釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -20ページ目

人はそう簡単に救われない(映画「ザ・マスター」)

『ザ・マスター』という映画を観てきた。
第二次世界大戦のアメリカ。アル中の元水兵・フレディ(ホアキン・フェニックス)と、新興宗教の教祖“マスター”ことランカスター(フィリップ・シーモア・ホフマン)を描いた映画だ。
世界中の名監督たちが最上級の賛辞を贈っているのも、もっともだと思った。特に宗教とか信仰に興味がある人は、観て損はないと思う。
トム・クルーズがハマっていることで有名な新興宗教・サイエントロジーがモデルだという噂がたって、アメリカでは騒ぎになったそうだ。そういえば、以前、サイエントロジーのチラシがうちのポストにも入っていた。「病気が治りました 大阪府・○○さん」みたいなのにまじって、「魂がどうのこうの トム・クルーズさん」「癒しがどうのこうの ジョン・トラボルタさん」と普通に書いてあって笑いました。



この映画を観て、仏教ファンとして思ったこと。

・お釈迦さまも人たらしであっただろう
映画の“マスター”はインチキ教祖だが、独特の人間的魅力がある。成功しているNPOのリーダーなんかもそうだが、単なる善人ではない。人たらしだと思う。

・人はそう簡単には救われない
 フレディの魂は最後まで咆哮しっぱなし・・・・・嫌味なぐらいの名演技で、ずっと忘れられない気がする。

・現代に真顔で輪廻を語るとカルト
この映画の新興宗教も輪廻を前提として、あるメソッドによって過去世が見えると説いていた。やっぱり人は生まれ変わりが好きなのね。

・救う人と救われる人は明確ではない
一見フレディがマスター(教祖)に救いを求めているのだが、同時にマスターがフレディにすがっているようでもあり、共依存のようでもあり、愛憎も力関係もスイッチしていく。思えば人間同士の関係は、一方的で固定的なことのほうが少ないとも思う。
仏と弟子は、一方的に仏が偉いとされているけど、お釈迦さま存命中のサンガはそうでもなかったかもしれない。お釈迦さまは、不肖の愛弟子・アーナンダに、時に依存していたかもしれない…というような物語上の役割でアーナンダのキャラクターができあがったのかもしれない。

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ダイナミックでヘンな釈迦像「宇宙的仏陀像」

インドから中国に伝わるあいだの、中央アジアの仏教が、

いろんな宗教・文化がまじってダイナミックで面白い。

ということを前に書いたけれど、この本を読むとよくわかる。

新アジア仏教史05 中央アジア 文明・文化の交差点


第5章「中央アジアの仏教美術」(宮路昭先生)でも

ほんとに面白い仏教美術がいろいろ紹介されている。


こんなヘンテコリンな仏像(壁画)があるのかと思ったのは、

同書で「宇宙的仏陀像」と表現されているものだ。


仏の身体の上に、地獄の罪人・天人・仏陀や須弥山といった

仏教的宇宙がびっしり書き込まれているのだ。

本には、キジル第13窟(6~7世紀)や、

敦煌428窟などの例が出ていた。


下は敦煌428窟の壁画で、宮路先生は、お釈迦様だろうという。

裳のすそには地獄で苦しむ人たち、その上の層には鳥獣、

その上の層には農業をやる人や愛欲にふける男女・・・

腰から上には須弥山と、天上の神々、という

仏教的宇宙観が描かれている。

鼻が白いのも面白いですね。



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輪廻思想はどこから出てきたの?

現代の仏教ファンにとって、輪廻の問題とどう付き合うかは、けっこう悩ましい。

ららら科学の子としては、という以前に、自分が過去世を覚えてない以上、輪廻にリアリティはない(覚えてる人もいる、という声もあるけど、ほとんどは覚えてないし、第一、私が覚えてません)。


素直に経典を読めば、やっぱり輪廻思想抜きで仏教は生まれなかった、ように思う。

じゃあ現代の仏教ファンはどうすんの?

という暑苦しい話は置いておいて、どこから輪廻という考え方がでてきたのだろう。



よく知られているように、輪廻は別にお釈迦さまオリジナルではなくて、それより前にアーリア人が考えていたこと。で、輪廻の原初形態は、ヴェーダに出て来る「五火説(ごかせつ)」「二道説(にどうせつ)」なのだそうだ。



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その最初は、王族の間だけに伝わった「五火説(ごかせつ)」「二道説(にどうせつ)」でありました。

五火説というのは、人が死んだ後、火葬にされると、魂が煙に乗って順次、月に至り、雨になって、地上に降り注いで食物となり、母胎に入って再生するという、降雨現象と火葬の習慣を結びつけたものでした。

二道説は、死者の辿る道が神道と祖道に分かれ、どちらを取るかは生前の行いによる、というものでした。

いずれにしろ、人間は生まれて死に、そしてまた生まれて死に、そして…というように生存が繰り返されると考えたのです


蓑輪顕量先生『仏教瞑想論』)

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なぜ生存を繰り返すのか。次にどこに生まれるかは何で決まるのか。

それは行いで決まる。

では行いはどうやって生じるのか。

それは、心に起きる思念によって生じる(○○しよう、と思って、○○する)。

そんなこんなで、輪廻の問題を解決するには、

行いを起こさない←思いを起こさない←瞑想で思いを止滅する(ニブリティ・マーリガ)。瞑想もここに起点がある。 

人が死んだ後、火葬にされると、魂が煙に乗って順次、月に至り、雨になって、地上に降り注いで食物となり、母胎に入って再生する」って、いかにも古代の人が考えそうなことだし、やっぱりここから始まってるよなあ。




古代インドのアーリア人って、総じて、歴史が一方に進むのではなくて、循環する・くり返す、という感覚を持っている。輪廻は生命の循環。でもなぜ、彼らはそう考えたのか?気候とか環境も関係するのか。なぜ・なぜ・なぜが止まらない。


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