続 ベトナム独立戦争に参加した日本人たち 人物編 | nezumiippiki

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アジア再発見Blog

本来は旅行記のブログだが、コロナ禍でどこにも行けず仕舞い。そこで、旅行プランをテーマを追いながら検討することにする。

 

次はベトナムの何処へ行こうかとベトナムの知られざる近現代史を調べていくと、日本人がそこに登場してくる。特に面白いのが大東亜戦争後のインドシナ戦争時代。

 

個々の日本兵の活躍を書こうと思いながら、コロナ禍でベトナムへ行くこともできず、ずるずると日が経ち、気が付くと1年も経過してしまっている。

思いのほか「インドシナ戦争で活躍した日本人」を読んでいただく方が多く、やはり続編を書かねばと気合を入れなおし書くことにする。

 

次は何処に行く

コロナが収束すれば是非行きたい場所がある。

ホーチミン市西北部のホクモン県アンフード村の水田に、村の守り神として大切にされている二つの大きな墓碑がある、という。1946年2月、仏軍の来襲に際し全く戦闘経験のない村のゲリラ集団を逃がすために、単独で白兵戦を試みて殺された日本兵2名の墓である。彼らの名前、出身地、旧所属部隊などは不明である。この情報は2005年の「ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越の在り方に関する研究」(井川久一)のもので、今の地図を見るとホクモン県アンフード村は既にホーチミン市の市街地化した中にある。はたしてその墓が簡単に見つかるものなのか疑問ではあるが。

ホクモン県にある1940年フランス軍によって903名のベトナム人が処刑された殉難碑。

 

日本軍離脱兵の動きを追っていて気が付くと、中部のクァンガイ省やビンディン省にも観光的に興味を引くものが多く、アクセスさえ良ければ将来的には有望な観光地になると思われる。

ここも、次回ベトナム訪問の際に行ってみようと思う。

 

ソンミ村発見!

日本兵の離脱が一番多かったと思われるエリアが中部ベトナムで、彼らが多く集まってきていたところがクゥアンガイ。 

クァンガイはベトナム初の士官学校が9名の日本人教官のみにより設立されたところ。

そのクァンガイ省を調べていて見つけたのがソンミ村。クァンガイ市の北東10kmほどのところにある村だ。若い人は聞いたことのない名前かもしれないが、ベトナム戦争のターニングポイントとなるきっかけとなった虐殺事件のあった場所。

当時、世界中を唖然とさせた虐殺事件である。

1968年3月16日カーリー中尉率いる部隊がソンミ村を襲撃。何の武器も持たない無抵抗の村民504名(女性182人内妊婦17人、子ども173人内生後5ヶ月以内56人、男性149内60歳以上60人)が虐殺された事件。生き残りは3名のみ。この事件、1969年12月雑誌「ザ・ニューヨーカー」がすっぱ抜くまで隠蔽されていた。現在ソンミ村には「ソンミ村虐殺事件記念館」が建てられている。この事件の顛末は、米国国内はもとより世界中から非難を浴びながらも、カーリー中尉のみが有罪終身刑となり、しかし3年で刑務所から出所している。ともに虐殺を実行した兵士、虐殺を命令した上官たちはみな不問に付されている。

ベトナム独立のために戦った日本人はこの事件をどう思っただろうか。

ソンミ村虐殺事件 - Wikipedia

 

ベトナムにも美しいビーチがあった!

クァンガイの下のビンディン省を訪れた人のコメントで、クイニョンのビーチが一番きれいとあった。調べると確かにそのようだ。

 

これまでにベトナムのビーチで感動するようなビーチに出会ったことがないが、ここなら間違いなさそうだ。とにかく人がいないもの良い!

 

チャンパ遺跡もある!

ダナンを都としていたチャンパ王国がベト族の南下で、都をビンディン省タイソン県に移したとある。なるほど、規模の大きなチャンパ遺跡が確かにある。

 

 

ベトナム残留日本兵調査

ベトナム独立戦争に深くかかわったにもかかわらず、彼らの事跡を伝える詳細な資料が無い。60-70年代に出版されたベトナム戦争(第一次インドシナ戦争)に関連した書籍の中に、ベトミン時代の情報として断片的に語られる程度であった。

彼らの帰還後に数人による数冊の著作物が発行されているが、現在筆者が知る限り手に入るのは加茂徳治の「クァンガイ陸軍士官学校」暁印書館のみ。

「ホーチミンと死線をこえて」中川武保、「勝利の日まで‐ベトナム解放戦記」安藝昇一、「回顧録‐ベトナム残留記」谷本喜久男、などは現在手に入らない状態。

インドネシアの独立戦争に参加したインドネシア残留日本兵の研究書は以前からあるが、インドシナに関しては、その手の研究書はまず皆無であった。

そこで、井川一久氏(大阪経済法科大学客員教授-2006年当時)の2004-5年の調査活動により、「ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越の在り方に関する研究」が東京財団研究報告書(以後、井川レポート)として発表され、今日ベトナム残留日本軍兵士達の事跡や、個々人の情報がある程度の範囲で具体的に知られるようになった。共同研究者として加藤則夫(NHK)と白石昌也(早稲田大学)の名前も挙げられている。これにより、その後に出版される著作物や報道メディアなどに参照され、インドシナ戦争のベトナム残留日本兵が具体的に登場するようになってきたのでは、と思われる。

 

また、ハノイで日本語教師を行っている小松みゆきさんによる残留日本兵の家族探しによって、それがTVドキュメンタリー番組になり、映画にも登場するなど徐々にベトナム残留日本軍兵士は一般にも知られるようになった。その結果、2017年上皇・上皇后が天皇在位中に訪越した際には、上皇の希望で残留日本兵の家族との面会が実現されている。

2020年出版 小松みゆき著

 

 

映画「私の父もそこにいた」の製作委員会代表の添野江実子の父親、綱河忠三郎は1954年の第一回目の集団帰国した71名のうちの一人だが、彼はベトナムでのことを家族には殆ど話さなかったという。これは他の多くのベトナム残留帰還兵もそうであったように、ベトナムでの経験を秘めたままに鬼籍入りしている。それがきっかけでこのドキュメンタリー映画は作られている。

 

ベトナムでの体験を語らなかった元ベトミン日本人兵

1954年11月30日にベトナムから71名が興安丸で集団帰国を果たしている。そして、

1954年12月6日の第20回国会衆議院において、海外同胞引き揚げ及び遺族・家族援護に関する調査特別委員会に参考人として、帰国早々の藤田勇氏と谷本喜久雄氏が呼ばれ帰国報告を行っている。

 

ベトナム帰還兵を乗せ舞鶴港に輸送した興安丸

 

その発言を議事録に沿って読むと、ベトナムにおける9年間の具体的な様子は一切触れられていない。むしろ避けているようだ。谷本喜久雄氏の発言は皆を代表するように、軍からの離脱の説明(言い訳)と帰国へのお礼、帰国後の生活への不安等を語っているのだが、具体的な話として「もっと詳しく申し上げますれば、まず食うものと着るものでありますから、自活の道を講ずる、あるいは魚をとり、あるいは田畑を耕し、あるいは医薬をつくり、あるいは紙とかいろいろな社会的な生産に当たって、この九か年、十か年を過ごして来た実情であったと私は考えます。」ベトミン軍に参加し、戦闘に参加し、下士官と戦闘員を育成し、医療体制を整え、地図製作を行い、財務システムを構築し独立戦争に勝利した、とは一言も発言していない。

 

藤田氏の場合は民間人として残留し軍事には一切かかわっていないが、ベトナム国家根幹にかかわる最重要人物。彼らの正体を知っている現在の我々からすると、上記二人の国会における証言は実にすっとぼけた滑稽な帰国報告に終始している。残留帰還兵は、基本的にベトナム民主共和国政府の軍人として反共側(当時の日本の立場)と戦ってきた人たち。ベトナムの敵となった祖国日本に帰って来た彼らは、ベトナムで行ってきた本当のことを語れない状態になっており、場合によっては祖国日本から敵視される存在になる恐れからか、以後沈黙を通し、自分たちのベトナムでの活動を殆ど語らなくなったのだろう。実際、公安警察に付け回された体験を語る帰還者もいる。

 

 

新ベトナム人となった日本兵

ベトナムでの残留日本兵の話が具体的に伝わらなかったもう一つの理由に、偽名とベトナム名がある。殆どの残留日本兵はいわば脱走兵でもある。脱走してしまった以上本名は出さず偽名で通し、階級も関係ない。過去はお互いに一切関係が無い。更に、ベトミン側は彼らを新ベトナム人としてあつかり、ベトナム名を与え日本人としての名前が無い。そのため戦場で斃れてしまうと、ホクモン県アンフード村の日本人のように、ベトナム名で墓石が彫られるので、本名も所属部隊・出身地も分からないということになる。つまり、生き延びて帰国した者のみの話が伝わっているだけ、ということになる。井川レポートの中にも明らかに日本人と思われる部隊指導者や軍医などが登場するが、彼らの名前はベトナム名でしか紹介されていない。

さらに、ベトナム側もこれまで公式に新ベトナム人の業績を公表してこなかったことが挙げられる。その理由は推測になるが、対外的に自分たちだけの力で独立戦争を完遂したと公表したかったのかもしれない。あるいは、当時の状況から反共勢力側となってしまった祖国に帰る彼らを守ろうとしていたのかもしれない。帰国前のベトナム側の様子から推測するにその可能性もあると思われる。

 

第3次インドシナ戦争が終了1989年し、ようやく復興へ向かい始めたころ90年代に入ってからベトミン軍参加日本人兵の話が出るようになってきた。実際、ボーゲンザップを始めとするベトナムの要人たちは、一様にベトミン時代の日本人の果たした役割に対して大きな評価を述べている。

 

ボーゲンザップ「彼らは未だ弱小だった我々の軍隊の指導と育成に大きな貢献をしてくれた。その功績は称えられるべきだ。」(NHKインタビュー 動き出した時計)

 

実は私的なことだが、1990年だったと思うが直接ボーゲンザップに会って話を聞ける仕事があったのだが、残念なことにその仕事だけは先輩に取られてしまったという残念な思い出がある。

 

「フランス植民地主義侵略者たちを打ち破るためのベトナム革命において、最初に武器を提供してくれたのは日本人でした。・・・ことわざに『飢えたときの一口のたべものは満腹したときの一包みに勝る』」グエン・テ・グエン人民軍陸軍大佐

 

1996年にはクァンガイ陸軍士官学校50周年の記念式典に、教官であった加茂、谷本、中原、猪狩の子息らが日本から参列している。その際に彼らに対する更なる勲章授与がハノイの陸軍ホテルで行われ、明確に日本人の功績を称えている。

 

2007年国家主席のグエン・ミン・チェットが来日の時、加茂徳治はパーティーに呼ばれ主席の抱擁を受けている。

 

 

調べていくと彼らのベトナムでの軌跡は実に壮絶の一語に尽きる。彼らの行動はベトナム各地に及び、ベトナム独立戦争にとっていかに重要な役割を果たしていたことが分かる。彼らの行動はハリウッド映画以上に緊迫感があり、ロマンもあり、大胆で感動的でもある。これらのレポート、残留日本人ベトミン兵全体の中の極少数の記録・証言(生き残って帰国し、口を開いてくれた人の話)ではあるが、その内容の濃さは半端ものではないため紹介し始めると際限が無く、ブログで紹介する量をはるかに越えてしまう。そこでごく少数の人物だけを簡単に紹介することにする。

まずは、彼らが活動した大まかなエリアの紹介をする。

 

南部

ベトナム南部、メコン・デルタ地帯では日本敗戦の直後より連合軍、そして数か月後にはフランス軍が戻ってきたために、ベトミンは満足な武器も準備もないまま英仏軍との戦闘が開始された。それら戦闘ではベトミン日本人兵が主要な働きをしていたようだ。ベトミン軍組織が未だ機能化される以前だったのか、日本人兵の生存者も少なく彼らの本名・出身部隊など不明なケースが多い。

グエン・ダイン・ソン(当時南部暫定抵抗行政委員会のメンバー)曰く、「我々は一時カンボジアに逃れたが、旧日本軍将校、兵士たちの力も借りてメコン・デルタで挽回し、1947年、ドンタップモイに新しく『南部抗戦委員会』を組織した。この時、レ・ズアンたちもいた。」(小倉貞男著―ベトナム戦争全史、岩波書店) 

レ・ズアンはホーチミン後の党書記長、ベトナム最高指導者。このように評価される日本人兵だが、個人名が紹介されるケースは少ない。早い段階での戦闘は日本人兵の死亡率が高かったと思われる。

 

中部

中部ベトナムでは日本軍人の離脱、ベトミン軍参加が一番多く組織的でもあったようだ。

その起点になっていたのがクァンガイ。

クァンガイはベトナム反仏勢力の中部地区の拠点でもあった。クァンガイには一時50~100名ほどの離脱日本兵がいたそうだ。

井川、石井、斎藤、中原、谷本、加茂、等などベトナム残留日本兵の主要人物たちはクァンガイを経由していることが多い。

ベトミン軍の拠点ということからも、1946年6月ベトナム初の士官学校が日本人教官8名によってクァンガイに開校している。

生徒400名は戦況の影響で第一期生のみで繰り上げ半年で卒業させているが、この教官たちは後の実戦でも、ベトバック中枢(北ベトナム山岳地帯)でも重要な働きをすることになる。

また、中部は南部のための作戦基地の機能も果たしている。

 

北部

抗仏戦争の主戦場は北部である。

1945年9月2日、ベトナム民主共和国(DRV)の独立宣言はハノイで行われている。

9月12日、英印軍が南部上陸。

10月5日フランス軍はサイゴン(ホーチミン市)上陸。

12月19日、ハノイ市内でベトミン軍と仏軍の戦闘が開始。2か月に及ぶ市街でのゲリラ戦の後、ベトミン軍に参加する日本人兵も農村地帯、奥地、そしてベトバックへと撤退していく。

以後、DRVとベトミン軍中枢はベトバックを根拠地とする。北部がDRVの根拠地になる以上、仏軍による大規模軍事作戦は主に北部で展開されることになる。

 

 

代表的なベトナム残留日本兵

元日本兵はベトナム全土で活躍しているが、抗仏戦争の主役はあくまでもベトナム人。

日本人は後方での活躍が一般的だが、戦闘部隊のなかでも活躍し、中には中隊・大隊でも指揮官として大活躍しているものもいる。ベトミン兵がまだ戦闘慣れしていない時期には、日本人兵単独による仏軍攻撃などの例もある。

井川レポートがこれまでで一番詳しくベトナム残留日本兵を調べ上げてくれている。

「動き出した時計」では、日本兵帰国後に残された妻子の様子が紹介されている。

その代表的な日本人兵の例を、他の資料とも合わせながら要約する。

 

井川省はベトミンに参加した一番有名な日本軍人で少佐。

井川レポートによると、陸士47期で唯一フランス語を必修外国語とする騎兵に属し、ロマンチストであったらしい。もしかすると左派思想の影響も受けていたのかもしれない。

1945年に井川は満州からフエに着任し、ベトミン組織と密かに相互不可侵の協定を結び、南部・北部と違い中部では46年の復員まで、日本軍人とベトナム人の間での紛争は皆無であったとか。

ミステリアスな逸話としては、フランスによってレユニオン島に幽閉されていた、後に中部ベトミン指導者になったグエン・バン・ゴックは米軍機で脱出し、パラシュートで北部に降下。その後、乞食を装い第34旅団司令部の営門に現れた。乞食を追い返そうとした衛兵を制し井川は彼を自室に招き入れて密談をした、とある。

46年2月ごろ、第34旅団を復員のためにハイフォンに向かう駅頭で見送った後、井川はベトミン軍と行動を共にする。

日本軍の歩兵操典をベトミン軍のために仏語訳し、対仏戦略・戦術や兵員訓練に関する指針を執筆する。ベトミン軍幹部に教育を施し、グエン・ソン将軍に戦略・戦術を進言。

1946年4月20日、部隊を率いてプレイクへの移動中に仏軍の待ち伏せ攻撃で戦死。

 

中原光信は井川の部下で井川より先に離脱しベトミン軍の中でゲリラ戦を指揮している。

その後、クァンガイ士官学校の教官も務める。

後に中川武保と共にベトバック根拠地の参謀本部で、ボーゲンザップ総司令官直属の軍事参議官に任命され、軍中枢の作戦会議に多大な影響を与えていると思われる。

 

加茂徳治「クァンガイ陸軍士官学校」を著し(2008)、ベトナム語の本の翻訳なども行っていたので、一般にも知られていた残留ベトナム日本兵。

ファンティエットで日本軍を離脱し、民兵組織を指導し進出してきた仏軍を撃退。その後クァンガイに移りベトナム初の士官学校で教官を務める。そして、北上し創設間もない人民軍総参謀部作戦局に勤務。主に軍事教育を担当。

離脱日本兵の多くは、当初は各地で民兵の訓練から始まり士官の育成まで、現在のベトナム軍の基礎を創っている。特に有名なのがクァンガイ陸軍中学。ベトナム初の士官学校である。

生徒は4大隊各100名、教官1助教官1計8名+医務官全員が日本人。その中の一人が加茂徳治。

この士官学校卒業生の大半が、後のベトナム戦争遂行の中核将校団を形成する。1964年米軍の直接参戦への戦況を作った連隊長、北ベトナム全土の防空責任者、バリ和平交渉の担当者、旧ベトナム大統領官邸一番乗りした戦車隊総指揮官、サイゴン政権最後の大統領と最初に会見した歩兵指揮官、などなど、日本人が育てたベトナム戦争の英雄たちだ。「大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した」と言われる所以だ。1975年4月30日はサイゴン陥落の日。

 

谷本喜久男はクァンガイ陸軍中学で教官を務めた中の一人で、先に紹介したベトナムからの集団帰国報告を国会で参考人として行っている。

彼は中野学校出身で小野田寛郎(フィリピンのルバング島で1974年発見される)と同期。

井川少佐の部下で、クァンガイ陸軍中学での教官就任前からベトミンを指導しながら仏軍と戦っている。その後北部へ移動し、中団参謀部勤務。仏軍最強の外人部隊も恐れをなした中団、とか。参謀幹部として訓練や作戦に参加。

オフィシャルにはディエンビエンフーの決戦に日本兵は参加したことにはなっていないが、ベトナム側は参謀幹部として関与したことを認めている。(「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯、吉村剛史)

 

石井卓雄は当時陸軍55師団参謀部の少佐で、最年少の少佐として知られていた人物。

師団司令部にベトナム独立戦争に参加する旨報告し、送別会まで開いてもらい離隊している。

メコン・デルタからクァンガイに移動しクァンガイ士官学校の後の、クァンガイ軍政学校で中級幹部向けの指導を行っている。また、フーイェン省トイホア陸軍中学の設立にもかかわっている。クァンガイ地方が戦場になり彼はベトミン軍307小団(大隊)の顧問となる。307小団は中部域で精強部隊として知られている。

実戦でも活躍し、南部で転戦中に戦死したらしいが詳細は不明。

独立戦争時の石井の部下が彼を顕彰する石碑をサイゴンに建立。後に香川県善通寺市の陸上自衛隊第2混成団(現在の第14旅団)本部の敷地内に移設されている。

 

橘信義は「ベトナム人の愛国心に応えるのが我々日本人の務めだ。共産党もへったくれもない」と、他の日本人教官たちと下士官向け学校で軍事訓練を行う。その後戦闘部隊に移り、顧問をへて大隊長になる。ニンビン省、ホアビン省、タイホアン省の非常に広い範囲を、時にはラオス側にも入り、移動と戦闘に明け暮れる日々であった。「この大隊の勇猛さと・・・彼の状況判断の的確さは、今も人民軍古参幹部の間で語り草になっている」(井川レポート) 実は彼も中野学校出身である。

彼の帰国後の様子やベトナムに残された家族との交信は、「動き出した時計」の巻末に資料として掲載されている。 それを読むと残してきた家族への思いや、帰国させられ?、思い通りにならない苛立ちなどが読み取れる。その彼も帰国後公安から付け狙われていた一人であった。

 

元山久三は高射機関砲分隊から離脱。当初はニンビン省で下士官養成学校の教官を行っていたが、後にベトバック連区作戦班勤務。地方諸部隊に地図の配布と作戦上のアドバイスをする役割、防空部隊に旧日本陸軍の対空戦闘方法を教えた。

これが後に、ベトナム戦争時の北爆米軍パイロットの多くをハノイヒルトンに送り込むことになる。

 

ベトナム戦争時のTVニュース報道を度々見てとても印象に残っていたのが、米空軍機にたいして地上から若い女性も含む民兵達が一斉に小銃を打ちまくっているシーン。当時筆者は、これは単なる腹いせの射撃、弾がもったいない、と疑問に思っていた。

 

ハノイヒルトンとは、捕虜となった米軍兵の捕虜収容所を指すアメリカ映画の題名。

正式名はホアロー刑務所で、ハノイ市内中心部にあり市内観光必見の場所。

フランス統治時代のベトナム人政治犯を収監する、世界でも最も極悪非道な刑務所の一つ。

この刑務所で多くの政治犯は男女の別なく命を落としている。

 

現在は資料館になっていて、当時のギロチンもそのままに置かれている。

 

藤本猛省は航空通信兵。北部ベトミン軍には電気通信の技術者は皆無のため、軍事通信部門の責任者としてきわめて重要な役割を果たす。 ベトバック連区司令部勤務。彼には羨まし体験がある。後に世界が注目した、パリ和平会議に南ベトナム解放戦線代表として参加していたグエン・ティ・ビン女史に、ベトバック根拠地で彼は彼女に握手を求められたという。ベトナム戦争終了後、彼女はベトナム副大統領となっている。

 

駒屋俊夫はベトナム留学中に現地召集となり、終戦後現地除隊。ベトナム語ができるので、離脱兵の通訳を頼まれ、ベトミンとの誤殺事件に巻き込まれ九死に一生を得る。その後ベトバック連区参謀部の作戦班勤務。ただ一人の軍事地図作成要員となり、度々作戦立案も行っている。仏軍機の機銃掃射を受け瀕死の重傷を負うも4か月後に復帰し、作戦班から情報班に移動。長期の大型作戦の前線にも出るなど軍中枢部で活躍している。

 

杉原剛

山岳地帯で民兵訓練や不発弾を集めて弾薬製造の仕事などに従事。ディエンビエンフー決戦のための兵站作戦にも参加している。オフィシャルには日本兵はディエンビエンフーに直接かかわる作戦に参加していないことになっている。2019年12月に98歳で逝っているので、おそらく彼が生存していた最後のベトナム残留日本兵ではないかと思う。

ディエンビエンフーの兵站作戦で重宝されたのがミヤタの自転車。

 

ベトミン参加者には元軍医や衛生兵たちもいて、医療活動で重要な働きをしている。

高澤民也は軍医中尉から離脱し、ベトバック根拠地全体におけるDRVの医療・防疫・医薬品製造事業の中心人物。病院も手作り、野草や鉱石、少ない工業用原材料を基に医薬品製造もおこない、注射液・食塩水用の蒸留水製造装置も手作り。この医療グループには高澤以外に8名ほどの日本人の名前も出てくる。

高澤の帰国後の事は、「動き出した時計」にその残された妻子達の話が紹介されている。

 

中央でも地方でも武器・弾薬製造、橋梁架設などの後方支援に就く日本人も多かったが、帰国まで生き延びれた者以外、日本名と出身が知られているケースは少なく、今となっては調べようがなくなっている。

 

民間人もベトミン参加

太平洋戦争終戦時のベトナムにおける民間人は、北部に1,400人、南部に5,500人。

その中で直接・間接に50名ほどがDRVベトミングンに協力していると推定。その中から特筆すべき人物は藤田勇と安藝昇一。(井川レポート)

 

藤田勇は、先に紹介した国会での帰国報告参考人の一人。

藤田は元横浜正金銀行(後の東京銀行)ハノイ支店員、そしてDRV政府中枢機関の財務省で働いている。

財務省という名前だけの役所はできたものの、財務管理や金融機関を含む仏印時代の行政機構は全て解体されており、仏植民地時代、金融業務に就いていたベトナム人スタッフは末端業務のみで、知識・経験のあるベトナム人は皆無。

少数民族の高床式家屋の床下が庁舎で豚と同居、という状態。仏軍の空襲を避けながらしばしばジャングルの中を移動、手製の茅葺の小屋が新庁舎のような惨状の中、全くゼロからのスタート。実質彼が指導者となり、竹製の紙(先に紹介した高澤のグループによる製造)で粗末な紙幣の発行、ベトナム初の国債発行、国立銀行設立準備、そしてスタッフの基礎(銀行業務、簿記、金融システム、財政等々何から何まで)からの教育、等々すべて彼の努力により行われていた。現在のベトナム財務省があるのは彼のお陰といっても過言ではない。初代ベトナム財務相レ・ヴァン・ヒエンに井川一久がベトナムに貢献した外国人の銅像を建てるとしたら、と訊ねてみると、「それはフジタだ。国立銀行門前に永久に立つ資格があるのは誰よりもまずフジタだろう」と答えている。

蛇足ながら、日本敗戦時の横浜正金銀行の支店長はジョン・レノン未亡人の小野洋子の父親。

 

安藝昇一は大阪商船ハノイ支店勤務で終戦を迎え、DRV中央の文化工作団の顧問を務めている。英語、フランス語、ベトナム語に堪能で海と音楽が好きなロマンチスト、としか知られていない。帰国後に数冊の著作物を残しているが、自身のことは他の皆と同じように何も語らないうちに58年に死去しているため、現在の我々は彼の功績を知らず仕舞いとなっている。彼の著作「勝利の日まで‐ベトナム解放戦記」を読んだ小松みゆき女氏は、プライベートなことは何も書かれていなかった、と著書の中で述べている。後に、作家の石川達三がペンクラブの国際会議でモスクワに行ったところ、ベトナム代表から安藝昇一の消息を尋ねられたというから、彼の功績が小さくないことは容易に想像がつく。また、彼の御息女は、クラシック音楽愛好家ならだれもが知る安芸晶子である。バイオリニストでアメリカイェール大学音楽院弦楽科主任教授、桐朋大学客員教授、水戸室内管弦楽団メンバー。蛇足ながら、指揮者の小澤征爾は学生時代に安藝家に下宿している。

 

 

抗仏戦争全体の流れ

ベトナム残留兵たちがベトミン軍やDVRに協力し始めた頃は、それは艱難辛苦の連続でとても厳しい状況。特にベトバックでは食料にも事欠く状況であったようだ。しかし、時と共に状況は改善され、ベトミン軍は徐々に力を付けてきた。

初期はゲリラ戦

 

1949年に中華人民共和国が誕生し、中国からの武器や物資の提供が受けられるようにもなって来た。1949年11月4日、ホーチミンは解放区の18歳以上の男女に召集令を発令。ボーゲンザップは1万2千名を1師団とする5師団の正規軍を新たに編成。1950年6月朝鮮戦争が勃発。アメリカは朝鮮半島にくぎ付けとなる。そこで仏軍に対する仏軍に対する大反撃を開始する。レ・ロイ作戦、国境作戦、チャンフンダオ作戦等。1951年から、ホアンホアタム作戦を開始。

後に正規軍団に育つ

 

フランス軍は各地で孤立し、もうベトナム軍を武力で制圧できるという状態でなく、いかに、自軍の周辺を守るかで必死の状態に陥る。

劣勢になっていくフランス軍に比例してアメリカの軍事援助費は増加。

1951年にはフランス軍の戦費の12%だったものが、2年後には71%にまで急増。1400台の戦車、340機の空軍機がアメリカから提供を受けている。

当初は2万人だったフランス軍も52年に175,000人に増加。バオダイ軍(傀儡政府軍)を含め総兵力は26万である。しかし、フランス軍の実態はフランス人から外人部隊へと部隊構成が変わっている。理由は、ゲリラ戦により身体の一部を失ったり障害を負った者、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦により精神に支障をきたした者など、帰国した若い兵士の姿にフランス本国は大きな衝撃を受け(アメリカによるベトナム戦争と同じではないか!)、1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定される。

以後、ベトナム派遣軍は、フランス人志願兵に他の植民地軍やあぶれ元ナチ兵などによる外人部隊兵で構成されることとなる。現地兵や植民地兵の錬度・士気は低く、前線に立つのはもっぱら外人部隊兵や本国軍兵士だった。ディエンビエンフーの戦いの記録を読むと、仏軍の塹壕から聞こえてくる言葉の多くはフランス語ではなく、ドイツ語であったとある。

 

日本への帰国が始まる

ベトミン軍が反攻を開始するころから徐々に日本人兵の退役が始まり、ディエンビエンフーの戦いがほぼベトミン軍の勝利で終わるころ、重要任務に就いていた日本人兵も含めて、集団帰国の準備に入る。

9年間もベトナムで戦っている間に家族を持つ日本兵も多かったが、しかし、帰国第一陣1954年はベトナム人家族を連れ帰ることは認められなかった。このため残された妻子達は非常な苦労を背負うことになる。第二陣以降は妻帯の許可がでる。

一方、中部・南部にいた日本人兵は集団帰国の集合地には遠く、また、北部にいた者も妻帯を認められないことで第一陣には参加しない者も出てくる。そうこうしているうちに、ベトナムはジュネーブ休戦協定により南北に分断されてしまう。

 

 

南ベトナム誕生と寿会

ディエンビエンフーの戦いがベトミン軍側の完全勝利に終わり、ベトナムの4分の3以上、或いはそれ以上を解放したDVRであるが、ジュネーブ休戦協定により2年後の統一選挙までの間、暫定的に17度線で南北に分かれることになった。北は引き続きDVR、そして南は傀儡政権を引き継いだゴ・ディン・ジエムのベトナム共和国、いわゆる南ベトナムとなる。ところが、南と当事者ではないアメリカが共に統一選挙を拒否。選挙をするとゴ・ディン・ジエムが完敗するのは誰の目にも明らかだったから。

ここに、第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が開始される原因がある。

 

南ベトナムが誕生し、アメリカの下で反共側にいた日本はさっそく南ベトナムを承認。

1955年にはサイゴンに大使館を設置している。因みにベトナム民主共和国DVR(北ベトナム)を日本が承認したのは1973年、大使館設置は1974年。

中南部で活躍していたベトミン軍日本兵は、ベトミン軍が形を成し実力を付けてきたころから徐々に退役し始め、農業や民間の中でビジネスを始めたりしている。ベトナムが南北に分断され、サイゴンに日本大使館が開設されてから中南部に分散していた彼らは、徐々にサイゴンに集まるようになってきた。そして、残留退役兵たちは親睦・相互扶助を目的とした「寿会」を結成している。

この寿会の面々、直接的にベトナミ民族解放戦線の活動には加わっていないが、密かに友好関係を保ち、間接的な協力関係にあった。

 

作家の司馬遼太郎は1974年のアメリカ軍がベトナムから滞在した後の南ベトナムを訪れ、「人間の集団について ベトナムから考える」中央公論社を著し、その中で寿会を紹介している。東京銀行の支店長から「寿会の人たちがいなければ、日本の企業は南ベトナムにうまく入れなかったでしょう」と説明をうけている。その後、その時に寿会の世話役をしている青木茂と面談している。

 

1962年、日本の戦後賠償のプロジェクトとしてダニム水力発電の日本工営による建設中に、日本人技術者2名がベトナム民族解放戦線NFLに拘束される事件が起きる。その解放交渉にあたったのが寿会。

交渉にやって来た日本人だったか、拘束した日本人だったかのベトナム語の上手なことにNFLの若い兵士が驚いた、というニュース記事を筆者昔読んだことがある。

それにしても、日本軍統治時代の賠償対象になるのは北であって、南では賠償をするような迷惑はかけていないはずなのだが。

 

作家の開高健も「ベトナム戦記」朝日文庫の中で、旧ベトミン日本兵と会いNFLとの関係を紹介している。その中で、ダニム水力発電所の現場にも彼は訪れていて、その状況を伝えてくれている。その日本工営には元ベトミン日本兵が何人も働いているし、工事の妨害を行っていたのはむしろ南ベトナムの兵士だった、とある。

 

NFLによる日本人拘束というのは、NFL側に参加している事情を知らない少数山岳民族による偶発的な事故だったようだ。NLFの日本人に対する基本的なスタンスは「・・・日本人は殺さない、・・・尊敬している」である。先に紹介した2名の件とは別件と思われるが、いかにも、というような話も出てくるので紹介する。

 

沖縄出身の当間氏は、沖縄人独特の立派な顔立ちで毛がもじゃもじゃだったので、ベトコン(NFLの蔑称)にアメリカ人と勘違いされ殺されようとした。ベトナム人の妻に5人の子供を持つベトナム語の達人である彼は「よせ、おれは日本人だ」といった。

ベトミン軍に参加した日本兵をベトナム農民兵たちは“戦争の神様”尊敬していた。彼もベトナム名オング・ハオを貰い、“独立“という情熱の他には何も知らない農民たちに兵としての訓練を与え、戦闘の指導を行っている。

彼を拘束したのは山岳民族のベトコン。どうしてよいかわからないので山に行って偉い人に会ってくれ、と彼を山のジャングルへと連れていく。そして、偉い人が出てきて彼を見るなり、「なんだ、ハオさんじゃないか!」と叫んだ。その”偉い人”は自分が昔、ベトミン軍の闘士として戦っていた時の学習してやった部下であった。

 

落合茂は井川レポートによると、藤田勇の話として、落合も一時横浜正金銀行ハノイ支店に在籍し、その後ベトミン軍地方部隊で戦っていた、ということだが、詳細は分からないとある。「残留日本兵」林英一著によると、落合は支離滅裂な動きをしている。中国国民党軍に入り、ベトミン軍に入り、中国人に化け中国に逃亡し、またベトナムに戻るが中国人としてフランス軍に雇われ、等々を繰り返し、最終的に日本籍を取り戻し、サイゴンに落ち着き、日経企業を渡り歩き、東京銀行に勤める、とある。しかし、彼の夫人はNFLの秘密活動家であった。

 

富永朋蔵はもっぱらベトナム中部で活躍をしており、54年ディエンビエンフーの戦いが始まるころに帰国希望者は北に集まれと通達があったが、そのままベトナム在住を希望し、クァンガイで結婚。ジュネーブ協定で中部はゴ・ディン・ジェム政権となったが、元ベトミン兵士だからといって今まで通りで変わることは無かった。つまり、実質は引き続きベトミン支配化にあったということで、選挙をするとゴ・ディン・ジェムは必ず負ける土壌になっていたわけだ。そのうち、サイゴンに大使館が出来て、日本企業も進出してくるということで富永もサイゴンにやってきて、兼松江商に雇われる。彼の夫人もNFLと直接的なつながりを持っていたようだ。

 

青木茂は中部高原・海岸外地帯の兵員訓練や戦闘指導、兵要地誌を担っている。ベトナム名がファン・バット。ファン・バン・ドンは後の首相でベトナム戦争をトップの立場で指導した3名(他の2名はホーチミンとボーゲンザップ)のうちの一人で、彼の名ファンを貰っている。クゥアンガイをベースにして戦っていた日本兵はファン・バン・ドンと頻繁に会っていたようだ。

彼の仕事で興味深いのは、バンメトートそその周辺地域の詳細な調査・報告書提出を行い、軍事地図を提出していることだ。バンメトートは軍事的に中部高原の要衝地。

1975年、北ベトナム正規軍(人民軍)はバンメトートを攻撃し、南ベトナム軍は雪崩を打って敗走。北としてこれは想定外で、慌てて南ベトナム軍を追走し、サイゴンまで一気に攻め込むことができた。

 

司馬遼太郎は「人間の集団について」の中で青木の戦闘模様を紹介している。

ある時、少数のベトミンをひきいて、築城化されたフランス軍一個大隊の兵舎を襲うべく払暁に接近し、夜明けを待った。

夜明けとともに匍匐接近し、やがて、

「突撃にィ」

と大刀をかざして立ちあがり、

「前へ!」

と、駆けだしたが、 ベトミンたちはまだ戦闘なれていないためおびえてついて来なかった。

ところが幸いなことに、兵舎にいたフランス兵のほうが一個大隊ごと装具をほうりだして逃げてしまった。青木氏が飛び込んでみると、中はもぬけのからだった。

第一回目のブログで紹介しているように、フランス軍は日本兵の働きを恐れていたことが、これでよくわかる。

 

バンメトートと言えばベトナムコーヒー

筆者、バンメトートにはまだ行っていないが、バンメトートと言えばベトナムコーヒーで有名。ベトナムコーヒーは美味い。ベトナムを知っている客人にオフィスでベトナムコーヒーを出すと、とても喜んでくれる。

ベトナムのスタッフが来日するとき土産で持ってきてくれたり、何かのついでによく手に入っていたが、このコロナ禍で行くことも来てもらうこともままならず、そろそろストック切れだ。

 

 

サイゴンに集まって来た元ベトミン日本人兵は、ベトナムで骨を埋める覚悟のものや、家族連れでないと帰らないと(二回目以降の家族連れが認められていることを知らなかった、南北分断で情報が入ってこなかった)決めていたものたち。しかし、南北統一がされたのち1978年、ベトナム政府の勧告で全員が帰国させられている。

 

 

随分と長いレポートになってしまったが、次はベトナムのどこに行こうかと調べているうちに、次回以降の旅のテーマと場所の候補が決まってきましたね。あとは、コロナ禍が早く収束するか、ワクチンパスポートで自由に旅行が出来ることを願うだけです。

 

今回のブログを書くにあたり参考にした書籍を紹介します。

ベトナム解放宣伝隊 ボーゲンザップ

人民戦争論 ボーゲンザップ

ホーチミン 大森実

サイゴン解放作戦秘録 バン・ティエン・ズン

ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越の在り方に関する研究 井川一久

ベトナム戦記 開高健

人間の集団について 司馬遼太郎

ベトナムロード 石川文洋

ベトナム戦争全史 小倉貞男

ベトナムの歴史 小倉貞男

第20回国会衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会

ベトナム戦争 松岡完著

ベトナム新時代 坪井善明

残留日本兵 林英一

クァンガイ陸軍士官学校 加茂徳治

動き出した時計 小松みゆき

インドシナ残留日本兵の研究 立川京一

ベトナム独立戦を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯 吉村剛史