仲哀天皇・神功皇后の生涯と石碑3 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

前回の続きです。

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同西暦199年、天皇が熊襲討伐の計画を練っていたところ、

神功皇后に、荒廃した熊襲の地よりも

豊かな新羅を先に討つよう、神のお告げがありました。

しかし、天皇は

「海を見てもそのような国は見えない」と従わず、

熊襲討伐に向かい、失敗して帰りました。

天皇は神の怒りを買い、翌200年に52歳で病没します。

 

曽祖父である垂仁天皇が140歳、

祖父である景行天皇が106歳、

叔父である成務天皇が107歳、

神功皇后が100歳まで生きたと

伝えられていることに比べると、

かなり短命ということになります。

 

 

 

 景行天皇の伝説が地名に残る

 下関市豊浦町宇賀犬鳴・稲城山の福徳稲荷神社

 

皇后と重臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)は

天皇の死を隠し、遺体は武内宿禰により豊浦宮に移され、

仮埋葬(殯斂)されました。

その地は、現在の日頼寺と言われますが、

華山西の嶽の山頂も、仲哀天皇の殯葬所だと伝えられています。

 

 

 

 日頼寺の殯斂地と「仲哀天皇御殯斂地」の碑

 

 

 

 華山西の嶽の殯葬所

 「人皇第十四代 仲哀天皇御殯葬所」の碑

 

 

次回へ続きます。

 

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