末木文美士先生の悩み多き匿名エッセイサイト
仏教学者の末木文美士先生が、1999年から10年間、
匿名でエッセイのサイトをやっていたのを知っていましたか?
サイト名は「ボクの哲学モドキ」、HNは「ぶんまお」。
2年前に『ボクの哲学モドキ』(ぶんまお著、末木文美士編、トランスビュー)
という本にもなったので、仏教業界の人は知ってるのでしょうけれど、
あたしゃあ今日はじめて知りました。
http://homepage3.nifty.com/bunmao/
先日、末木先生の文庫で知った、
エリ・ヴィーゼルの『たそがれ、遥かに』を読み始めて、
これがまた強烈に面白いので後日メモを書くとして、
ネットでエリ・ヴィーゼルを検索したら上記のサイトが出てきました。
そこに書かれたエッセイが、末木先生の本とそっくりなので、
え、なんで?と思ったら、同一人物だったんですねー。
「神も狂っている」
http://homepage3.nifty.com/bunmao/0608.htm
当時、東大教授で50代の末木先生が、「ボク」ですからね。
「元旦に自殺を考える」なんていう悩み多きエッセイですからね。
信頼がおける方だなあ、というものです。
仏教から西洋哲学まで学問した方が、
ご自身の「精神的な危機」にどう立ち向かうのか。
もう更新は止まっているけれど、保存データは残ってます。
ぜんぶ読むにはたぶん本で買ったほうがいいと思います。
「ボクの哲学モドキ」 Ⅱ(~2008年まで)もあります
<アマゾンの紹介文>
有名大学教授が固有名を捨て、ある一人の人間として、考え、語った《わたくし哲学》。「2ちゃんねる」が開設された1999年にひっそりと公開された個人ホームページに10年にわたり綴られた、歴史や文化や世界、そして自分自身を見つめなおすエセー。アカデミズムの世界では欠け落ちてしまう哲学本来の営みの記録。
ボクは大学の先生。近所の八百屋のおばさんは、ボクのことをいつも「キョウジュ、キョウジュ」と呼ぶ。なんだかエラそう。でもボクは、自分がどう生きたらいいのかわからない。男でもなく女でもなく、右でも左でもない、自殺に惹き込まれ、死者と共に生きたい。―こんな日々の生きにくさ、違和感を、徹底的に考えてみたいんだ。
「新しさ」はくだらない(ブッダ最後の旅 その1)
この週末は「大パリニッパーナ教」
(『ブッダ最後の旅』岩波文庫、中村元訳)を読み直しました。
お釈迦さまがクシナーラで亡くなるときのことを書いたお経で、
仏教ファンなら誰しも半泣きで読んだことと思います。
このパーリ仏典は、ヴァッジ族を滅ぼそうとするマガダ国王が、
大臣を派遣して、お釈迦さまに「どう思う?」という感じで
話を聞きにいくところで始まります。
こういう生臭い相談ごとも持ちかけられたんですかね。
細かいところだけれど
今回読みなおして、へーと思った註がありました。
お釈迦さまは、ヴァッジ族が滅ぶべきでない理由を上げます。
ひとつにはヴァッジ族が会議で決めたことを協同して行う
(民主主義的な)政治体制だったこと。
そのあとに、こんなふうに言っています。
===============================
アーナンダよ、ヴァッジ人が、未来の世にも、未だ定められて
いないことを定めず、すでに定められたことを破らず、
往昔に定められたヴァッジ人の旧来の法に従って行動する間は、
ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡はないであろう。
(中略)
アーナンダよ、ヴァッジ人が、ヴァッジ族のうちの古老を敬い、
尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきものと思っている間は、
ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡はないであろう。
(『ブッダ最後の旅』第一章 岩波文庫、中村元訳)
==================================
これに対する、中村先生の註
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(2)観念的な保守主義。
人間のまもるべき理法は永遠のものであり、すでに往昔から実践的に
体得されているものであり、それから逸脱しないようにということに努めた。
現実的には新しいことがらを制定するということも起こったであろう。
仏教の出現そのものが、当時としては新しい運動であった。
しかし、ゴータマ・ブッダの主観的意識のうちにあっては、
新しいものを作りだすという気持ちはなかった。
ただ永遠なるものを守ろうとしたのである。
「古老を敬う」というのも同様の思惟方法に由来する。
(出典同上)
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この「ゴータマ・ブッダの主観的意識のうちにあっては、
新しいものを作りだすという気持ちはなかった」というところ。
面白いなと思いました。(異なる学説もあるのかもしれないけれど)
それまでのバラモン教に対して、
仏教を含めた新思想は相当に革命的だと思うのですが、
お経を読んでも「うちら新しいぜ」という気負ったかんじはないんですよね。
旧思想を激しく攻撃するふうでもない。
(むしろ競合する新思想・ジャイナ教批判のほうが多いような・・)
ローリングストーンズもビートルズも
最初は古いブルースのコピーしてましたしね、
ヌーベルバーグとか言われる映画作家の人たちも
少し前のアメリカ娯楽映画リスペクトだったという話で、
「古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきもの」
を地でいってたみたいですしねえ。
「新しいぜ」などと思ってないほうが、気がついたら新しいものが生まれてる、
世の中そういうものなのかもしれないな。
逆に、新商品とか新雑誌とかで、「まったく新しい○○が誕生」
などと叫ぶのは、煮詰まってる証拠ですからね。
(つづきは後日)
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<動く仏像>フィギュアが発売に(リボルテックタケヤ)
<前代未聞の動く仏像>が発売になるという噂を聞いて、
調べてみたら、これがまた面白いというかなんというか。
発売は、フィギュアアート集団、あの海洋堂。
仏像は「世界が認めたあの竹谷隆之」さん製作総指揮の
「タケヤシリーズ」最新作だという。
私はフィギュア界のことを全然知らないのだけれど、
知ってる人には垂涎もの・・・なんでしょう?
同社HPによると
<仏像を可動させ、ポーズをとらせる・・・そんな「冗談」レベルの考えを、
ハイレベルで実現。「リボルテックタケヤ」は、その無謀ともいえる領域へ挑戦し、
成功させました。>
2012年2~6月の1日に、四天王と阿修羅が毎月1体ずつ発売になるそうだ。
(各3800円)
http://www.kaiyodo.co.jp/revoltech/takeya.html
しかし自由にポーズをつくれる仏像、という発想には恐れいりましたね。
そのうちモーターで阿修羅の手がうねうね動く仏像ロボットだって現われかねない。
千手観音の手がうねうね動いたら、かなり不気味だ。
歩き回る釈尊フィギュアならうっかり買ってしまうかもしれない。
かつて流行った「シーマン」みたいに、
こちらの言葉にあわせて説法してくれたら尚いいな。
世界の仏教国のなかで、
運慶・快慶はじめ日本の仏像は異常発達してるようにも思え、
現代のフィギュア文化の土壌が千年前ぐらいからあったのかも?
あ、チベットの仏像もフィギュアっぽいですけどね。
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