釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -146ページ目

”多世界解釈”に全く歯が立たず(科学と仏教の接点5)

東京禅センター主催の連続講座「科学と仏教の接点」第5弾に行ってきました
(10月30日、東大駒場キャンパス)。


仏教学者の佐々木閑先生(花園大学教授)と、いろんな分野の科学者が
対話するシリーズで、

1-2回は認知脳科学の藤田一郎教授、
3-4回はカオス理論の合原一幸教授がお話してくれました。


4回目までは、わからないなりに、一瞬わかった気になったのですが、
今回は・・・・まーったくわかりませんでした!


今回のテーマは「宇宙の起源、生命の起源、そしてヒトの起源 パート1」で
みっちり3時間半。
うち2時間は、湯川哲之総研大学名誉教授の「宇宙の起源」の話だったのですが、
これで私の頭は完全にオーバーヒート。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  湯川先生。


湯川先生いわく「すべての可能な宇宙は等しく起こりうる」。


”多世界解釈”なんて呼び方もあるそうですが、
ありとあらゆる宇宙があって、私の「あったかもしれない現在」が
いろんな別の宇宙に存在する・・・みたいなお話なのですけどね。


量子力学ワールドの宇宙論なのですが、
教授はそれを「量子力学」という言葉も数式も使わずに、
単なる思考実験ではなくて観測データもちりばめながら
解説してくださったのですが、
途中から完全に脳内でハトがポッポッポッと行進するばかりでした。


すべては偶然から始まった―ー宇宙はたまたまできちゃった
そうであります。

宇宙の始まりはあり、宇宙は有限(端はないが有限の3次元球体)で、

物質は「色つきの空間」だそうです・・・・・??????


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  こんな図もあったけれど、何のことやら。
                          (宇宙マイクロ波背景放射の温度ゆらぎ)


次回は、これと仏教の宇宙論とを絡めたお話になるそうですが、
「仏教の三千世界と似てるよね~」などという安直なオチになるわけもなく、
とりあえず次回を楽しみにするしかありません。
来年春ぐらいだそうです。


※湯川哲之(ゆかわ てつゆき)総研大名誉教授
1944年、和歌山県生まれ。1967年、京都大学理学部物理学科卒 1972
年、Rutgers大学大学院終了 Ph.D.米国M.I.T.理論物理学 センター ,フランス
Sacley原子核研究所を経て,昭和50年、デンマークNiels Bohr研究所助手。1976
年、高エネルギー物理学研究所 助教授。1995年,総研大葉山高等研究センター
教授研究テーマ:宇宙や生命などの「存在の起源の研究」



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お釈迦さまはハンサムだった・・・か(『阿含経典』種徳経ほか)

ほそぼそと読み続けている初期仏典『現代語訳 阿含経典 長阿含経』

(平河出版社)の全6巻のうち、ようやく5巻に入りました。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

◆『梵動経』(長阿含・第21経)


 お釈迦さま時代に生まれた、さまざまな他の新思想、いわゆる「外道」
 についての分析。彼らはいろいろ言っているが、要は62種類に分類され
 (外道の六十二見)、それらは間違っていますよ、というお経。
 外道については、同じ本に有名な「沙門果経」が入っているので、
 あとにゆずるとして・・・・でもこの当時のインドは本当にすごい。


 その六十二見は、「自我と世界を永遠と見るかどうか
 「死後に想念があるかどうか」といった観点で分類されているのですが、
 こんな形而上的なことを考えた人たちがたくさんいたというのは、
 まさに新思想の大爆発期です。
 (日本では縄文時代から弥生時代に以降するかどうかというBC500年頃
  のことですからねえ)。恐るべし古代インド。

   
◆『種徳経』(第22経)『究羅壇頭(くらだんず)経』(第23経)


バラモンの種徳や究羅壇頭が、お釈迦さまの対話の相手となり、
いかにお釈迦さまがすばらしいかが列挙されます。
その美点とは、


生まれが正しく他人に非難されない
・容貌が端正で、クシャトリャ階級の出身である
・戒を備え、智慧が完成している
・おだやかで上品なことばを巧みに使っている
・欲望、憂い、恐怖を滅しており、にこやかで、
 人の美点をほめ、業報を説き、外道を非難しない
・弟子から王から梵天、鬼神にいたるまで いろんな人に尊敬されている 
etc


ほぼ完全人格です!
でも面白いのは、2つのお経ともに美点の2番目くらいに、
「容貌が端正」と書いてあること。
どうやら、お釈迦さまはハンサムであったようです。
というか、当時は優れた人格の条件としてハンサムかどうかが重要だったようです。


(というと、現代の価値観に照らして「造形的なハンサムではなく
内面の美しさがにじみ出た」云々という反論が出そうですね。
でも、なんでも現代の尺度を当てはめるのは過去への冒涜だと私は思っていて、

たぶん当時は本当に「造形的に端正」なことが理想人格の条件であったのではと

思います。あくまで仏教思想とは別の、一般通念として。)


あの時代のインドは、どんなのがハンサムだったんでしょうか?
お釈迦さまを含め、支配階級はアーリア人だから、
ヨーロッパふう白人顔に、原住ドラヴィダ系のカラードが
多少まじったようなかんじか・・・?



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  
ガンダーラの初期釈迦像はアーリア風の美男


映画『リトル・ブッダ』(ベルトリッチ監督)で、
お釈迦さま役はレバノン系カナダ人のキアヌ・リーブスだったのは
それなりに筋が通っていたのかも。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  
キアヌのお釈迦さま

こんなにハンサムだったら、ますますお釈迦さまに惚れてしまうな。

お叱りのコメントには、あらかじめ謝っときます。



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今日のご飯にふさわしい行いをしたか

昨日のブログ(スマナサーラ長老VS斎藤環さんトークショー)に

書き忘れたのですが、

スマナサーラ長老の言葉で印象に残った言葉がありました。


サンガのお坊さんは、托鉢して信者さんから食事をもらうわけですが、

食べるときにこう自問するそうです。

この食事を食べる値することを、今日なにか行ったか?」と。


これは、厳しい修行ですよね。

初期の仏教は「労働禁止」なので、一見グダグダしているようですが、

「行いにおいて、自分は食べる資格があるか」を問う、というのです。

(実際にグダグダしているお坊さんがいるかどうかは別として)


外に出て道路を掃いた」とか、「ちょっと誰かの助けをした」とか

ささいなことでいいから、これを問うてみよ、と長老はおっしゃいます。

これって、「働かざるもの食うべからず」よりも、

ずっと広い知見ではないでしょうか。


私もふくめて、いちおう仕事をしていても、

「この食事に値することを何もしなかった」という日はあったりします。

ほとんど世界を悪くすることに貢献しただけだよ、

という仕事の1日だってあるんですもの。


労働していても、していなくても、

日々このことを自問してみたいと思いました。



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