帰依はしないけど『最後の親鸞』
お釈迦さまの仏教を信頼する私にとって、
親鸞というのは、どう考えていいかわからない存在です。
自分の力ではなくてすべて仏にお任せする「絶対他力」とか、
念仏を唱えれば救われるとか、悪人のほうが救われるとか、
正直いって、「それってどうよ?」と思わずにいられません。
むしろキリスト教とかユダヤ教に近いんじゃない?と。
で、なぜ親鸞がこんなふうに考えたのかを知りたくて、
この『最後の親鸞」を読んでみたわけです。
吉本隆明は、
「なぜ親鸞は<知>を放棄して<愚>にいったのか」
という問題意識を述べています。
嬉しかったのは、吉本隆明が「歎異抄」等々の「私訳」を
ところどころに入れてくれていることでした。
親鸞の時代は、天変や不作の連続で、
老いも若きも飢えや病気でバタバタと死んでいった時代だそうです。
道を歩けば死体がつみあがってウジが沸いているような状態で、
じゃあ仏教者は何をしたらいいのか?
「今生においていかに人々をいつくしみ、不憫におもっても、
思いの通り助けることは難しいから、そう考える慈悲は
きりなく続くほかない。そうだとすれば、称名念仏の道こそが、
終わりまで透徹した大慈悲心と申すべきであると、云々」
(「歎異抄」の吉本氏訳)
こういうくだりを読んで、「なるほど、そうか・・」と思ったものです。
私は今でも、親鸞上人の思想にぜんぜん帰依することはできないけど、
今の自分から見て「こんなの仏教じゃねぇ」とか簡単に考えてはいけないな、
と思いました。それでも帰依するつもりはないけれど。
やはり親鸞さんは、大変な宗教的パッションの人だったのだなあ・・。
(「最後の親鸞」吉本隆明著 ちくま学芸文庫)
「日々是修」 佐々木閑著
花園大学教授の佐々木閑先生が
朝日新聞夕刊に連載したコラムをまとめた上座仏教コラム集。
その中で、佐々木先生が惚れこんでいる仏教学者は
木村泰賢という先生だと書いてあった。
調べてみたら・・・
木村泰賢 きむら‐たいけん
1881‐1930
大正-昭和時代前期のインド哲学者、仏教学者。
明治14年8月11日生まれ。曹洞宗(そうとうしゅう)大学林(現駒沢大)をへて、東京帝大で高楠(たかくす)順次郎にまなぶ。著作「印度六派哲学」で大正7年学士院恩賜賞。12年東京帝大教授。わが国における近代仏教学を開拓したひとり。昭和5年5月16日死去。50歳。岩手県出身。幼名は二蔵。
「木村泰賢全集」の各巻タイトルを見るだけでも、
「原始仏教思想論」「小乗仏教思想論」「印度六派哲学」などなど、
ものすごくソソられるタイトル・・・。
でも、どう考えても、素人の私には歯が立たない自信がある。
老後の楽しみにとっておこう・・。
老後の楽しみばかりが増えていく。
そんなことを言っているうちに、死んでしまったらどうするのか。
(「日々是修行」 佐々木閑著 ちくま新書)
法眼を開く
ウェーサーカ祭で、前田惠學(えがく)先生という、仏教学者の講演がありました。
前田先生は、ずっと昔から上座仏教とパーリ語の仏典の研究をしていて、
「上座仏教で、こんなに立派な催しができるとは、想像もできませんでした」
とおっしゃっていました。
前田先生のお話で、とても気が楽になったことがあります。
それは、「悟りにも段階がある」ということ。
お釈迦さまが「菩提樹の下で悟った」と聞くと、
なんか、数学の問題が解けるみたいに、
「わかった!」とすべてがわかったようなイメージを持ちます。
私もそんなイメージを持っていました。
でも、前田先生が言うには、そういうわけではないと。
仏典には、菩提樹の下で悟ったあとで、
「数ヵ月後に、無上の解脱を得た」とあるそうです。
つまり、タイムラグというか、徐々に悟りが深まったというか。
よく考えれば、人として当然ですよね。
あと、「法眼を開く」という言葉。
「煩悩が消える」のが完成形だとすると、その前の段階で、
「煩悩は残ってるけど、法眼が開いた」という状態があると。
そういう在家信者がたくさんいた、ということなのです。
法眼を開く、つまり、諸事象がどうなっているか真理を知る知恵を得る、
という状態かと思われます。
それで私は、まず「法眼開き」を目指そう、と思ったわけなんです。
だって、「煩悩を消す」って、まったく無理そうですもの。
うまいものを食べたい、酒がおいしい、SEXは気持ちいい、
好きな人がいる、子供はかわいい、
そういうのを全部消すって、どう考えても無理・・・
そんな自分が仏教を学んでも欺瞞じゃないの?
と疑問を持っていた私にとっては、
たいへん励みになったお言葉だったのです。

