法眼を開く | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

法眼を開く

ウェーサーカ祭で、前田惠學(えがく)先生という、仏教学者の講演がありました。
前田先生は、ずっと昔から上座仏教とパーリ語の仏典の研究をしていて、
「上座仏教で、こんなに立派な催しができるとは、想像もできませんでした」
とおっしゃっていました。


前田先生のお話で、とても気が楽になったことがあります。
それは、「悟りにも段階がある」ということ。


お釈迦さまが「菩提樹の下で悟った」と聞くと、
なんか、数学の問題が解けるみたいに、
「わかった!」とすべてがわかったようなイメージを持ちます。
私もそんなイメージを持っていました。


でも、前田先生が言うには、そういうわけではないと。
仏典には、菩提樹の下で悟ったあとで、
「数ヵ月後に、無上の解脱を得た」とあるそうです。
つまり、タイムラグというか、徐々に悟りが深まったというか。
よく考えれば、人として当然ですよね。


あと、「法眼を開く」という言葉。


「煩悩が消える」のが完成形だとすると、その前の段階で、
「煩悩は残ってるけど、法眼が開いた」という状態があると。
そういう在家信者がたくさんいた、ということなのです。
法眼を開く、つまり、諸事象がどうなっているか真理を知る知恵を得る、
という状態かと思われます。


それで私は、まず「法眼開き」を目指そう、と思ったわけなんです。


だって、「煩悩を消す」って、まったく無理そうですもの。
うまいものを食べたい、酒がおいしい、SEXは気持ちいい、
好きな人がいる、子供はかわいい、
そういうのを全部消すって、どう考えても無理・・・

そんな自分が仏教を学んでも欺瞞じゃないの?

と疑問を持っていた私にとっては、
たいへん励みになったお言葉だったのです。