帰依はしないけど『最後の親鸞』
お釈迦さまの仏教を信頼する私にとって、
親鸞というのは、どう考えていいかわからない存在です。
自分の力ではなくてすべて仏にお任せする「絶対他力」とか、
念仏を唱えれば救われるとか、悪人のほうが救われるとか、
正直いって、「それってどうよ?」と思わずにいられません。
むしろキリスト教とかユダヤ教に近いんじゃない?と。
で、なぜ親鸞がこんなふうに考えたのかを知りたくて、
この『最後の親鸞」を読んでみたわけです。
吉本隆明は、
「なぜ親鸞は<知>を放棄して<愚>にいったのか」
という問題意識を述べています。
嬉しかったのは、吉本隆明が「歎異抄」等々の「私訳」を
ところどころに入れてくれていることでした。
親鸞の時代は、天変や不作の連続で、
老いも若きも飢えや病気でバタバタと死んでいった時代だそうです。
道を歩けば死体がつみあがってウジが沸いているような状態で、
じゃあ仏教者は何をしたらいいのか?
「今生においていかに人々をいつくしみ、不憫におもっても、
思いの通り助けることは難しいから、そう考える慈悲は
きりなく続くほかない。そうだとすれば、称名念仏の道こそが、
終わりまで透徹した大慈悲心と申すべきであると、云々」
(「歎異抄」の吉本氏訳)
こういうくだりを読んで、「なるほど、そうか・・」と思ったものです。
私は今でも、親鸞上人の思想にぜんぜん帰依することはできないけど、
今の自分から見て「こんなの仏教じゃねぇ」とか簡単に考えてはいけないな、
と思いました。それでも帰依するつもりはないけれど。
やはり親鸞さんは、大変な宗教的パッションの人だったのだなあ・・。
(「最後の親鸞」吉本隆明著 ちくま学芸文庫)
