『日本仏教史』2・漢訳の訓読で変容した日本の仏教
「日本仏教は、なんでインドの初期仏教とかくも違うのか」メモ・第2弾です。
(末木文美士先生『日本仏教史』からの受け売りメモ)
この本で、目からうろこがドサリと落ちたのは、
終章の「漢文仏典の音読」問題でした。
インドから中国に伝わるときに仏典は漢訳され、
ここでまず1フィルター通っていますよね。
この漢訳を、たとえばチベットではチベット語に翻訳しています。
ですが日本では、「漢文の読み下し=訓読」のテクニックによって、
漢訳仏典をそのまま日本語にして読んでいました。
「如是我聞」を「是(かく)の如くに我聞けり」というように。
(「如是我聞」の訓読でさえ、時代によって様々だそうです)。
和訳せず読めるのは相当に省力化できると同時に、
良くいえば自由な・悪くいえば恣意的な訓読が行われたというのです。
たとえば、浄土3経の「無量寿経」の、もっとも有名な「弥陀の十八願」。
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(以下、『日本仏教史』352~353Pより引用)
漢訳仏典ではこうです。
諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、
即得往生、住不退転。唯除五逆誹謗正法。
これを親鸞は、次のように読んでいます。
あらゆる衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せむこと、乃至(ないし)一念せむ。
至心に廻向(えこう)したまへり。・・・
ここで「廻向したまへり」と読んだところがポイントです。
つまり、これは衆生の行為ではありません。そうでなく、阿弥陀仏の側の行為と
されているのです。阿弥陀が廻向してくださった、というのです。
(中略)
こうして(敬語に読むことによって)、親鸞の「他力」の思想が貫徹することになります。
(中略)
ところが、もとの文そのものでは、到底こう解釈することはできません。
「至心廻向」の主語はあくまで「諸有衆生」としか考えられません。
親鸞の解釈はあまりに強引です。
このような解釈が可能になったのは、訓読によって、漢文が漢文としての
文脈を解体され、日本語の文脈のなかで自由に解釈されるようになったから
だと思われます。
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きゃ~~~。浄土真宗の方から怖いコメントが来そう。
「他力」を説く親鸞さまの根本が、この十八願ですもの。
でもこれは、末木本の引用ですからね。
私は、漢文の読み方について、全然詳しくないですからね。
そして、このような仏典の”自由解釈”はエスカレートし、
中世の「本覚思想」の文献を見ると、恣意的にこじつけた、
としか言えない訓読も見られるそうです。
独自訓読の有名な例として、道元も挙げられています。
『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」(一切衆生に悉く=ことごとく=仏性あり)を、
道元は「悉有は仏性なり」(一切存在は仏性にほかならない)と読んでいると。
「仏になる可能性が内在している」のと、「そのまま仏である」では、
ぜんぜん意味が違うじゃん!とも思うのですが、
末木先生によると、道元は一種の確信犯であったようです。
道元は「きわめて言語表現に敏感」で、
「言語の意味表示機能そのものを崩壊寸前までに追い詰めている」と、
末木先生は指摘しています。
漢訳仏典の訓読問題。
日本仏教の独自性に、こういう観点があるとは、新鮮でした。
そういえば、岩波文庫の「無量寿経」のまえがきに、
「現代語訳するといろいろ問題がおこる。中国や日本の
伝統的解釈と異なった解釈を述べねばならぬことが起こる」
と、中村元先生が書いています。
仏典解釈も、いろいろと気苦労の多いことであります。
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