耳が痛い!浄土教の意外な読みどころ(「無量寿経」3)
引き続き「無量寿経」についてです(きりがないので今回でおしまい)。
日本では近代以降、偉大なる親鸞聖人のインパクトがあまりに強かったせいか、
浄土教=「念仏を唱えてすべて阿弥陀さまにお任せすれば、どんな悪人でも
極楽浄土にいける」というイメージがあるのではないでしょうか。
(私もかつてそう思っていました)
だから、浄土教のお経自体にそういう傾向があるのかと思ったら、
「無量寿経」を読んでみるとかなり違うんですねえ。
素直に読むと、「世俗を捨てて善をなすよう努力せよ」と再三書かれていて、
基本はお釈迦さまの教えとほとんど同じ、という印象を受けました。
これはよく指摘される議論のタネですが、いちばん有名な
阿弥陀の前身・法蔵菩薩の「第十八願」(梵文だと19番目)。
「もし私が仏となったとき、十万世界の衆生が心から信じ、
私の国(仏国土、浄土)に生まれようと願い、最低限10回思念したとき、
もし(私の国に)生まれないならば、正しい悟りを得ることはしない。
ただ5つの大きな悪逆を犯したものと、正しい教えを誹謗した者を除く」
(末木文美士訳 『仏典をよむ』より)
この「除く」の項目です(梵文にも漢訳にも入っています)。
そのまま読めば、仏教における大罪「五逆」を犯した人と、仏教を誹謗した人は
「浄土に行けなくても阿弥陀は関知しませんよ」と読めるわけで、
のちのち日本で大激論となったそうです(たぶん今も未解決?)。
無量寿経は、中国・インド・チベットと、
それぞれの国でアレンジして受容されたわけですね。
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この流れで、私が無量寿経の中で、意外かつ身につまされたのが、
「世俗がいかにダメか」を説く部分です。
新味はないので話題にならない部分ですが・・・。
お釈迦さまが、弥勒菩薩や神々や人間に、
阿弥陀仏がいる浄土の素晴らしさを説いたあと、
「(その浄土に行くために)どうして世俗の行いを捨てて、
その道を求める努力をしないのであるか」と再三嘆いて、
世俗の三毒五悪を列挙します。
「しかし、世の人は浅はかで心卑しく、急ぐ必要のないことを争い求める」
「人々は日常の営みに身を苦しめ、はたらき、自分の生活にあくせくしている」
「田があれば田を憂え、家があれば家を憂え・・・人々はため息をつき憂えおののくのだ」
「強いものは弱いものを征服し、互いに争い、傷つけ、殺し合い・・」
「言葉たくみに媚びへつらい、賢者を嫉み、善人をそしり、人を陥れようとする」
「ひとのものは欲しがり、自分のものは惜しんで・・・自分の妻を嫌ってひそかに
無分別に(他の女性と)関係を持ったり離れたりする」
「父母が教え諭したりすれば、眼をいからせて怒り、口答えするのだ」
(岩波文庫『無量寿経』より抜粋)
耳が痛い! こういうダメ行動の例が、20ページぐらい続くのです。
そのひとつひとつが、まさに自分のことを言われているようで、心に痛い。
原始仏典よりも、例が具体的で切実、現代にもそのまま当てはまります。
コピーして、「べからず集」として持ち歩きたいぐらいです。
そして、お釈迦さまは、こう説きます。
「人はこの愛欲の世間にひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、
ひとりで来るのだ。行うところによって苦しみの人生を得たり、
幸福な人生を得たりする。行う者自身がその報いを受けるのであり、
代わりに受けてくれる者はだれもいないのだ」。
なんだ、無量寿経も原始仏典と同じ”自力救済”じゃん、と思いました。
ただしこのお経は、いくつかのお経を繋ぎ合わせたり、
説明を加筆したりしたようで、統一がとれていない(by末木先生)そうです。
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阿弥陀仏はどうやって登場するか(『無量寿経』2)
浄土三部経のうち最初にできた「無量寿経」(AC100年頃)の続きです。
このお経を読むとき、ひとつの関心は、阿弥陀仏の登場の仕方でした。
架空の仏・阿弥陀物仏をクリエイトする以上、
信じるに足る由来などが説明されているのではないか?
読んでみた結果、別に説明されていませんでした!
(以下、梵文和訳)
「師(お釈迦さま)はアーナンダにこのように言われた。
『アーナンダよ。昔、過去の時、今を去ること無数劫の、
さらに無数・広大・無量・不可思議のとき、ディーパンカラ(然燈)と
名づけられる如来・敬われるべき人・正しく目覚めた人が世に出られた。
アーナンダよ、ディーパンカラの前のさらに前に、
プラターパヴァットという名の如来がおられた。
それよりさらに前に、プラパーカラという名の如来がおられた。
それよりさらに前に、チャンダナ・ガンダという名の如来がおられた。
それよりさらに前に、スメール・カルパという・・・・(以下ず~っと続く)』」
それ、誰よ!?と当惑しているうちに、
初めて聞く如来の名前が80人も続きます(80人目はシンハ・マティ)。
で、81番目に「ロケーシヴァラ・バージャ如来(世自在王)」がいて、
その弟子の修行者「ダルマーカラ(法蔵菩薩)」が五劫(何億年?)のあいだ
考え続けたのちに、「無量光如来」(アミターバ、阿弥陀仏)になったというのです。
「おられた」「おられた」以上の説明はないので、
「はぁ。おられたんですか」としか言いようがないまま、
最後にあっさり法蔵菩薩→無量光如来が登場するのです。
チベットの阿弥陀仏。英語だとAmitabha Buddhaとなっていた。
本の後半に納められた漢訳・無量寿経では、
80でなく53仏が挙げられ、世自在王は過去54番目の如来です。
過去仏思想は初期仏教時代からあって、
お釈迦さまは7番目の如来、また未来には弥勒仏が待機中だとされました。
解説によると、
「ブッダの神格化の発展につれ、過去24仏、過去32仏が考えられた。
浄土教では大乗仏教の多仏思想を阿弥陀仏(実は釈迦牟尼仏と一致する)一仏で
統一しようとする意図を有していたから、魏訳では53仏と、阿弥陀の師仏たる
世自在王仏を列挙する」とあります。
梵訳、魏訳、宋訳、唐訳によって、それぞれ過去仏の数が違うのです。
そして、阿弥陀の師・世自在王=ロケーシヴァラとは、
なんとヒンズー教のシヴァ神の別名だそうです。
気になるのは、阿弥陀仏や無量寿教を創作した人たちの”現場”です。
アミターユス(無量の光)は、ゾロアスター教のアブラマアズダ(光の神)
とも似ているし、太陽信仰はどこにでもあるし・・・・それらの影響で、
たとえばゾロアスター教徒のペルシア人と交流しているうちに、
「どうも無量光仏というのがいるらしい」として自然に信仰が広がったのか。
それとも、誰かが自覚的に「無量光・無量寿の2仏をくっつけて、
阿弥陀如来で天下統一する?」みたいな感じで創作したのか?
(前者のほうが自然ですけどねえ。下巻の「阿弥陀経」を読めばわかるのでしょうか)
あと、無量寿経の80仏は誰が考えたのか?
結集(編集会議)のときに、「次は、えーと、チャンダナ・ガンダでいきますか」
というふうに、適当に過去仏の名前を作っていった・・・わけはないでしょうが、
53とか80とか数もバラバラなので、そんな想像をしてしまいます。
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浄土にうっとり。でも浄土と涅槃は別物だった (「無量寿経」1)
初期仏典の「阿含経」と、大乗仏典の「無量寿経」(浄土三部経の一つ)を
並行して読むという、わけのわからない読み方をしているのですが、
本日は「無量寿経」について。
阿弥陀信仰、浄土信仰の基本仏典ですが、
そこに描かれる仏国土(浄土)の風景の美しいこと。
初期仏教派のわたくしでさえ、うっとりして、
「こんな所へ行きたいな~
」と思います。
以下、「 」は、岩波文庫の訳文(梵文和訳)より。
かの「幸あるところ」(浄土)は、
「種々のかぐわしい香があまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、
宝石の木々に飾られ、妙なる音声をもつ種々の鳥の群れが住んでいる」
また、阿弥陀がその下で悟りを開いた巨大な菩提樹(月まで届く距離)は、
「常に葉があり、常に花があり、常に果実があり、幾百千の色があり、
月のごとくに光り照らす珠宝で明らかに輝きわたり、その美しさは天のものを超え、
黄金の糸を垂らし、あらゆる宝石の網や、鈴のついた網でたわんでいる」
(長いので描写をピックアップ)
この菩提樹が風に吹かれると、無量の音声が諸世界に鳴り響き、
それを聞いた者は、「覚りを完成するまで」耳の病気を患いません。
同様に、見たら目が、香りを嗅いだら鼻が、病気になりません。
また、かの「幸あるところ」に生まれた求道者たちには、
「人々のうちいずれか一人という想いがなく、自分に属するという想いもない。
わたしのものという想いがない。争いもなく、論争もなく、紛争もない。」
私的所有もない、ものすごくいい人ばっかりのユートピアなのです。
さらに、望んだとおりの温度の水が、望んだ分量だけ出るとか、
粗末なものを食べなくても満腹になるとか、洗濯や裁縫をしなくても
服が手に入る・・・といった現実的に便利な項目もあります。
木村泰賢先生は「大乗仏教思想論」で、
浄土願望には、古代インド人の現実的な「社会改革」欲求も反映されている、
と書いています。
要は、水道とか、医学の進歩(病気にならない)とか、
電信電話(遠くのものが聞こえる神通力)とかが実現した世界でもある、と。
で、浄土はそんなユートピアなのですが、
驚いたことに、浄土は「ゴール」ではないらしいのです。
「覚りを完成するまで」のあいだに住む、途中地点だというのです。
「かの仏国土にすでに生まれ、現在生まれ、未来に生まれるであろう
生ける者どもは、すべて永遠の平安(ニルヴァーナ)に至るまで、
<正しい状態>でいる者であると決定しているのだ」
解説には、こう書かれています。
「極楽に生まれることは、ニルヴァーナに達する以前の前段階なのである。
往生即涅槃と解する浄土真宗の教義は、
日本で成立した独自のものなのである。」
え~っ、そうだったんですか!
こんなに楽しそうな浄土なら、永遠に住みたいもんですが、
それは日本だけの教義だったんですね・・・。
平安末期~鎌倉時代に浄土信仰がブームになったとき、
「山越阿弥陀図」(上)がたくさん書かれたそうです。
阿弥陀の手から、糸(現物)を出して、死ぬときにその糸を握って、
極楽浄土に引っ張ってもらおうという図柄です。
ですが、「極楽往生」と、「涅槃」は、別物だったわけですね。
(つづきは後日)
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