浄土にうっとり。でも浄土と涅槃は別物だった (「無量寿経」1) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

浄土にうっとり。でも浄土と涅槃は別物だった (「無量寿経」1)

初期仏典の「阿含経」と、大乗仏典の「無量寿経」(浄土三部経の一つ)を
並行して読むという、わけのわからない読み方をしているのですが、
本日は「無量寿経」について。


阿弥陀信仰、浄土信仰の基本仏典ですが、
そこに描かれる仏国土(浄土)の風景の美しいこと。
初期仏教派のわたくしでさえ、うっとりして、
「こんな所へ行きたいな~ドキドキ」と思います。

以下、「 」は、岩波文庫の訳文(梵文和訳)より。


かの「幸あるところ」(浄土)は、
「種々のかぐわしい香があまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、
宝石の木々に飾られ、妙なる音声をもつ種々の鳥の群れが住んでいる」


また、阿弥陀がその下で悟りを開いた巨大な菩提樹(月まで届く距離)は、
常に葉があり、常に花があり、常に果実があり、幾百千の色があり、
月のごとくに光り照らす珠宝で明らかに輝きわたり、その美しさは天のものを超え、
黄金の糸を垂らし、あらゆる宝石の網や、鈴のついた網でたわんでいる

(長いので描写をピックアップ)


この菩提樹が風に吹かれると、無量の音声が諸世界に鳴り響き、
それを聞いた者は、「覚りを完成するまで」耳の病気を患いません。
同様に、見たら目が、香りを嗅いだら鼻が、病気になりません。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  阿弥陀浄土曼荼羅(和歌山の西禅寺)


また、かの「幸あるところ」に生まれた求道者たちには、
人々のうちいずれか一人という想いがなく、自分に属するという想いもない。
わたしのものという想いがない。争いもなく、論争もなく、紛争もない。」


私的所有もない、ものすごくいい人ばっかりのユートピアなのです。


さらに、望んだとおりの温度の水が、望んだ分量だけ出るとか、
粗末なものを食べなくても満腹になるとか、洗濯や裁縫をしなくても
服が手に入る・・・といった現実的に便利な項目もあります。


木村泰賢先生は「大乗仏教思想論」で、
浄土願望には、古代インド人の現実的な「社会改革」欲求も反映されている、
と書いています。
要は、水道とか、医学の進歩(病気にならない)とか、
電信電話(遠くのものが聞こえる神通力)とかが実現した世界でもある、と。


で、浄土はそんなユートピアなのですが、
驚いたことに、浄土は「ゴール」ではないらしいのです

「覚りを完成するまで」のあいだに住む、途中地点だというのです。


かの仏国土にすでに生まれ、現在生まれ、未来に生まれるであろう
生ける者どもは、すべて永遠の平安(ニルヴァーナ)に至るまで、
<正しい状態>でいる者であると決定しているのだ


解説には、こう書かれています。
「極楽に生まれることは、ニルヴァーナに達する以前の前段階なのである。
往生即涅槃と解する浄土真宗の教義は、

日本で成立した独自のものなのである。


え~っ、そうだったんですか!


こんなに楽しそうな浄土なら、永遠に住みたいもんですが、
それは日本だけの教義だったんですね・・・。


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ 阿弥陀から糸が出ている「山越阿弥陀図」(京都・禅林寺)


平安末期~鎌倉時代に浄土信仰がブームになったとき、
「山越阿弥陀図」(上)がたくさん書かれたそうです。
阿弥陀の手から、糸(現物)を出して、死ぬときにその糸を握って、
極楽浄土に引っ張ってもらおうという図柄です。
ですが、「極楽往生」と、「涅槃」は、別物だったわけですね。


(つづきは後日)

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