仲哀天皇御殯斂地入口、仲哀天皇御殯斂地 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

下関市長府にある日頼寺です。

 

 

日頼寺の入口です。

 

 

「仲哀天皇御殯斂地入口」と記された碑があります。

 

 

そして、階段を上り、山門をくぐって右手に向かうと、

宮内庁が建てた看板があります。

その先を登っていくと……

 

 

 

「仲哀天皇御殯斂地」と記された碑があります。

 

仲哀天皇は、日本武尊(ヤマトタケル)の子。

三韓征伐で知られる神功皇后の夫でもあります。

 

西暦193年、九州の熊襲の反乱を受け、

仲哀天皇はその征伐に向かいます。

そして、穴門の豊浦津にて豊浦宮を設け、

そこに7年ほど滞在したと伝えられています。

その場所は、現在の長府、忌宮神社の地だと言われています。

 

199年、天皇が筑紫(現在の福岡市)にいた際、神功皇后に、

熊襲よりも先に新羅を先に討つよう、神のお告げがありました。

しかし、仲哀天皇は「海を見てもそのような国は見えない」と

従いませんでした。

神の怒りを買った天皇は、翌200年に病没します。

 

『日本書紀』では享年52歳と伝えられており、

曽祖父である垂仁天皇が140歳、

祖父である景行天皇が106歳、

叔父である成務天皇が107歳、

妻である神功皇后が100歳まで生きたと伝えられていることに

比べると、かなり短命ということになります。

 

神功皇后は、その死を公にせず、

遺体を穴門に運び仮埋葬(殯斂)しました。

その場所が、当地だと伝えられています。

 

ちなみに、以前ご紹介しましたが、

下関の華山西の嶽の山頂も、

仲哀天皇の殯葬所だと伝えられています。

 

最終的な仲哀天皇の陵は、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳、

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群-」の

構成資産です。

 

これらの場所への埋葬が全て事実だとしたら、

何度も遺体が掘り返されて、運ばれたことになりますね。

 

「仲哀天皇御殯斂地入口」の碑の場所はこちらです。

「仲哀天皇御殯斂地」の碑の場所はこちらです。