釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -186ページ目

買ってよかった『現代語訳 阿含経典』

岩波文庫の初期仏典は、だいたい読んだのですが、
もっと読みたいと思って、
『現代語訳 阿含経典』を読み始めました。

訳は、私の好きな末木文美士先生他、です。


これは、お釈迦さまの弟子たちが結集した初期仏典「アーガマ」の
漢訳「阿含経」のうち、長編の経典「長部」の現代語訳。
全6巻もあって、各4~5000円と高いし、書店にも図書館にもないし、
難易度がわからないのでどうしよかなぁ・・・と思って、
とりあえず第2巻を買ってみました。


結果的に、これは買い!でした。
後半はほとんど「訳」に関する専門的な注釈で、
素人の私が読んでも「?」ですが、
本文の現代語訳は普通に読めて面白い。

あと、本の装丁がステキです。


岩波文庫の『ブッダのことば』(スッタニパータ)や、
『ブッダの真理のことば』(ダンマパタ)のように、
次々と人生の真理が繰り出される・・・という感じではないですが、
「あの有名な仏説は、こういう表現で、ここで説かれたのか」
ということがわかって、お釈迦様のおっかけをするなら、
やはり必須かな、と思います。

この長部各経典についても、追々ブログでご紹介してゆくかも。

この第2巻、実は古書店で1700円で買ってしまいました。
末木先生、そのほかの先生、すみません。


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そろそろ児童虐待も、無間地獄でどうでしょう?

奈良県桜井市で、5歳の長男を餓死させた両親が、
今日、保護責任者遺棄致死罪で起訴されたそうです。
母親が自分で通報したから殺人罪を逃れたそうですが、
「部屋が手狭だから、2年間、ロフトに閉じ込めておいた」
などと、人間とは思えない所業です!


しかも、素晴らしいお寺が多く、古来神々の土地である桜井市で!


ほかにも、2歳の子をオーブンに入れて火傷させたりした末に、
ゴミ箱で窒息死させた親も裁判中です。
慈悲の心も忘れて「お前が死ねよ!」と言いたくなる親たちです。


ところで、初期仏教以来、仏教のもっとも重い罪「五逆」は、


・殺父(父を殺す) 
・殺母(母を殺す)
・殺阿羅漢(阿羅漢を殺す)
・破和合僧(教団を乱す) 
・出仏身血(仏身を傷つける)
です。
ひとつでも犯すと、地獄の最下層、無間地獄に落ちます。

「子どもを殺す」も入れて、六逆にしてくれませんかねえ?



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  阿鼻(無間)地獄。


やはり、お釈迦様時代のインドにおいて、
幼児虐待=子殺しは、さほど悪いことではなかったんですよね。
古代どころか、インドの一部地域では、今でも女児の間引きが
行われているそうです。


もちろん日本でも、江戸時代(もっと後までか)の間引きは珍しくなかったし、
戦前の旧刑法では親殺しは通常の殺人罪より重い(尊属殺人)のに対して、

子殺しは傷害致死どまり。

戦前の東北では不作の年に、娘を吉原に売る売春斡旋の相談窓口を、

村役場が設けていたり。
「児童虐待」という概念自体が、現代の産物ということですよね。


日本最古の仏教説話集、『日本霊異記』(奈良末~平安初期)にも、
こんな話が出てきます。


母親が、いつまでも泣きやまない奇怪な子どもを抱いて、
行基(東大寺大仏建立に関わった僧)の説教を聞いていたら、
行基が「その子を河に投げ捨てろ」と。
そのとおり捨てたら、子どもが餓鬼の正体を現して、
「お前が前世で借りたカネを返さなかったから、
子どもに生まれ代わって財産を食い潰してやろうとしたのさ。ケケケ」
と言いましたとさ(記憶で書いてるので細部は違うかも
)。


因果応報の説話なのですが、
行基さん、泣く子を殺せ、と命じますか!と思うのは現代の感覚で、

当時の庶民の仏教理解を生々しく伝えています。

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さらに言うと、『古事記』の「国生み神話」。
初めての夫婦神イザナギとイザナミがセックスするのですが、
妻から「しよう」と誘ったために、生まれた子どもが「ヒルコ」。
「ヒルに似ていたので、アシ船に乗せて流しました」
と、障害児(未熟児?)をあっさり1行で溺死させましたとさ。
これは、「女から誘っちゃダメ」ということと、
障害児・未熟児は殺してOKという教訓ですね。


仏教も神話も、時代の産物である以上、
仏教の「五逆」に児童虐待が入ってないのは自然なことです。
が!
そろそろ子殺しを「六逆」目に認定しちゃダメですかねえ?

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『日本仏教史』2・漢訳の訓読で変容した日本の仏教


「日本仏教は、なんでインドの初期仏教とかくも違うのか」メモ・第2弾です。
(末木文美士先生『日本仏教史』からの受け売りメモ)


この本で、目からうろこがドサリと落ちたのは、
終章の「漢文仏典の音読」問題でした。


インドから中国に伝わるときに仏典は漢訳され、
ここでまず1フィルター通っていますよね。
この漢訳を、たとえばチベットではチベット語に翻訳しています。
ですが日本では、「漢文の読み下し=訓読」のテクニックによって、

漢訳仏典をそのまま日本語にして読んでいました。
「如是我聞」を「是(かく)の如くに我聞けり」というように。
(「如是我聞」の訓読でさえ、時代によって様々だそうです)。


和訳せず読めるのは相当に省力化できると同時に、
良くいえば自由な・悪くいえば恣意的な訓読が行われたというのです。

たとえば、浄土3経の「無量寿経」の、もっとも有名な「弥陀の十八願」。


================================
(以下、『日本仏教史』352~353Pより引用)

漢訳仏典ではこうです。


諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、
即得往生、住不退転。唯除五逆誹謗正法。


これを親鸞は、次のように読んでいます。


あらゆる衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せむこと、乃至(ないし)一念せむ。
至心に廻向(えこう)したまへり。・・・


ここで「廻向したまへり」と読んだところがポイントです。
つまり、これは衆生の行為ではありません。そうでなく、阿弥陀仏の側の行為と
されているのです。阿弥陀が廻向してくださった、というのです。
(中略)
こうして(敬語に読むことによって)、親鸞の「他力」の思想が貫徹することになります。
(中略)
ところが、もとの文そのものでは、到底こう解釈することはできません。
「至心廻向」の主語はあくまで「諸有衆生」としか考えられません。
親鸞の解釈はあまりに強引です。
このような解釈が可能になったのは、訓読によって、漢文が漢文としての
文脈を解体され、日本語の文脈のなかで自由に解釈されるようになったから
だと思われます。

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きゃ~~~。浄土真宗の方から怖いコメントが来そう。
「他力」を説く親鸞さまの根本が、この十八願ですもの。
でもこれは、末木本の引用ですからね。
私は、漢文の読み方について、全然詳しくないですからね。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ 釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~
サンスクリット語の無量寿経           その漢訳


そして、このような仏典の”自由解釈”はエスカレートし、
中世の「本覚思想」の文献を見ると、恣意的にこじつけた、
としか言えない
訓読も見られるそうです。


独自訓読の有名な例として、道元も挙げられています。


『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」(一切衆生に悉く=ことごとく=仏性あり)を、
道元は「悉有は仏性なり」(一切存在は仏性にほかならない)と読んでいると。

「仏になる可能性が内在している」のと、「そのまま仏である」では、
ぜんぜん意味が違うじゃん!とも思うのですが、
末木先生によると、道元は一種の確信犯であったようです。


道元は「きわめて言語表現に敏感」で、
「言語の意味表示機能そのものを崩壊寸前までに追い詰めている」と、
末木先生は指摘しています。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  道元、中村勘太郎。


漢訳仏典の訓読問題。
日本仏教の独自性に、こういう観点があるとは、新鮮でした。

そういえば、岩波文庫の「無量寿経」のまえがきに、
「現代語訳するといろいろ問題がおこる。中国や日本の
伝統的解釈と異なった解釈を述べねばならぬことが起こる」
と、中村元先生が書いています。
仏典解釈も、いろいろと気苦労の多いことであります。

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