輪廻思想はどこから出てきたの?
現代の仏教ファンにとって、輪廻の問題とどう付き合うかは、けっこう悩ましい。
ららら科学の子としては、という以前に、自分が過去世を覚えてない以上、輪廻にリアリティはない(覚えてる人もいる、という声もあるけど、ほとんどは覚えてないし、第一、私が覚えてません)。
素直に経典を読めば、やっぱり輪廻思想抜きで仏教は生まれなかった、ように思う。
じゃあ現代の仏教ファンはどうすんの?
という暑苦しい話は置いておいて、どこから輪廻という考え方がでてきたのだろう。
よく知られているように、輪廻は別にお釈迦さまオリジナルではなくて、それより前にアーリア人が考えていたこと。で、輪廻の原初形態は、ヴェーダに出て来る「五火説(ごかせつ)」「二道説(にどうせつ)」なのだそうだ。
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その最初は、王族の間だけに伝わった「五火説(ごかせつ)」「二道説(にどうせつ)」でありました。
五火説というのは、人が死んだ後、火葬にされると、魂が煙に乗って順次、月に至り、雨になって、地上に降り注いで食物となり、母胎に入って再生するという、降雨現象と火葬の習慣を結びつけたものでした。
二道説は、死者の辿る道が神道と祖道に分かれ、どちらを取るかは生前の行いによる、というものでした。
いずれにしろ、人間は生まれて死に、そしてまた生まれて死に、そして…というように生存が繰り返されると考えたのです。
(蓑輪顕量先生『仏教瞑想論』)
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なぜ生存を繰り返すのか。次にどこに生まれるかは何で決まるのか。
それは行いで決まる。
では行いはどうやって生じるのか。
それは、心に起きる思念によって生じる(○○しよう、と思って、○○する)。
そんなこんなで、輪廻の問題を解決するには、
行いを起こさない←思いを起こさない←瞑想で思いを止滅する(ニブリティ・マーリガ)。瞑想もここに起点がある。
「人が死んだ後、火葬にされると、魂が煙に乗って順次、月に至り、雨になって、地上に降り注いで食物となり、母胎に入って再生する」って、いかにも古代の人が考えそうなことだし、やっぱりここから始まってるよなあ。
古代インドのアーリア人って、総じて、歴史が一方に進むのではなくて、循環する・くり返す、という感覚を持っている。輪廻は生命の循環。でもなぜ、彼らはそう考えたのか?気候とか環境も関係するのか。なぜ・なぜ・なぜが止まらない。

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