人皇第十四代 仲哀天皇御殯葬所、石祠建設人名票2基、シカ(華山6) | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

今月はあまり更新できないと思いますが、

どうぞお付き合いください(_ _。)

 

 

さて、前回の続きです(^O^)/

 

 

お話ししたとおり、仲哀天皇殯葬所に到着しましたo(^▽^)o

 

 

仲哀天皇は、日本武尊(ヤマトタケル)の子。

先日お話しした景行天皇の孫に当たります。

三韓征伐で知られる神功皇后の夫でもあります。

 

西暦193年、九州の熊襲の反乱を受け、

仲哀天皇はその征伐に向かいます。

そして、穴門の豊浦津にて豊浦宮を設け、

そこに7年ほど滞在したと伝えられています。

その場所は、現在の下関市長府、

忌宮神社の地だと言われています。

 

199年、天皇が筑紫(現在の福岡市)にいた際、神功皇后に、

熊襲よりも先に新羅を先に討つよう、神のお告げがありました。

しかし、仲哀天皇は「海を見てもそのような国は見えない」と

従いませんでした。

神の怒りを買った天皇は、翌200年に病没します。

 

『日本書紀』では享年52歳と伝えられており、

曽祖父である垂仁天皇が140歳、

祖父である景行天皇が106歳、

叔父である成務天皇が107歳、

妻である神功皇后が100歳まで生きたと伝えられていることに

比べると、かなり短命ということになります。

 

 

神功皇后がその遺体を埋葬し、

戦勝を祈願したと伝えられている場所がこの地です。

下関市菊川町にある櫻井八幡宮の飛地境内だそうです。

「殯葬」とは仮の葬儀のことです。

 

 

 

祠があり、周囲にいつくかの石碑があります。

 

 

 

祠の向かって右手前にある碑には、

「人皇第十四代 仲哀天皇御殯葬所」と記されています。

「人皇」とは、神武天皇以後、人代の天皇のことだそうです。

 

清末毛利藩最後の藩主・元純が、1868年に建てたもののようです。

現在の菊川町は、長府藩の領地と

その支藩である清末藩の領地に分かれていたそうですが、

この地は清末藩の領地だったのでしょう。

 

 

 

 

祠の左右奥にある碑には、

いずれも「石祠建設人名票」と記されています。

祠を建てた時の芳名録みたいですね。

 

 

 

 

場所はこちらです。

 

 

ちなみに、長府にある日頼寺にも「仲哀天皇御殯斂地」があります。

「殯斂」も「殯葬」と同じく、仮の葬儀のことです。

 

 

ところで、華山訪問の2回で、

華山山中やその帰路に、計5回、7頭のシカを見ました。

 

ホンシュウジカは山口県の県獣で、

下関にもいっぱいいると聞いているのですが、

山間部に行かないと、なかなか目にすることはありません。

 

かろうじて撮影できたのが↓これらの写真です。

 

 

 

 

華山探索シリーズはこれで終わりです(^-^)ノ~~