ディベートなんかやめておけ(スッタニパータ その4) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

ディベートなんかやめておけ(スッタニパータ その4)

もっともくだらない時間を過ごしたな、と後悔するのは、
飲み屋での論争に巻き込まれたときです。
どうせシラフになったら忘れるんだからやめとけよ、
と思うけれども、好きな人がいますよねー。


仕事の会議でも、たま~に論争になることがあり、
鬼の首でも取ったように誰かを論破するのは、
それなりに気持ちのよいものではあります。


ですが、お釈迦さまは、
少なくとも修行者同士の論争はあほらしいからやめておけ、
という立場のようで、仏典に何箇所かその旨が出てきます。

「スッタニパータ」の以下の詩句は、耳に激痛が走ります。


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第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテイヤ


824
かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、
他の諸々の教えは清らかでないと説く。
「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、
それぞれ別々の真理に固執している。


825
かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を(愚者である)と烙印し
他人を(師などを)かさに着て論争を交わす。
――みずから真理に達した者であると称しながら、
自分が称賛されるようにと望んで。


826
集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。
そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、
(他人から)論破されると、怒る


827
諸々の審判者がかれの論敵に対し、「汝の議論は敗北した。論破された」
というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ
「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。


828
これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、
これらの人々には得意と失意とがある。
ひとはこれを見て論争をやめるべきである
称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。


829
あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、
心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。


830
心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。
しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。
このことわりを見て、論争してはならない。
諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは
説かないからである。


『ブッダのことば』(岩波文庫 中村元訳)

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「称賛を得ること以外には、なんの役にも立たない」。


世俗の論争(仕事の会議とか国会とか学会とか)まで
こう言い切っていいのかどうかわかりませんが・・・
たぶん世にある論争の半分ぐらいには当てはまるように思います。
自分の発言が、実は称賛されたいからではないかどうか、
よくよく気をつけておかないといけませんねえ。


気のせいかもしれないけれど、
この部分の中村先生の訳が、ひときわふるっている感じがします。
仏教学者が人格者である必要は全然ないと思うけど、

仏教論壇でも、学会や論文において口汚い論争が起きたりして、
内容以前にその言動が仏教的に負け!みたいなことが
けっこうあるんじゃないですかね。

ましてや仏教ブログ内での言い争いとか、やめときゃいいのにね。



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