、念仏だけでなく写経や諸々の善行を積む必要があるという一派だったけれど、浄土宗の仲間内から大批判されて消滅してしまった。
浄土宗HPには長西の教えを「実践的であるよりも学解的、しかもその学風は歴史学的・客観的」と書いてあって、

要するに”小難しい”ので「念仏オンリー」に負けてしまったようだ。


◆ 浄土真宗は仏をあまり描かない ◆

蓮台の上に仏像でなくて、「南無阿弥陀仏」などと文字(名号)が書いてある
図像が何点かあった。親鸞は、阿弥陀仏を形にできない「無量の光」と考えたので
文字であらわしたそうだ(だから浄土真宗は仏像があまりないんだな)。
その左右に、インドや中国・日本の浄土教の祖師像を描いたのが「光明本尊」。
龍樹なども描いてあって、「うちらインド発の本格派」というアピールにも見えた。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  今回の展示物ではないけど、光明本尊はこういうもの


◆ 「悪人正機」の伝言ゲーム ◆

浄土宗・真宗というと、いま一番有名なセリフは
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(善人尚以往生況悪人乎)だろう。
でも、法然・親鸞とも、自分でこのセリフを書いたものは残っていない。
これは奇妙なことではある。

展示パネルによると、「法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』のなかに、
『善人なほもて~』を法然が源智に口伝した、と書かれている」。
また『口伝鈔(くでんしょう)』(覚如著)に、「親鸞が法然から『善人なほもて~』
を相承した、ということを、親鸞の孫=如信から(覚如が)聞いた」と書いてある。
どんだけややこしい伝言ゲームなんだ。


法然・親鸞とも、弟子たちが異説を説いたり権力闘争があったりしたようで、
「悪人正機」もその前提で見たほうがいいのかも。


==================================


表慶館・アジアギャラリーにも寄ってみよう!


前にも書いたように、「法然と親鸞」展(平成館)は仏像が少ししかない。
仏像好き、特にお釈迦さまファンは欲求不満になる。
そこでお薦めしたいのが、隣の「表慶館・アジアギャラリー」のインドコーナーだ。
(平成館入場者は、表慶館もタダで入れる)

私も欲求不満でフラフラ入ったのだが、これが大当たり。


インドコーナーに、1~5世紀のガンダーラ仏をはじめ、
マトゥラー、ブッダガヤ、アフガン出土など、14点の仏像があったのだ。
点数はわずかだけれど、までパンチパーマになっていない

ギリシア風イケメン釈尊にうっとり・・。
仏像誕生以前の、釈尊を法輪で表した有名な図像もあった。

しかも、ほとんど客がいない。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

↑ガンダーラのお釈迦さま(2~3世紀、約77cm)。
これなんかガラスケース内でなくて、むきだしで展示してあるので
頬にキスしそうになっちゃいましたよ。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

↑「弥勒菩薩・禅定仏・燃燈仏本生」(アフガン3C)。
一番上は、兜率天で説法してる弥勒菩薩。
お釈迦さまは、なんと一番下でひざまずいて髪の毛を差し出してる青年である。
お釈迦さまが前生でメーガというバラモンだったとき、
街に来た燃燈仏(ディーパンカラ)の足が汚れないように髪を差し出しているところ。
これで燃燈仏は、お釈迦さまに「きみは将来、如来になる」と予言をした。
もちろんフィクションで、紀元前3世紀頃に構成された
お釈迦さまの前世物語「ジャータカ」(本生譚)の場面。


展示リスト
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=3170
東洋館がとうぶん改築中のため、表慶館に12/25まで展示される。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村