ウィリアム・ロウズ・カリーの名を聞いてピーンと来る人は今ではごく少数だろう。
しかし、ソンミ村のカリーと聞けばすぐに思い出す人は、60代後半からの人なら大勢いるに違いない。
7月29日のワシントンポストのニュースで、カリーが4月28日に80歳で亡くなっていたことが報じられた。
小生、カリー死亡のニュースを聞いて、以前から一度は行かねばと考えていたソンミ村に慌てて行ってきた。
ソンミ村は、ベトナムはベトナム中部のクアンガイ省の北部海側の農村。
日本ではソンミ(Son My)村虐殺事件として知られているが、英語ではミライ(My Lai)虐殺事件と呼ばれている。
今回ベトナムの人にどちらの名称でこの虐殺事件をよぶのかと聞いたところ、「ミライ」の方を使うとの回答を得た。
実際、ソンミ村と言った時「どこそこ?」(発音の悪さもあったようだが)のような顔をされた。
しかし、ソンミで間違っているわけではなくミライはソンミ村の中のエリア分けの名称で、虐殺は主にこのミライ区を中心に、一部その隣接区でも行われている。
当時の米軍の地図
事件が発生したのは1968年3月16日。
現在の英語(米国発)での情報ではいまだに正確な犠牲者数を出したがらないようにみえる。Wikipediaでは347 から 504と表し、ブリタニカ国際大百科事典では109人としているのには恐れ入った。
正確な虐殺人数は今も昔も504名である。
アメリカから見て幾ら後進国でも村役場くらいはあるのだ。
殺された人々の年齢・性別は全て特定されている。
殺されたのは全て民間人、農民で老人、女性(妊婦を含む)、子供、赤ちゃんで敵戦闘員に相当する年齢の男性は0人。若い女性達はレイプされた後に殺されている。
あまりに有名な写真だが、この状況説明はほとんどされていない。
子供を抱いた女性はレイプ後の乱れた服装を直しているところ。
老婆は後ろの娘を兵士から守ろうとして兵士にとびかかり殴り返されたところ。
そしてこの全員、カメラマンがシャッターを押し振り向いた数秒後に銃殺されている。
このカメラマン、再び振り返り彼らを見ることが出来なかった、と述べている。
虐殺は一方的で、実際、米兵に対する攻撃や射撃は皆無。
にもかかわらず、4時間に及び人も家畜も虐殺し家屋は燃やされている。
実行したのはカリー中尉率いる100名の米兵。
唯一の負傷者は、間違って自らの足を撃ったと言っていたが、実は彼はその虐殺行為に参加しなくても済むために行った自傷行為。
そして、その事件は勇気ある従軍カメラマンと、この虐殺行為を目撃し命を懸けて最終的に止めに入ったヘリのパイロットと搭乗員の3名、この事件を知った他部隊の兵士がこの事件を訴えるのだが、軍や政府が反応を示すのは、シーモアハージュが1年8か月後に雑誌「ザ・ニューヨーカー」にこの虐殺事件を書き、アメリカ社会と世界が驚愕してからの事だ。
その間、軍は隠蔽し続け米政府は無視の態度を取り続ける。
軍が隠蔽するにあたっては従軍牧師複数人も加担しているので、彼らの「神」はベトナム人を人として見ていないということになる。
ソンミ村虐殺をご存知ない方は、とりあえず概略を知るためにWikipediaでもご覧ください。
出来れば、ネットからだけでももう少し情報を取ってもらいたいと思う。
英語サイトではより詳しい情報があり、虐殺の詳細記事もあるし、裁判で最終的にカリーのみが有罪になり、それ以外の実行犯、直接の命令者、その上級司令官たちは無罪となる記事も出てくる。しかしそのカリーも、世論を考えたニクソンによって事実上恩赦で自由の身となっていくという、アメリカの身勝手さが分かる記事も出てくる。実際、ギャラップの世論調査では8割のアメリカ人はカリーの起訴に反対だったとか。アメリカ人は恐ろしい。
これは今も起きているガザのジェノサイドに共通する。4万人以上の死者とがれきの下の行方不明者1万人以上の多くは女性と子供達だが、アメリカはそれを気にすることも無くイスラエルに武器を提供し続けている。
この事件、世界を震撼させベトナム反戦運動を勢いづけることになる。
当然、ベトナムものの映画として度々計画されたようだがいまだ実現していない。
それも「プラトーン」のオリバー・ストーン監督さえギブアップしているのだ。
というのも、この事件を隠蔽したい人たちは相変わらずいるらしく、実際、この事件を表に出した、この事件を直接的に止めさせたヘリコプターのパイロット、ヒュートンプソンとその乗組員はベトナム勤務期間中も、帰国後も、まして裁判が終わって数10年経てからも、色々な脅迫や殺害予告、動物の死体を玄関先に投げ込まれるなどのあらゆる嫌がらせを受け続け、メンタルヘルスも大分やられていたようだ。
そして、2021年の報道で知ったのだが、このトンプソンと彼の仲間を主人公に今また映画化の話が上がっている。
アレックス・ギブニ―監督がビゴ・モーテンセンとケイレブ・ランドリー・ジョーンズを起用してスリラー映画として制作するというのだが、それからすでに3年近く経過しているのに、その後の情報が全く入ってこない。やはり、ソンミの事件を未だに知られたくない人たちが何らかの阻止の行動でもしているのでしょうか。
ベトナム戦争での大量虐殺事件描く新作、ビゴ・モーテンセン&ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが主演 : 映画ニュース - 映画.com (eiga.com)
事件の起きたソンミ村はクアンガイ省の省都、クアンガイから北にTra Khuc川を渡ってすぐにQL24Bの道を右に折れそのまま北東に20分ほど走るとソンミ村の中に入っていく。
フエから南下してくる場合は、市内に入る前のTra Khuc川の橋を渡らず、左に折れQL24Bの道を進む。
1968年のベトナムの人口は4千120万人で、今年は保々ほぼ1億人になるので、この56年で倍以上の人口増加である。そのため、現在のソンミ村はQL24Bの道に沿って場所により町化していて、56年前の風景は農民の家屋が点在する程度だったと想像するしかない。
ソンミメモリアル
コミュニティーセンターとなっているがこれは資料館。
左手広い範囲に当時の状況を再現している
その状況でソンミを訪れるのはソンミ記念館があるからだ。
広島や長崎に原爆記念館があるのと同じで、近くまで来てこの記念館を訪れない理由はないだろう。
資料館には全体像を見せる写真や資料や俯瞰して見せるジオラマなどが展示されている。
圧巻は504名すべての人の性別や年齢が彫られた石板である。
外には慰霊碑があり、その奥には参拝所がある。
ここにも504名全員の名と年齢性別を記した大きな1枚盤が置かれている。
外には、消失されたそれぞれの住居のレプリカが配置され、その前にはその家に住んでいた家族の名前と年齢が記され石板が置かれている。
この記念館の場所は、上に載せた当時の米軍の地図、ミライ4と5の集落の間に置かれメインの通りに正面入り口になる。
504名の名前、性別、年齢が記されている。
涙なしで慰霊することは難しい。
この家の殺された人の名前と年齢が記されている。
9人の犠牲者の石棺が並ぶ。
ホイアンに行く日本人は多い。
その場合、ホイアンの南のビーチに泊まるとソンミ村までは行きやすい。
折角ホイアンまで行ったなら、ソンミ村まで足を延ばしてもらいたい。
筆者、ホイアンから20分ほど南に下った最近できたブリス・ホイアンビーチリゾート&ウエルネスに泊まり、ホテルのスタッフに車を手配してもらいソンミ村に行ってきた。
このブリスからソンミ村へはゆっくり走っても2時間はかからない。
このホテル、オープンして2年とかだが欧米のお客さんがメインで、ホイアンを散策するにもビーチでリゾートするにも良いホテル。
このホテルについては後日紹介します。