仲哀天皇・神功皇后の生涯と石碑4 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

前回の続きです。

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今日は天皇誕生日ですが、

今の天皇陛下は第126代目の天皇。

仲哀天皇は第14代目の天皇でした。

 

さて、仲哀天皇の死後、遺志を継いだ神功皇后は、

日本武尊の東征に従軍した吉備武彦の子・鴨別に

熊襲を討伐させると、新羅討伐に向かいます。

皇后は身重でしたが、腰に石を挟み、

無事に帰還した際に出産することを願いました。

 

皇后は、海を越えて新羅を平定。

更には、百済と高句麗も服属させます。

いわゆる「三韓征伐」ですが、

この時、山で地続きであった本州と九州が分かれ、

皇后の船団が通ることができたという伝説があります

(仲哀天皇と神宮皇后が九州に向かった時のこととする

伝説もあります。)。

なお、この伝説によると、地続きの山の下に穴が空いていて、

潮が流れていたため、「穴門」と呼ばれていたそうです。

 

そして、帰国した皇后は、後の応神天皇を出産。

その地は現在でも「宇美町」(福岡県)と呼ばれています。

 

なお、長門国一宮・住吉神社は、

三韓征伐の航海を守った住吉三神(住吉大神)が、

自身の荒魂を祀るよう命じ、

祠が建てられたことに由来すると伝えられています。

 

 

 

 武内宿禰が植えたと言われる住吉神社の大楠と

 「武内大臣手植楠」の碑

 

 

 

 神宮皇后の伝説に由来する住吉神社の御田植祭

 

また、豊浦宮のあった忌宮神社は長門二宮ですが、

三韓征伐の際、皇后が戦勝を占った

「さか松(逆松)」と言われる松の古木の

幹が安置されています。

 

 

 

 さか松と「神宮皇后御手うゑさかまつ」の碑

 

翌西暦201年、皇后は豊浦宮に戻りました。

 

その後、皇后は大和へ向かいますが、その際、

仲哀天皇と大中姫(おおなかつひめ。景行天皇の孫。

仲哀天皇の従姉妹)との間の子である、

カゴ坂王(かごさかのみこ。「カゴ」は鹿の下に弓と耳)と

忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こしました。

しかし、カゴ坂王は猪に襲われ死亡、

忍熊王は皇后に敗れ自死しました。

乱の平定後、皇后は皇太后とされ、

初の摂政になったと言われています。

 

翌年、皇后は仲哀天皇を埋葬しました。

陵は、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳に治定されています。

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群-」の

構成資産です。

 

皇后は、その後約70年間政務を取り、

西暦269年に100歳で死亡。

陵は、奈良市の五社神古墳に治定されています。

 

 

次回へ続きます。

 

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