釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -2ページ目

仏教批判の書、「妙貞問答」の現代語訳+論考が本に(しかも末木先生)

江戸時代に、仏教からキリスト教に改宗して、その後、キリスト教も捨てて行方知れずになってしまった、不干斎ハビアン。

そのハビアンが、キリスト教改宗後に仏教を批判した「妙貞問答」が現代語訳され研究論文付きで出るそうです! 著者はあの末木文美士先生! 
(法蔵館から、4月頃?、9000円)9000円か~~。

(「妙貞問答」は東洋文庫からも出てますが、そちらの中身はまだ見てません)


<法蔵館のHPより>

◆妙貞問答を読む ――ハビアンの仏教批判 【宗教/仏教】

末木文美士編・A5判・予500頁・本体9,000円+税
江戸時代初期、不干斎ハビアンによって著わされたキリスト教の教理書『妙貞問答』。その上巻の影印と翻刻・註、現代語訳、および『妙貞問答』に関連する書下ろし研究論文9本を収録。


「妙貞問答」の上巻って、たしか写本が日本に1冊しかないんじゃなかったっけ?(天理図書館蔵)。

前にもハビアンのことは少しメモしたことがあるけど。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10226171762.html



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ミシェル・ウェルベックとお釈迦さまと絶望(『地図と領土』)

1週間、仏教書を休んで、めずらしく新刊の小説を読んでいた。
フランスのミシェル・ウェルベックの『地図と領土』というやつ。

現代の海外小説で、翻訳されたのは全部読んでいる唯一の作家だ。

なんでだろう?
どうやら私は、もっともっと絶望したいようだ。
夢や希望といった虚妄を剥ぎ取って、底なし沼の底に足をつけたら安心できるかもしれない。

ウェルベックの小説は、どれも最後は、誰もいなくなる。完全に静かな孤独がやってくる。
『地図と領土』に至っては、あからさまに「無常」で終わる。

この人に何かしら仏教と近いものを感じていたら、果たして、『地図と領土』に仏教が出てきた。
ほんの少しだけれど。
登場する警官が、スリランカに行って不浄観の修行をするのだ。

腐って白骨化していく死体の横で瞑想して、肉体の無常をオノレに叩き込む修行で、初期仏典に出てくる。

ウェルベックさんは、けっこう、お釈迦さまと話が合うかも。
皮肉屋で、ユーモアがあって、身もフタもなくて、下部構造から目をそらさず、センセーショナルで、絶対永遠なんか信じてない。

なんていうと、「それはヨーロッパの近代仏教学が作り上げた仏教観・ブッダ観であって、実際の仏教はもっと猥雑・豊穣であって…」という声がすぐさま聞こえてきて、それは仰るとおりなんだけど、わたしら現代人なので、やっぱそういう形でしかお釈迦さまにアクセスできないんじゃないか、と思う今日このごろです。

仏教ファンの方は、『素粒子』やら『地図と領土』やらが気に入るんじゃないかな?

内容を説明するのがめんどくさいので、朝日新聞の書評をコピペ!


■純然たる絶望、奇妙な清々しさ

 フランス現代文学の鬼才、いや、鬼っ子の新作『地図と領土』は、世界と人間への強烈な侮蔑と、それを自らに許す作家自身のあまりにも魅力的な傲慢(ごうまん)という持ち味を遺憾なく発揮しつつ、新たな境地へと鮮やかに突き抜けてみせた、紛(まご)うかたなき傑作である。

 主人公はジェド・マルタン、アーティスト。若き日の芸術的理想を捨ててリゾート開拓の分野で成功を収めたが、既に引退している寡黙な老父が買ってくれたパリのアパルトマンにひとり住みながら、孤独に作品制作をしている。だがジェドの孤独は彼自身が望んだことでもある。彼は一個人としては、他人にも社会にも興味を抱いていない。

 だが、にもかかわらず彼はフランスという国と、より大きな視野での現代文明と人間生活にかんする、独創的と言ってよい芸術作品を創り出し、本人の意志とは無関係に、あっという間に美術界のスターになってしまう。写真、絵画、ビデオと媒体を変えながら、ジェドは共感とは無縁のまま、世界を冷徹かつ克明に描き出すことで、それらと否(いや)応無しにかかわってゆく。まず何よりも、この小説は、一風変わった「芸術(家)小説」である。

 だが、ここにもうひとりの人物が登場する。それはなんと「ミシェル・ウエルベック」である。世間のイメージそのままのスキャンダラスで嫌われ者のウエルベックに、ジェドは自分の展覧会カタログへの寄稿を依頼し、作家の肖像画を描くことになる。孤独な芸術家と孤立した小説家は不思議な交流を結ぶ。

 だが、そこに或(あ)る事件が起こる……予想もつかない展開に、読者の多くは驚愕(きょうがく)することだろう。それはまるで、小説のジャンルが一変してしまったかのようでさえある。だがその後には、深く苦い納得が待ち受けている。完璧な、決然としたペシミズム。純然たる絶望。だが、それはなぜか奇妙に清々(すがすが)しいのだ。
    ◇
 野崎歓訳、筑摩書房・2835円/Michel Houellebecq 58年、仏生まれ。小説家。『素粒子』『ある島の可能性』など。



地図と領土 (単行本)

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意外。「如来常住」や「仏性」の、そもそもの意味(『如来蔵と仏性』)

細々と読んでいる『シリーズ大乗仏教8巻 如来蔵と仏性』(春秋社)。

第三章「仏性の宣言―涅槃経」(幅田裕美先生)は、
如来常住や仏性を、サンスクリット語のそもそもの意味に戻って
解説していて、面白かった。

思想だけでいうと、
無常だって言ってるのになんで「常住」なんだよ?
と疑問がわいてくるけど、
「常住」はeternalという時間的概念でなくて
そもそもは「仏がここにいる」という空間的概念だとか。

しかも(在家の?)観想という実践と結びついていて、
「瞑想してるときに、仏が家の中にいる」ということだとか。

なんと。これだったら、私やってますわ。
部屋で坐禅してるとき、横にお釈迦様が座ってる気がして
そう思うとスーパーハッピーなんですよね。
一番最初の如来常住って、こういう感覚だったのか?

あと「仏性」も、
「みんな本当はいい人なんだよ」みたいに聞こえて
イチャモンつけたくなりますが、
「仏性」の「性」と訳されたdhatuは
仏舎利の意味を持っていたとか。

やっぱり訳の影響は大きいなあ…。


===以下は同書からの自分用メモ===============

「大般涅槃経」=釈尊が死んでも如来は常住である、と繰り返し主張。
如来常住、悉有仏性


「如来常住」の意味。
サンスクリット原文では
nityo bhagavam buddha
(サンスクリット語の点とか線が出ない・・)
「仏陀釈尊はnityaである」

nitya(ni-tya)
ni=「ここに」「このなかに」という場所を指示する副詞
nityaの本来の意味は「ここに(ある)こと」という空間的な語義。
それがeternalという時間的な意味と理解された。漢訳では「常住」

「大般涅槃経」ではnityaが重要な言葉。
「『如来はnityaである』と実践する者たちの家に如来は留まる」

<仏陀の死後であっても、仏陀がここにいることを観想すれば
仏陀はここにいる>という(思想だけでなく)実践を伴う


nityaの観想が「私の家」から「私の上」「私のカラダ」
へと進んでいると考えられる→私の中に仏がいる=如来蔵


「仏性」の言語は Buddha-dhatu
dhatuは「構成要素」という意味
Buddha-dhatuは「仏陀の構成要素」。「仏界」。
明らかに「仏舎利(ブッダの遺骨)」という意味で
崇拝を勧める記述も出てくる(「大般涅槃経」)

これを「仏性」と漢訳したことで、
サンスクリット語の原語にない哲学的な意味を付与された。
(性=もともと備わっている心、本質、というような)

悉有仏性=サンスクリット原文は今のところ残っていない(?)


「大般涅槃経」を正確な訳すと「大般涅槃大経」。
「大経」(マハースートラ)は、
比丘でなく在家信者が伝承したものと推測される。
(律の雨安居の規定より)

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