わからなかった「禅学入門」
禅がわかりません!
『無門関』(48の公案集)も、道元の『正法眼蔵』現代語訳も、
読み始めて、あえなく玉砕、挫折。
もうちょっとわかりやすものから入ろうと思って、
鈴木大拙先生が『禅学入門』を読み始めました。
外国人に禅を紹介する本の和訳だから、
わかりやすいかと思ったら・・・これも全然わかりません(涙)。
たとえば、「仏陀とは誰か、また何か」という問いに対して、
著者が禅の本から「手当たり次第に引用」した答えの例は、
「泥土で造って金を塗ったもの」
「仏とは仏ではない」
「乾いた糞ふきべら」
「たわごと言うな」
「ここは四面皆山だ」
「三脚の驢馬が駈けてとんで行く」
??????????
脳にお花が咲いて鳩が飛び立っていきました。
言葉や論理の枠を解体せよ!
概念や観念が生まれる前の場所から掴め!
というわけですが、
理屈っぽい私には相当な長い道のりがありそうです。
で、関係ないのですが、思い出したのが、
マルセル・デュシャンの超有名な「泉」(1917年)。
便器を1個、ポンと置いて、現代美術であると。
それから、ジョン・ケージ作曲の「4分33秒」(1952年)。
オーケストラやピアニストがステージで、
無音でじ~~っとしていて、
4分33秒たつと帰っていくという”無の音楽”です。
美術とか音楽という”観念””制度”を解体した、というべきか。
このお2人は現代芸術に多大な影響を与えました。
が、演奏会の客だったら「カネ返せ~!」ですよ。
今回調べてみたら、
ジョン・ケージは鈴木大拙の講義を受けて
禅から多大な影響を受けたそうです。
びっくり!というか、やっぱね! というか。
とりあえずは、
鈴木大拙先生のように禅の”内部”の人ではなくて、
禅の外から批評的に解説している禅宗史を探します。
本を読むより座禅を組め!って話ですが、
私は理屈っぽい人間なので、仕方ないです。
いい本があったら教えてください。
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勝間和代VS香山リカ
ちまたでは、勝間和代VS香山リカの対決が話題を呼んでいるようです。
本気か女子プロレスかは知りませんが。
発端は、昨年、香山さんが新書『しがみつかない生き方』の最終章に、
「勝間和代を目指さない」という項目を設けたことです。
勝間さんが反論として『やればできる』という本を出し、
目ざとくキャッチした「AERA」が両者の対談を掲載、
さらに『勝間さん、努力で幸福になれますか?』という対談本にして、
という流れです。どれも売れてるようで、みんなハッピーですね。
しがみつかない香山 VS 努力すればできる勝間
という、かなりすれ違ったバトルが展開されているようですが、
ブディスト的にはちょっと面白いかも。
というのは、「しがみつかない」=執着を断ち切れ、というのは、
お釈迦さまが何万回も言ってることですよね。
一方で、「努力せよ」=怠るな、というのも、お釈迦さまが繰り返し
言っていることです。
どっちのことばも、原始経典にいやっていうほど出てきます。
要するに、すべてのことに「しがみつかない」人になるには、
生涯かけて努力しないといけない、
そのぐらい難しいわけですよね。
「人生を効率化して努力して社会的成功を目指す」
という勝間テイストを香山さんは批判しているようですが、
だったら
『勝間さん、努力の目標がくだらなすぎませんか?』と言えばいい。
あと、勝間さんが反論するなら
『しがみつかないのが一番むずかしい』と言えばいい。
まぁ、両氏の対談本は読んでないし読む予定もないので、
以上のことが合っているかわかりませんが。
昨日、原始経典の「感興のことば」を読んでて笑ってしまったのですが、
「つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の足跡である。」
(第四章ー1)
おー、勝間っぽい。と思ったら、
「『わたしはこれをなしとげた。これをしたならばこれをしなければ
ならないであろう。』というふうに、あくせくしている人々を、
老いと死とが粉砕する」(第1章ー41)
こちらは香山っぽい。
ちなみに、勝間さんが「三毒追放」の三毒(貪・瞋・痴)を
「怒る・妬む・愚痴」と書いているのが、
仏教用語を間違って使っていると各所で笑いものになっていて、
確かに間違っているのですが、
どこかで聞きかじっただけの仏教用語を得意気に使ってしまう
勝間のワキの甘さ・無知さが、私はけっこうかわいいと思います。
それから、香山さんの単著は昔から何冊か読んでいましたが、
なかなかいい本があります。たとえば、以下のようなやつ。
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お釈迦さまの激しい苦悩「感興のことば」
昨日ご紹介した『真理のことば 感興のことば』(岩波文庫・中村元訳)ですが、
後半の「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)が、これまた凄まじい!
お釈迦さまの「苦しい!」という叫びが強烈です。
<第一章 無常>より
「何の喜びがあろうか? 何の歓びがあろうか?
(世間は)このように燃え立っているのに。」
「死刑囚が一歩一歩と歩んで行って、刑場におもむくように、
人の命も同様である。」
「なんじ、いやしき<老い>よ! いまいましい奴だな。
お前は人を醜くするのだ! 麗しい姿も老いによって粉砕されてしまう。」
「ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう--
意識を失い、うつろで、藁のように、投げ棄てられて。」
「この身体に何の用があろうか?―― いつも臭穢を漏らし、
たえず病いにおそわれ、老いと死におびえているのに。」
第一章で、お釈迦さまは繰り返し繰り返し、
「どうせ死んじゃうんだ!」と嘆いているのです。
釈迦族の王子様で、妻子持ちで、パパが王宮にハーレムまで作ってくれたのに、
失踪してしまうんですから、どんなに生への絶望が激しかったことか。
仏教を知る前、私もその想いがフッと浮かぶことがよくありました。
何か言い争いをしているとき、みんなで楽しく遊んでいるとき、
「でもみんな死んじゃうんだよね」という想いが浮かんで、
目の前の現実がかげろうのように揺らいで見えたものです。
ましてや、紀元前500年のインドでは、
戦争で死ぬ、子供がしょっちゅう病死する、洪水で村ごと死ぬ、
不作で餓死するーーと、まさに「一切が苦」だったと思います。
現代の私たちが、この「一切皆苦」を実感するのは、
なかなか難しいことですが・・・。
この「感興のことば」(ウダーガヴァルナ)は、
部派仏教の有力部派・説一切有部が編纂したもので、
お釈迦さまが感興を催して自ら発したことば、
「無問自説」(問われないのに自ら説いたことば)とされているそうです。
私は、上に挙げたような、仏教の激しさが好きです。
「慈悲だよね」「あるがままだよね」といった仏教ロマン派でなくて、
「無常!」にしびれる仏教リアリズム派であります。
<第5章 愛するもの>より
「愛するものをつくってはならぬ。
愛するものであるということはわざわいである。
愛するものも憎むものも存在しない人々には、わざわいの絆は存在しない。」
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