釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -222ページ目

佐々木閑先生×藤田一郎先生「仏教と科学の接点」


勝手に師匠と思っている佐々木閑先生の講演に行ってきました!


東京禅センター主催の花園大学公開講座(5月19日)


「仏教と科学の接点」
釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~
仏教学者・佐々木閑先生(花園大学教授 写真左)と、
認知脳科学者・藤田一郎先生(大阪大学教授)

セッション講演です。


(事務局の方がとった写真をパクってしまいました、

すみません)



個人的には、テーマを見ただけでヨダレが出そう。
第1回は、このお2人で東大駒場キャンパスでやって、それも行きましたが、
今回は臨済宗妙心寺派の「龍雲寺」(世田谷区)でやりました。
どちらも内容は最高に面白かったですが、

やはり仏教の話はお寺で聞くとよろこびもひとしおですねえ。


いや、ほんとうにエキサイティングで至福の3時間でした。

自分が忘れないように、ちょっと内容をメモしておきます。

(自己流なんで、間違ってたら、先生すみません)



◆「記憶」がなければ、「わたし」はありうるか
  ⇒じゃあ、最新の脳科学で「記憶」って何だ!? 


・「記憶」は一つではなく、いろいろな種類がある
    ・宣言記憶(言葉にできる)=エピソード記憶、意味記憶(知識)
    ・手続き記憶(言葉にできない)=スキル、プライミング、条件反射、その他

・脳の中で担う場所が違って、脳のある部分を損傷すると、
 ある種類の記憶だけがブッ飛ぶこともある


◆ 記憶は、脳の中で、どうやって保存されてるのか?


「はい、これですよ」と取り出せるような物質ではない。
脳の神経細胞と神経細胞の連結部分=シナプスで電気信号がやりとりされている。
細胞1と細胞2が両方が活性化されると、そのシナプスは増強される。
ってことは、
記憶は、シナプスの連結を変えること、ひいては神経回路を変えることで
脳内に蓄えられる。


以上が、藤田先生のお話。


◆ 記憶は「刹那」を結び、「わたし」を作る


と言うことはですよ、
「わたし」というのは、電気信号の流れ方、みたいなもの?


たとえば・・・何億個も豆電球があって、接触のいい回線も悪い回線もあって、
あちらでピカッ、こちらでピカッというのを繰り返していて、
それを遠目でずっと見てると、「なんか図形っぽい」というのがあって、
そのパターンが「わたし」・・・というようなイメージでしょうか?


これは、お釈迦さまの発見した「無我=わたしという実体はない」ということと
とっても似ている・・・。

で、このあと、佐々木先生の仏教のお話は続くわけですが、それは明日書こう。



しかし、東京禅センターは素晴らしい!

11月に、また「仏教と科学の接点」第3弾があるそうです。やっほー!


http://www.myoshin-zen-c.jp/


どうあがいたって、エントロピーは増大する

肉屋で買ってきた肉=死んだ肉は、冷蔵庫に入れておいても、いずれ腐ります。
人間の死体も、腐ります。
でも、生きた人間が、夏になったら生きたまま腐っていったという話は
聞いたことがありません。なぜなんでしょう?


「私たちが棲むこの宇宙において、輝ける物はいつか錆び、水はやがて乾き、
熱あるものは徐々に冷えていく。
時間の経過の中で、この流れに抗することはできない」。


「これが『エントロピー増大の法則』である。
(中略)秩序あるものはすべて乱雑さが増大する方向に不可避的に進み、
その秩序はやがて失われていく。」


「生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。
エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという
自転車操業的なあり方、つまり『動的平衡』である。


しかし、長い間、エントロピー増大の法則と追いかけっこしているうちに
少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に
追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ず来る。
これが個体の死である
。」


「したがって、『生きている』とは、『動的な平衡』によって、
『エントロピー増大の法則』と折り合いをつけているということである。」

(『動的平衡』福岡伸一著 木楽舎)


お釈迦さまが説いた
「諸行無常」は、「エントロピーは必ず増大する」ということに似ています。
「一切皆苦」「苦諦」は、「必ずエントロピー増大の法則に追い抜かれる」、
すなわち「老いて死ぬことから逃れられない」ということに似ています。
「無明」は、「この自然界の法則を知らない」ということに似ています。

お釈迦さまが発見したことは、「エントロピー増大の法則」に似ているし
(というか、そんまんまです)、
だからお釈迦様は、何の実験器具もなしに科学的な大発見をしたような
ものなのではないでしょうか? 


「比丘たちよ、縁起とは何であるか。比丘たちよ、生によって労死がある。
如来が出現しても、如来が出現しなくても、このことわりは確立しており、
法として確立したこと、法として決定したことである

(サンユッタ・ニカーヤ 12番)


要するに、ブッダがいてもいなくても、「生まれたら必ず死ぬ」という苦しみは
もともとある自然法則だと言っているわけです。
そこが、お釈迦さまは、超クールでかっこいいのです!


「いずれ死ぬ」ということを覚悟せずして、人は安らかにはなれません。絶対に。
ライブドア事件で逮捕される寸前に、
ホリエモンがよく言っていたのは、「不老不死の研究をしたい」ということでした。
莫大にお金があるし、「その気になってやれないことはない。常識は壊せる」
みたいな感じで、「不老不死だって実現できるかも」と言っていました。

「無明」の極みです。

「必ず死ぬ」=「エントロピーは必ず増大する」という悲しみから出発せずして、
なんの知恵が生じるものかと。
不老不死とか言ってるあいだは、苦しみから逃れられない。
バーカ、一生勝手に苦しんでれば? と思った私は慈悲の心が全く足りません。 





富士山の15万倍!? 『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』

 よく仏教絵画を見ていると、後ろに山が書いてあって、
 あれが「須弥山」と呼ばれる想像上の山だとは聞いていました。
 じゃあ、仏教では「宇宙」をどう考えていたのかな?と
 思っていたら、『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』という釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~-須弥山
 ちょうどいい本があり、すかさず読んでみました。


5世紀のインドの仏典「倶舎論(くしゃろん)」の「世品(せほん)」という章に、仏教の宇宙観が書かれているそうです。

本ではそれが図解されてるのですが、

これがかなり荒唐無稽な宇宙なんです。


 仏教では、由旬という単位(諸説あるが1由旬=約7kmと

する)が使われるそうですが、、
 まず、虚空の中に「風輪」という円盤が浮かんでいて、
 厚さは160万由旬=1129万Km。
 その上に「水輪」「金輪」という円盤が乗っていて、
 厚さはそれぞれ560万kmと224万Km。


その金輪の上は海で、

真ん中に須弥山がそびえたっています。

高さは8万由旬=56万Km。
富士山が3776mだから、その約15
万倍です。
どんだけ高いんだよ、須弥山は!


「金輪」=いわゆる地上にある海や山、

三角形の洲などを見るに、
たぶんインドシナ半島やヒマラヤやガンジス河などからの空

想ではないか、と筆者は書いています。


 あと、地獄の深さ・大きさも決まっていて、
 一番深い「無間地獄」は1辺2万由旬(14万km)の立方体で、
 深さは地上から28万Km下にあります。

地獄は地球を軽く付き抜けちゃいますね。
 (『大毘婆娑論』には3つの説が書いてあるそうです)。


 地上と無間地獄の間に、7種類の地獄が積み木のように並んでいて、
 それぞれで刑罰が行われています。


 あと、時間の最小単位である「刹那」は、1秒の約75分の1だそうです。
 
 何から何まで、
 「え~、そうなんですか?」としか言いようがない宇宙観。
 お釈迦さまは、こういうことを考えてなかったですが、
 長い間に仏教で宇宙をこう捉えるようになったわけですね。 


 「いったい何の根拠で?」と問い詰めたくもなりますが、
 ちゃんと仏典や文献を読めば、それぞれの根拠が書いてあるのだと思います。


 いずれにしても、とてつもなくデカい須弥山が
 虚空に浮かんでいる宇宙を想像すると、
 これまたうっとりしてしまうのでした。
 

(『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』定方晟 講談社現代新書)