仲哀天皇・神功皇后の生涯と石碑2 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

前々回の続きです。

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仲哀天皇が豊浦宮に滞在していた

西暦195年(199年とも)、

秦の始皇帝11世(12世とも)の子孫とされる功満王が

日本に帰化し、数々の品物を献上しました。

その中に蚕種(カイコの卵)が含まれていたことから、

忌宮神社は「蚕種渡来の地」と言われています。

 

 

 

 「蚕種渡来之地」の碑

 

また、198年、新羅の塵輪(塵倫)という将軍が、

熊襲を煽動して、豊浦宮に攻め込んできました。

宮中を守る阿部高麿・助麿兄弟も討ち死にしたため、

仲哀天皇は怒り、黒雲に乗る塵輪を自らの弓で射落としました。

皇軍は勝利を祝い、矛や旗を振りかざして、

塵輪の屍の周囲で踊りました。

そして、塵輪の首を埋め、大きな石で覆いました。

これが「天下の奇祭」数方庭祭(数方庭)の由来です。

 

 

 

 数方庭祭

 

 

 

 「数方庭由来碑」

 

 

 

 塵輪の首が埋められていると伝えられる「鬼石」

 

そして、199年、仲哀天皇は筑紫国の橿日宮に移りますが、

その際、筑紫の五十迹手(いとて)という豪族が

彦島まで天皇を迎えに行き、

天皇の乗る船を現在の彦島八幡宮境内に着けると、

八尺瓊、白銅鏡、十握剣を献上しました。

天皇は五十迹手を褒め、

「伊蘇志(いそし)」の名を与えました。

結果、伊蘇志の本国は、「伊蘇国」と呼ばれるようになり、

更には「伊都国」となりました。

五十迹手は、伊都県主の祖だと言われています。

 

 

 

 「東宮御成婚記念 仲哀天皇駐蹕遺跡之碑」

 

 

次回へ続きます。

 

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