ベトナム飢饉1945 | nezumiippiki

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アジア再発見Blog

コロナ禍後、ベトナムへ旅行に行かれるツーリストは順調に回復していると聞く。

航空運賃は他の東南アジアに比べ安い。

ベトナムの物価も他と比較してまだ安い。

悲しいかな、30数年サラリーの上がっていない一般日本人としては、どうしてもこの傾向で旅行先を探すことになっている。

しかしベトナムは、理由は如何あれ行くべき東南アジアの旅行先としては筆頭に上がると思う。

 

そしてベトナムへ行った際は、日本との過去の歴史も思い出してもらいたいと思う。

今回は、その一つを紹介する。

持たざる国の戦争政策により、100万人のベトナム人が餓死したという話だ。

 

筆者、日本とベトナムとの関係でこれに触れないわけにはいかないと考えながら、随分と時間が経ってしまっていた。

そして、2023年12月にハノイの国立歴史博物館で一枚の写真に出会ってからも既に9か月。

79回目の終戦記念日も過ぎて、さすがこれはマズイと思う。

 

 

英文の解説は以下の通り。

In the years 1944-1945, the world war entered a fierce phase. In order to serve the war, the French colonialists and Japanese fascists carried out a cruel policy of exploitation and plunder, forcing the Vietnamese people to replace rice by fiber and oil-bearing plants such as jute, hemp, cotton, Ricinus for raw materials, using food as fuel. As a result, in 1945, more than 2 million people died in a historic famine in Viet Nam.

Faced with that situation, Party proposed the slogan:” Destroy the granary to solve the famine” and launched the nationals salvation movement against the Japanese fascists. Responding to the call of the Viet Minh Front, the nationwide people rebelled to destroy, Japanese Granaries for food aid. 

The movement “Destroy the granary to solve the famine” quickly solved the famine temporarily. The people’s mass force fully believed in the leadership of the Viet Minh Front, and prepared for the General uprising to seize power.

 

これはクアンチ省から北部の1944年秋から45年前半の間に大飢饉が発生し、200万人と言われる人々が大勢餓死した事件の説明だ。

この事件、これまでの長年のフランス植民地政府と40年以降の日本軍のベトナム進駐による2重の収奪、44年のベトナム北部での干ばつや収穫期の洪水などが発生し、そして日本軍と連合軍との戦争のとばっちりを受けるという複合的な原因が重なり、大勢の北部ベトナムに住む人々が餓死に見舞われた事件。

が、より正確に論理的に且つ具体的に見ていくと、日本軍と日本政府のアジア占領政策によりより重い責任があるのは明らかである。

 

後のベトナム独立戦争に、一部の日本軍兵がベトナムに残留し、積極的にベトミン軍に協力したからといっても、日本軍政の失敗が免罪されるわけではない。

参照:

 

 

ところが、現在のベトナムはこの大飢饉問題をあまり持ち出さない。恐らく日本政府に対しての忖度がはたらいているからなのかとも考えられるが、ベトナムとの真摯な関係を考えるならば、事の真実と本質を正確に把握しておきたいと思う。これは、自虐史観などと揶揄するようなレベルの話でないことは、ベトナム好きな方なら理解していただけると思う。

 

まず、ベトナムで何が起きたのかを知ろう。

 

フランス植民地政府:北部は定期的に自然災害に見舞われる。彼らは勿論ベトナムからの富の収奪を目的としているが、価値を生み出す労働力が飢餓で失うことがあっては元も子もないので、北部で不十分とはいえそれなりの対策は取っている。灌漑工事に耕作地拡大、食糧備蓄、投機防止のための価格調整、等々・・・。

しかし、30年代以降は食用作物(コメ・トウモロコシ・イモなど)より工業用作物(綿・ジュート)の栽培政策を進める。40年代以降、世界大戦の開始から米の備蓄を、特に大戦末期に農民から米を強制的に徴収する。

植民地では通常強制栽培がおこなわれる

 

日本政府と日本軍の仏印進駐

日本軍は1940年9月23日北部仏印(ベトナム)へ進駐、と一般に言われるが実は天皇の命にも反し、軍強硬派が軍事侵攻を強行し仏軍と戦闘を交わしている。

1941年7月28日ベトナム南部に進駐し、カンボジア、ラオスにも軍を展開させる。

そして、米英との開戦を前提に11月20 日 大本営は南方占領地行政実施要領を布告する。

 

南方占領地行政実施要領

南方占領地行政実施要領 第一方針 占領地域ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス 占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ中央ニ於テ別ニ之ヲ定ムルモノトス 占領地域ニ対スル帝国施策ノ進捗ニ伴ヒ軍政運営機関ハ逐次之ヲ政府ノ設置スヘキ新機構ニ統合調整又ハ移営スルモノトス 第二 要領 前記方針第一項ノ施策要領左ノ如シ 一、軍政実施ニ当リテハ協力残存統治機構ヲ利用スルモノトシ従来ノ組織及民族的慣行ヲ尊重ス 二、作戦ニ支障ナキ限リ占領軍ハ重要国防資源ノ獲得及開発ヲ促進スヘキ措置ヲ講スルモノトス 占領地ニ於テ開発又ハ取得シタル重要国防資源ハ之ヲ中央ノ物動計画ニ織リ込ムモノトシ作戦軍ノ現地自活ニ必要ナルモノハ右配分計画ニ基キ之ヲ現地ニ充当スルヲ原則トス

続けて、「南方占領地行政実施要領」が続くがここでは省略。

 

要は、欧米植民者を追放した後の占領地の治安回復・国防資源の急速獲得・作戦軍現地自活の三大原則と現地民重圧はやむなし、とする占領政策の基本原則を示したものである。

悲しいかな持たざる国の戦争政策とはこれなのだ。

(大東亜戦争を欧米帝国主義からアジアを解放した戦争と美化する人もいるが、日本の戦争指導者とはこのレベルで、崇高な理想なんか持っていたとはとても思えない。アジアの植民地が後に独立できたのは、結果論である。筆者のように、独立戦争に参加したベトナムやインドネシア残留日本兵を英雄と見る人もいるが、それは次元の違う話である。)

 

日本が米英との戦争に突入する決定的な原因はこの仏印進駐といわれている。

ベンタインマーケット前を更新する銀輪部隊、アジア歴史資料センター

 

この仏印進駐によってベトナムは日本軍の南進するための前線基地となり、日本へ軍需物資を送り出す中継基地となったのである。

その日本軍がベトナムで行ったのが、米やトウモロコシ・イモなどの耕作地をジュートや綿など軍需物資になりえる植物への転作を強制(コメの収穫前に稲を刈り取り枯らす)し、食物耕作地が減少する。

現地自活が命題の日本軍は農民から米を収奪し、大戦末期には長期戦をにらみコメの備蓄に奔走する。

 

1944年

食物作物が減っているところに北部ベトナムに水害・冷害が発生し、コメの生産が20%減少。そして、フランスと日本軍のコメの強制徴発があり農家・農村には食料が無くなり、1945年には完全な飢饉となる。

しかし、ベトナム南部ではコメはまだ潤沢にあり、余ったコメ・籾を燃料用アルコールにし、北から来なくなった石炭の代わりに発電用燃料として利用している。

 

アメリカ&連合軍:

以前より、北部ベトナムのコメ生産量は不足しており、フランス植民地政府は南の余ったコメを北部に移送していた。

ところが戦争がはじまり、日本軍が劣勢になっていくと同時に連合軍の反撃が北部への物資の輸送を不可能にした。

まず、米空軍は堤防・灌漑施設を空爆で破壊、洪水を引き起こす。(この空爆を調べていくと、ベトナム人虐殺と思えるような無差別爆撃を行っていて、なるほど今も昔もアジア人蔑視なんだと納得させられる。)

南のコメの移送を鉄道の破壊で不可能にする。南北ベトナムを分けているのはハイヴァン峠で、その手前がダナン。そのダナン周辺の鉄道・鉄橋を空爆、または特殊部隊の上陸(米海軍は潜水艦でオーストラリア軍の特殊部隊を送り込む)で破壊。

 

ハイヴァン峠を越える陸路では輸送できる量が限られる

 

海路での輸送も米潜水艦の攻撃で日本軍の鉄鋼船は尽く撃沈され、機帆船で対応しようとするもそれも尽く撃沈、北への食糧移送はすべて失敗に終わる。

 

機帆船とは、沿岸漁船サイズの木造船に帆を加えた船。

鉄鋼船はもう無いのでエンジン付きの木造船を作るが、油は貴重。そこで急がない時以外は風の力で、と帆を張った船を外地でもベトナムでも、日本本土でも復活させた。

その当時の写真を探したが見つからない。ある資料では、終戦を迎えられた機帆船は無い、とあった。まさに、持たざる国が戦争を始めてしまった末路がこれ。

 

 

飢餓による死亡者数:

1945年9月のベトナム民主共和国独立宣言では、その死亡者数を200万人としているが、これは多分にプロパガンダ用の発表数字だろうと筆者は考える。

正確な数字は、今も昔も誰も分からない。

当時の惨上を直接見ている日本側の人たちは、20万から40万人台とまちまちの数字を挙げているが、いずれも具体的な調査ではなくあくまでも自分が見た範囲からの推測数となっている。

 

死体山積み等の写真もあるが、ここでは飢餓に苦しむ人の写真で紹介。

 

世界各地の最近の研究者たちの調査ではじき出している数字は、100万人。

デイヴィッド・マール、カリフォルニア大学は5か月間で人口の10%が死亡と推定したうえでの数字。勿論、200万と推定しているアカデミズム(コロンビア大学)もあれば、100万から200万と推定している研究機関もある。

しかし、今となってはこの数字はあまり意味を持たないと筆者は考えている。

問題は、責任のない植民地政策や唯我独尊の戦争政策が罪のない大勢の人々を殺しているということだ。

 

日本政府による恣意的・政治的判断による戦後賠償については後日紹介する。