南直哉さんの講座が強烈に面白かった
いちおう曹洞宗の禅僧・南直哉さんが、ほぼ月に1度やっている
「仏教・私流」という講座に行ってきた(@東京赤坂・豊川稲荷)。
ナマ南さんの話を聞くのは初めてだけれど、びっくりした!
噂には聞いていたが、ほとんど落語だ。内容も、めちゃくちゃ面白い。
南さんのブログ(http://indai.blog.ocn.ne.jp/
)に、
日時・場所だけが書いてあって、何の話だかも知らずに行ったのだけれど、
私の知りたいことに完璧にぴったりの内容だった。
基本的には仏教史で、この日は日本に仏教が伝来する前後――
アニミズム的八百万(やおよろず)の日本が、
外交上の必要に迫られて仏教を輸入して、その立役者として
聖徳太子という在家者を仏教のヒーローに仕立て上げる過程を
1時間半にわたって話してくださった。
日本書紀からハイデガーまでをこってり煮込んで
落語仕立てにして会場を爆笑させるのだから尋常ではない。
ライブ前提で話したことを、
ブログとはいえ文字にしていいかどうかわからないので,ちょこっとだけ・・・。
(以下は私の興味で書きなぐっているので、南さんの言葉ではありません)。
不断の努力で自己を消しにかかるお釈迦様の硬質な教えが、
なんで日本では「ありのままでいいんだよ」(本覚思想)とか
「みんな本来は仏」みたいにふわっとした話になったのだろうか。
そこには、強固な地縁・血縁共同体の存在があるという。
島国で、異民族にバッサリやられたことがない日本では、
ちょぼちょぼ来る外国人を取り込む形で共同体が生き延びてきた。
そうすると、自己が自己である根拠を、
家族や地域や会社といった共同体が与えてくれる。
「○○村の角の家の息子」とか「○○ちゃんのお母さん」とか
「○○商事の社員」といったことで、とりあえず自分が安定する。
だから日本では、超越的なものは根付かない、と南さんは言う。
なぜなら、必要がないから。
理解不可能の異質な他者がごちゃごちゃいれば、
「じゃあ、こういう違いを超越した、物事の根源はなんだろう?」
「ここにポツンといる私というものの根拠はなんだろう?」
と悩み始めたりするけれど、日本はどうもそうでないらしい。
だから、仏教もキリスト教もマルクス主義も実存主義も、
日本風にコーティングされるか一時のブームで終わってきた。
むきだしの自分とお釈迦さま・・じゃなくて、ダンマとが、
この世に他の何も存在しないみたいに直接対峙する、
というふうにはならないわけだ。
「共同体にいる限り(自己を規定されている限り)、
<自由で平等な個人>なんて、絶対に現われません!」
と南さんは10回ぐらいおっしゃった。
そりゃそうだ。シナリオは共同体側が書いているのだから。
「○○商事の社員」、家に帰れば「○○ちゃんのパパ・ママ」として
日々暮らしてる「そんなあなたは、ありのままで実は仏です」
と言われてハッピーならば、結構なことだけれどね。
昨今、「無縁社会」がイカンということで、「共同体」「コミュニティ」の復権を言う人が多い。
私はそれが、少し気持ち悪い。
本当は誰も<自由で平等な個人>になんかなりたくないのかもしれず、
それを自覚してるなら一つの見識ではある。
南さんの「仏教・私流」は、予約不要で誰でも参加できる。
(参加者は100人ぐらいいたかもしれない。
しかも無料で心苦しい。お布施でも取ってくれないだろうか)
次回は、たしか11月30日・午後6時半~だったかな。
南さんのブログでサラッと告知されるだけなので、興味ある人はお見逃しなく。
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