ベトナム独立戦争に参加した日本人たち | nezumiippiki

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アジア再発見Blog

 Nezumiippikiのブログで1-2位になるくらい読まれている記事は、意外にもディエンビエンフーを紹介したものだ。

https://ameblo.jp/nezumiippiki/entry-12396066779.html?frm=theme

 

ならば、インドシナ戦争の決戦場ディエンビエンフーに至るまでの日本人の関わりを紹介しよう。

この話、大変興味深い。

調べていくと第二次インドシナ戦争、すなわちベトナム戦争へと間接的に、場合によっては直接的につながり、日本としては太平洋戦争では米軍に負けたが、ベトナムで最終的に米軍を負かすことが出来た、ともいえる。(「大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した」、佐藤守、青林堂)

 

大東亜戦争終戦でインドシナの日本軍に起きたこと

ベトナムのガイド付き観光ツアーに参加すると、恐らく現代史としてのベトナム戦争を見聞することになると思うが、それはもっぱら1960年代始めからの米国との戦争になる。

日本人にとって、特に60-70歳台の人達の中にはベトナム戦争と聞くと自らの事のように反応する人もいる。 当時日本の世論がベトナム反戦運動で盛り上がり、それがアメリカ側の後方支援をしている日本政府に対して、70年安保闘争として街頭に出た人も多いからだ。これは一般的に第二次インドシナ戦争と呼ばれるベトナム戦争に対してで、直接的に日本人はこの戦場には関わっていない。ところが、第二次インドシナ戦争に対して第一次インドシナ戦争と呼ばれるインドシナ戦争、フランスからの独立を勝ち取った戦争において日本人は直接深く関わっている。 現在、我々はベトナムに観光として訪れても、ディエンビエンフー以外で第一次インドシナ戦争の記憶を見ることは出来ないが、今から70年以上前に日本人がベトナム独立戦争に参加していたことを思い出しながらベトナム観光を行ってほしいと思う。

一般的に日本軍の行った太平洋戦争または大東亜戦争はネガティブに捉えられることが多いが、欧米列強からアジアを解放するという視点からすると、一部を除き、大いに意義のあった戦争と言える。それは特に日本の敗戦後においてインドネシアとインドシナにおける戦いとして実践されている。

日本の敗戦により一旦は独立宣言をしたが、旧宗主国は再征服のため凶暴な軍を擁して戻ってくることでそれぞれが独立戦争を開始。日本軍の中から帰還拒否の兵たちがその独立戦争に参加し、戦場においても後方においても重要な役割を果たし、独立達成への大いなる協力をしている。しかし、そのベトナムでの具体的な戦いは、それも9年間にも続いたにもかかわらず、インドネシア独立戦争程には知られていない。

 

その話、仏領インドシナ(主にベトナム)にいた日本軍兵の一部が所属部隊から離脱し、日本への帰還をせず、ベトナム独立同盟(通称ベトミン)に参加、フランスがインドシナから撤退するまで共に戦った話は昔から伝えられてはいた。第三次インドシナ戦争(1978年のベトナム軍のカンボジア侵攻とそれに続くカンボジア内戦、ベトナムと中国との戦争をさす。)も収束し、ドイモイが開始されてからようやくその調査研究がされるようになり、徐々にベトミン軍に参加した彼らのことが具体的に判明してきた。しかし、その当事者や関係者は既に日越共に鬼籍に入っている人が殆どで今までに判明している以上のことは、おそらく将来においても分からずじまいに終わるのだろうと思う。

ここでは、分かっている範囲の一部、いかにして日本残留兵士はベトナム人と共にベトナム独立戦争を戦ったかを紹介していこう。

 

 

ベトミン軍参加以前の日本軍

この時期のベトナム情勢は実に複雑怪奇。

アジアの解放を謳っていた日本軍は1940年9月にベトナム北部、41年7月ベトナム南部に進駐。

 

ハノイに進駐

サイゴンに進駐、これにアメリカが激怒し日米開戦へとつながる

 

 

当時ベトナム人民はフランス植民地下の圧政に苦しみ、日本軍の進駐を「救国の神兵来る」と大いに喜んだようだが全くの期待外れ。

 

勿論、現地軍はベトナムの反仏独立組織に協力したいのだが、大本営・参謀本部はむしろフランス植民地軍支配を是認。

一旦はフランス軍に反乱を起こした反仏勢力は日本軍に梯子を外された形になり、フランス軍により粉砕され虐殺事件も起きている。

よって、当初は期待された日本軍だがその正体、やはりファシスト軍だ、となり、日本軍はベトナムにとって敵となってしまった。

これは、よく言われる大東亜戦争の本音と建て前そのものである。更に、45年には進駐日本軍の無策により北部で200万人(今となっては否定も肯定も必要のない数字)が餓死するという惨事も起こしている。これは大戦末期の複合的な要因が重なってはいるが、日本軍はフランス植民地政権からも抗議を受ける始末。

 

優柔不断の日本軍に対し反ファシズムで日本とフランスに対抗する反仏共産勢力(後のベトミン軍)にアメリカ軍が協力。

これぞまさに呉越同舟。

OSS隊員(後のCIA)達とにこやかに記念撮影。

中央白のスーツ姿がボーゲンザップ、左一人おいてホーチミン

 

戦争も末期、仏印進駐5年目にして日本軍はようやくフランス軍に対して攻勢(1945年3月

明号作戦)をかけ、短期日で制圧。バオダイにベトナム帝国独立を宣言させる。

 

フランス軍の武装解除を行った半年も経ずに日本軍が武装解除となる。

 

ところがその5か月後、日本軍が連合軍に無条件降伏してしまい、ベトナム自身の独立勢力はバオダイを追放し名実ともにベトナム民主共和国が誕生する。

これはベトナム全土で圧倒的な人気を持っていた政権だが、連合国のベトナム進出とフランス軍の再登場でベトナム民主共和国は認められず、国の指導者たちはジャングルへと撤退しベトミン軍を組織する。そのベトナムに同情的な日本軍の一部の佐官・下士官・兵達がベトミン軍に参加していく。

 

残留兵士は何名?

終戦時にインドシナに進駐、駐留していた日本軍の総数は約9万。

各種調査によるとおよそ一時最大800名がベトミン軍に参加。後に帰還が始まり帰投するものも出てきて、最終的に仏軍との本格的な戦闘突入後は600名がベトナム全土で戦っていると思われる。残留希望者は更に多かったようだが、望郷の念が勝っていたのと、残留する佐官・士官クラスの説得による。「ベトナム独立の戦いは職業軍人の仕事、一般招集兵は待っている家族のもとに帰るよう」説得されたという帰還兵の報告にもあるように、残留兵には士官、下士官クラス、古参兵が多い。

また、居留民の一部も残留し非軍事部門で、または民間の中で直接・間接にベトミンに協力している。こちらの数字は公式記録が皆無なため推測の域で50名内外(by 井川一久、東京財団)。民間人の活躍は後に述べる。

1954年のジュネーブ協定成立後から1961年にかけて4次に分けて日本に帰還している人数が150名。個別に帰国している人もいるようで、帰国者総計250名の数字もある。南部に一部が残留し、ベトナム戦争を経験し、カンボジア・中国との紛争激化の後1978年に一斉に帰国。残りの、恐らく半数以上は仏軍との戦闘でベトナムの土と化したと思われる。

 

 武器供与?

敗戦後連合軍がベトナムに進駐し日本軍を管理下に置くが、ベトミン軍に同情的な日本軍は各地で知らぬふりをしてベトミン軍に武器が渡るようにしている。

フエの陸軍第34独立混成旅団の参謀井川省少佐の場合、明号作戦で仏印軍から奪った武器数千点を保管してあった武器庫の施錠せずに警備兵を緊急事態ということで撤収させ、翌朝には武器庫が空になるという協力をまず行っている。 ニンビンでは、佐野譲陸軍軍曹が武器庫番をしていた時、ベトミン軍に仏印軍から接収したトラック数台分の武器弾薬を提供し、彼はそのままベトミン軍に合流している。似たようなことは各所で行われたと思われる。

 

ベトミン軍に参加

日本敗戦後ベトナムに連合軍として英軍がまず南部に進出し。ベトミン討伐に帰還待ちの日本軍を出動させるが、日本軍の指揮官も兵士たちも総じてベトナムに同情的で、事前にベトミン側に攻撃地点を漏らしたり、行動中に発見したベトミンの身を隠させたり、銃器の狙いをわざと外したりしてベトナム人殺傷を極力避けている。

其の同情にすがるように、ベトミンは各地で日本兵に対するオルグ活動をおこない、未完の大東亜戦争そのものの目的、アジア民族解放の大義でベトナム残留を決める兵たちが発生する。また、焼け野原の日本に戻っても仕様がないと諦めていたもの、戦犯の可能性から逃れようとしたもの等々が各所属部隊から脱走する形でベトミン軍に合流している。意識的にベトミン軍合流をした将兵以外の日本兵は、後に民族解放とベトナム独立に共感しベトミン軍の中で大いに活躍することになる。

 

フランス軍の脅威は脱走日本兵

ボーゲンザップ将軍がベトナム解放宣伝隊という名の武装集団を結成したのが1944年12月22日。そして最初の作戦がその2日後の24日。隊員数34名。武器は旧式小銃17挺、火縄銃14挺、拳銃2挺と自動小銃1挺というものだった(「ベトナム解放宣伝隊」、ボーゲンザップ著)。 

 

今に残るその時の出軍式の写真、フランス軍相手にしては相当みすぼらしい。

 

それからわずか2年後、1946年8月9日フランス極東派遣軍参謀部第二部作成の報告書には以下のように書かれている。

「日本人の技術面での支援が無ければ、ベトミン軍が現在のように組織的に行動することはできなかっただろうことは明らかである。日本人がベトナム人に譲渡したとしかその入手先を説明することが出来ない武器を暴徒が所有しているという否定できない証拠があるように、暴徒は作戦指導、戦術、戦闘指揮においても、まったくもって日本人の影響を受けていることは間違いない。」(インドシナ残留日本兵の研究、立川京一著) また、別の資料(ベトナム独立戦争参加日本人の研究、TKFD)によるとフランス側は残留日本兵の数を4,000人から1万人以上と推定していた、とある。

つまり、ベトミン軍が9年間近代兵器を整えたフランス軍と激烈な戦いを完遂できたのは、脱走日本軍兵士のお陰ということだ。

 

 

個々の日本兵の活躍は次回に続く。