お釈迦さまの激しい苦悩「感興のことば」
昨日ご紹介した『真理のことば 感興のことば』(岩波文庫・中村元訳)ですが、
後半の「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)が、これまた凄まじい!
お釈迦さまの「苦しい!」という叫びが強烈です。
<第一章 無常>より
「何の喜びがあろうか? 何の歓びがあろうか?
(世間は)このように燃え立っているのに。」
「死刑囚が一歩一歩と歩んで行って、刑場におもむくように、
人の命も同様である。」
「なんじ、いやしき<老い>よ! いまいましい奴だな。
お前は人を醜くするのだ! 麗しい姿も老いによって粉砕されてしまう。」
「ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう--
意識を失い、うつろで、藁のように、投げ棄てられて。」
「この身体に何の用があろうか?―― いつも臭穢を漏らし、
たえず病いにおそわれ、老いと死におびえているのに。」
第一章で、お釈迦さまは繰り返し繰り返し、
「どうせ死んじゃうんだ!」と嘆いているのです。
釈迦族の王子様で、妻子持ちで、パパが王宮にハーレムまで作ってくれたのに、
失踪してしまうんですから、どんなに生への絶望が激しかったことか。
仏教を知る前、私もその想いがフッと浮かぶことがよくありました。
何か言い争いをしているとき、みんなで楽しく遊んでいるとき、
「でもみんな死んじゃうんだよね」という想いが浮かんで、
目の前の現実がかげろうのように揺らいで見えたものです。
ましてや、紀元前500年のインドでは、
戦争で死ぬ、子供がしょっちゅう病死する、洪水で村ごと死ぬ、
不作で餓死するーーと、まさに「一切が苦」だったと思います。
現代の私たちが、この「一切皆苦」を実感するのは、
なかなか難しいことですが・・・。
この「感興のことば」(ウダーガヴァルナ)は、
部派仏教の有力部派・説一切有部が編纂したもので、
お釈迦さまが感興を催して自ら発したことば、
「無問自説」(問われないのに自ら説いたことば)とされているそうです。
私は、上に挙げたような、仏教の激しさが好きです。
「慈悲だよね」「あるがままだよね」といった仏教ロマン派でなくて、
「無常!」にしびれる仏教リアリズム派であります。
<第5章 愛するもの>より
「愛するものをつくってはならぬ。
愛するものであるということはわざわいである。
愛するものも憎むものも存在しない人々には、わざわいの絆は存在しない。」
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