ベトナム独立戦争に参加した日本人たち クアンガイ編 | nezumiippiki

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日本人観光客の多いベトナム中部のダナンの南はホイアンから、南へ約2時間のドライブでクアンガイ省の省都、クアンガイに着く。

筆者が泊ったブリス・ホイアンからは2時間はかからない。

 

クアンガイに来る理由には2つある。

ベトナム現代史における最悪の悲劇の一つがここにある。

ベトナム戦争時における米軍史上最悪といわれる「ソンミ村虐殺事件」の現場は、省都クアンガイから30分もかからない。

ソンミ村虐殺については既に前回のブログに書いている。

ホイアンからの日帰りーソンミ村虐殺現場を訪れる | nezumiippiki (ameblo.jp)

 

そしてもう一つ。

これはベトナム現代史と日本人にとってとても重要な場所になる。

省都クアンガイの中心に位置するクアンガイ陸軍中学(士官学校)跡である。

近代戦の知識と技術をベトミン軍に教えるためのベトナム初の士官学校は、脱走日本軍将校・下士官たちが教官を務め、後にここの卒業生たちがベトナム戦争において中核的将官団を形成する。

例えば、1975年南ベトナム大統領官邸に突入する戦車部隊の総指揮官レ・スアン・キエンやサイゴン政権最後の大統領と最初に会見した歩兵部隊指揮官ホー・デー中将など・・・

 

 

筆者、既にhttps://ameblo.jp/nezumiippiki/entry-12679611346.html「続 ベトナム独立戦争に参加した日本人たち 人物編」でクアンガイのことと、そこに集うベトミン軍に参加し重要な働きをする日本人たちに触れているので参照してもらいたい。

ベトナム現代史に興味のない人には意味のないクアンガイかもしれないが、しかし、ここが日本と深く関わり、2017年の天皇皇后訪越の一つの理由に繋がっているとなれば、少しは興味を持ってもらいたいと思う。

 

クアンガイはベトナム中部の反仏独立運動の拠点、ベトミン勢力の強いところとしてグエン・ソン将軍がおり、ベトミン軍に協力する日本人たちも必然的に集まる場所になっていた。

「当時、クアンガイには、壮兵団参謀石井卓雄少佐、第38軍独立混成旅団参謀井川省少佐、フエ憲兵隊斎藤定少佐や私たちを含めて旧日本軍兵士が30名ほどいた。」

因みに、ホー・チ・ミンの側近で1955年から1976年までベトナム民主共和国、南北ベトナム統一後は1987年まで、合計32年間にわたり首相を務めたファン・バン・ドンはクアンガイ省出身で、当時のクアンガイで日本人たちとも密接な交渉を持っていた。

 

クアンガイ陸軍中学はグエン・ソン将軍を校長とし、400名の学生(18歳から25歳の中学卒業男子)を100名ずつ4つの大隊に分け、各大隊に1名の教官(日本軍の将校)に1名の副教官(下士官)計8名 が配置された。

そして1名の医務官を含めすべて日本軍から離脱した士官・下士官たちである。

当時の中学は日本の高校に相当し、インドシナ全土に数校のみ。つまり、この400名はベトナムのエリートたちである。

ベトナム初の陸軍士官学校は1946年6月1日に開校。

同時期、北部でも2校の士官学校が開校している。

戦況の拡大によりクアンガイでは1年間の予定を6カ月に短縮し、猛烈な勢いで講義・教練が行われた。

丁度夏の時期、ベトナムの夏は40度にもなる暑さのなかベトナム的な時間は無かったようだ。後に「クアンガイ陸軍士官学校」を著す加茂徳治は、自らが過労のため演習からの帰路吐血し市立病院に入院するほどであった。ついでながら、この病院にも日本人医師(離脱軍医?)がおり、彼のお陰で加茂は2週間後に快癒している。

 

文中青字は本書より引用

 

泥まみれで訓練されるこの厳しさの中、グエン・ソンから教官たちへの要求は一つだけ。「生徒を殴らないこと。」しかし、そもそもベトナム独立に共感してベトミン軍に参加するインテリ軍人。暴力を振るうような教官達ではなかった。

46年11月に6か月で卒業したベトナム初の士官達4大隊はそれぞれの認知に赴くのだが、その後彼らは最前線で戦い、後にアメリカをインドシナから追い出すことになる。「民族の存亡をかけた抗仏、杭米二大戦争を戦い、勝利した歴戦の勇士、戦士たち」を教育し育てたのは日本人たちなのだ。

 

2022年8月17日、在ダナン日本国総領事館の矢部義則総領事はクアンガイ陸軍中学跡を訪れています。胸像はグエン・ソン将軍のはずです。

 

ブリス・ホイアンのスタッフが手配してくれた英語のできるドライバーは、筆者が行きたいところを伝えると、「知っている、任せておけ!」と自信たっぷりに言っていたのだが、実は彼は学校跡を知らなく、どこを調べても住所は出てこず、筆者の行動様式は「行けば分かる」なのでクアンガイに近ずくにつれ彼とひと悶着発生。

 

クアンガイ駅の前の道を1Km進んだところが陸軍中学のあったところ。

 

いずれにせよ、加茂徳治の説明のとおりにそれは駅からメインの通りを進み、かつては砂糖黍畑の中にあった学校は、今では市街地の中にあり、大きな軍の施設の中に囲まれている。

そこまで行って分かったのだが、肝腎の学校本部跡に建てられている記念碑にはアクセスできないのだ。

筆者、ベトナム史にとって歴史的な記念碑なので、当然公園のようなオープンな場所にあるものと想定していたので驚いてしまった。

 

サインは出ているものの、先に進むと鉄の扉で行き止まりになってしまう。

折角そのために東京から来たのだからと、泣きを入れてもガードスタッフは「軍の許可を必要とする」の一点張り。当然だろうな!!!

大きな鉄の扉の向こうにあるのだろう、その記念碑を想いながら筆者は諦めるしかなかった。

銀行と軍の建物の間の行き止まりの中庭が記念碑のある場所。

 

 

ここで突然、杉田水脈のブログを取り上げる。

クアンガイ陸軍中学校跡を発見!と題するブログなのだが、彼女が見つけたとする場所はクアンガイ市の西北西の郊外の範囲を超える場所になる。筆者をクアンガイに連れて行ってくれたドライバーに彼女の写真を見せて、碑に書かれている文字をもとに場所を検索して貰ったので、間違いないと思う。

 

https://ameblo.jp/miosugita-blog/entry-12447105670.html

 

その学校がそのような場所にあったとする話は聞いたことが無いし、演習場としていたとする場所は川べりのそれほど離れていないところと聞いていたので、彼女の見つけたという場所は一体何なのでしょうか?

彼女が行ったところは写真の周りの風景を見ても、筆者が場所を特定するのに見たものは狭い範囲に360°建物に取り囲まれていたし、そもそも、在ダナン日本国総領事館の矢部義則総領事が訪問した時の記念碑とは全く違うものだ。クアンガイ陸軍中学校はクアンガイ駅から1050メートルのところで間違いない。

クアンガイに行き学校跡に行こうとする方は、杉田水脈の写真で探さないこと。