釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -198ページ目

わからなかった「禅学入門」


禅がわかりません!


『無門関』(48の公案集)も、道元の『正法眼蔵』現代語訳も、
読み始めて、あえなく玉砕、挫折。


もうちょっとわかりやすものから入ろうと思って、
鈴木大拙先生が『禅学入門』を読み始めました。
外国人に禅を紹介する本の和訳だから、
わかりやすいかと思ったら・・・これも全然わかりません(涙)。


たとえば、「仏陀とは誰か、また何か」という問いに対して、
著者が禅の本から「手当たり次第に引用」した答えの例は、


「泥土で造って金を塗ったもの」
「仏とは仏ではない」
「乾いた糞ふきべら」
「たわごと言うな」
「ここは四面皆山だ」
「三脚の驢馬が駈けてとんで行く」


??????????


脳にお花が咲いて鳩が飛び立っていきました。

言葉や論理の枠を解体せよ!
概念や観念が生まれる前の場所から掴め!
というわけですが、
理屈っぽい私には相当な長い道のりがありそうです。




で、関係ないのですが、思い出したのが、
マルセル・デュシャンの超有名な「泉」(1917年)。
便器を1個、ポンと置いて、現代美術であると。


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ 現代アート、便器。


それから、ジョン・ケージ作曲の「4分33秒」(1952年)。
オーケストラやピアニストがステージで、
無音でじ~~っとしていて、
4分33秒たつと帰っていくという”無の音楽”です。

美術とか音楽という”観念””制度”を解体した、というべきか。

このお2人は現代芸術に多大な影響を与えました。


が、演奏会の客だったら「カネ返せ~!」ですよ。

今回調べてみたら、
ジョン・ケージは鈴木大拙の講義を受けて
禅から多大な影響を受けたそうです。
びっくり!というか、やっぱね! というか。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ このまま4分33秒じっとしてます。ラーメンのびます。


とりあえずは、
鈴木大拙先生のように禅の”内部”の人ではなくて、
禅の外から批評的に解説している禅宗史を探します。

本を読むより座禅を組め!って話ですが、
私は理屈っぽい人間なので、仕方ないです。
いい本があったら教えてください。


禅学入門/鈴木 大拙
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勝間和代VS香山リカ


ちまたでは、勝間和代VS香山リカの対決が話題を呼んでいるようです。
本気か女子プロレスかは知りませんが。


発端は、昨年、香山さんが新書『しがみつかない生き方』の最終章に、
「勝間和代を目指さない」という項目を設けたことです。
勝間さんが反論として『やればできる』という本を出し、
目ざとくキャッチした「AERA」が両者の対談を掲載、
さらに『勝間さん、努力で幸福になれますか?』という対談本にして、
という流れです。どれも売れてるようで、みんなハッピーですね


しがみつかない香山 VS 努力すればできる勝間
という、かなりすれ違ったバトルが展開されているようですが、
ブディスト的にはちょっと面白いかも。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~


というのは、「しがみつかない」=執着を断ち切れ、というのは、
お釈迦さまが何万回も言ってることですよね。
一方で、「努力せよ」=怠るな、というのも、お釈迦さまが繰り返し
言っていることです。
どっちのことばも、原始経典にいやっていうほど出てきます


要するに、すべてのことに「しがみつかない」人になるには、
生涯かけて努力しないといけない、
そのぐらい難しいわけですよね


「人生を効率化して努力して社会的成功を目指す」
という勝間テイストを香山さんは批判しているようですが、
だったら
『勝間さん、努力の目標がくだらなすぎませんか?』と言えばいい。

あと、勝間さんが反論するなら
しがみつかないのが一番むずかしい』と言えばいい。

まぁ、両氏の対談本は読んでないし読む予定もないので、
以上のことが合っているかわかりませんが。


昨日、原始経典の「感興のことば」を読んでて笑ってしまったのですが、


つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の足跡である。」
                         (第四章ー1)
おー、勝間っぽい。と思ったら、


「『わたしはこれをなしとげた。これをしたならばこれをしなければ
ならないであろう。』というふうに、あくせくしている人々を、
老いと死とが粉砕する
」(第1章ー41)


こちらは香山っぽい。



ちなみに、勝間さんが「三毒追放」の三毒(貪・瞋・痴)を
「怒る・妬む・愚痴」と書いているのが、
仏教用語を間違って使っていると各所で笑いものになっていて、
確かに間違っているのですが、
どこかで聞きかじっただけの仏教用語を得意気に使ってしまう
勝間のワキの甘さ・無知さが、私はけっこうかわいいと思います。


それから、香山さんの単著は昔から何冊か読んでいましたが、
なかなかいい本があります。たとえば、以下のようなやつ。


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お釈迦さまの激しい苦悩「感興のことば」


昨日ご紹介した『真理のことば 感興のことば』(岩波文庫・中村元訳)ですが、
後半の「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)が、これまた凄まじい!

お釈迦さまの「苦しい!」という叫びが強烈です



<第一章 無常>より


「何の喜びがあろうか? 何の歓びがあろうか?
 (世間は)このように燃え立っているのに。」


「死刑囚が一歩一歩と歩んで行って、刑場におもむくように、
 人の命も同様である。」


「なんじ、いやしき<老い>よ! いまいましい奴だな。
 お前は人を醜くするのだ! 麗しい姿も老いによって粉砕されてしまう。」


「ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう--
 意識を失い、うつろで、藁のように、投げ棄てられて。」


「この身体に何の用があろうか?―― いつも臭穢を漏らし、
たえず病いにおそわれ、老いと死におびえているのに。」


第一章で、お釈迦さまは繰り返し繰り返し、
どうせ死んじゃうんだ!」と嘆いているのです。
釈迦族の王子様で、妻子持ちで、パパが王宮にハーレムまで作ってくれたのに、
失踪してしまうんですから、どんなに生への絶望が激しかったことか。


仏教を知る前、私もその想いがフッと浮かぶことがよくありました。
何か言い争いをしているとき、みんなで楽しく遊んでいるとき、
「でもみんな死んじゃうんだよね」という想いが浮かんで、
目の前の現実がかげろうのように揺らいで見えたものです。


ましてや、紀元前500年のインドでは、
戦争で死ぬ、子供がしょっちゅう病死する、洪水で村ごと死ぬ、
不作で餓死するーーと、まさに「一切が苦」だったと思います。
現代の私たちが、この「一切皆苦」を実感するのは、
なかなか難しいことですが・・・。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ 王宮にいればハーレムまであるのに。なぜこんな苦行を・・・。

                            


この「感興のことば」(ウダーガヴァルナ)は、
部派仏教の有力部派・説一切有部が編纂したもので、
お釈迦さまが感興を催して自ら発したことば、
「無問自説」(問われないのに自ら説いたことば)とされているそうです。


私は、上に挙げたような、仏教の激しさが好きです。
「慈悲だよね」「あるがままだよね」といった仏教ロマン派でなくて、
「無常!」にしびれる仏教リアリズム派であります。



<第5章 愛するもの>より


愛するものをつくってはならぬ
愛するものであるということはわざわいである。
愛するものも憎むものも存在しない人々には、わざわいの絆は存在しない。」


ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)/著者不明
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