仲哀天皇・神功皇后の生涯と石碑5 | ねりえ日和

ねりえ日和

本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

先週と今週の「名探偵コナン」は関門海峡が舞台でしたね。

(あのトリックは絶対ムリだと思うのですが……。)

 

 

さて、前回の続きです。

※前回の記事は↓こちら。

 

 

下関には、神功皇后ゆかりの地名が数多く残されています。

最後に、それらをご紹介して終わりにします。

 

忌宮神社の飛地境内である満珠・干珠には、

皇后が龍神から「潮干珠」(しおひるたま)と

「潮満珠」(しおみつるたま)を借り受け、

新羅の大軍が攻めてきた時に、それを用いて撃退。

その後、三韓征伐から凱旋した皇后が、

龍神に返すために珠を海に沈めたところ、

これらの島が浮かび上がったという伝説があります。

 

 

 

 満珠・干珠

 

長府を流れる「壇具川」の名は、

皇后が壇を築いて三韓征伐を祈願し、

その道具を流したことに由来すると言われています。

 

 

 

 壇具川手づくり郷土賞受賞の記念碑

 

源平合戦で有名な「壇之浦」の地名も、

皇后が祭壇を築いたことに由来すると言われています。

 

 

 

 「壇の浦古戦場址」の碑

 

JRの駅名としても有名な「幡生」(はたぶ)は、

皇后が熊襲征伐の旗上げをした場所で、

多くの軍船の旗が並んでいた様子からが、

旗が生え揃ったように見えたため

その名が付いたと言われています。

 

その近くにある「武久」の地名は、

皇后が戦勝を祈願するための海水を汲んだ場所で、

「武運長久」が略されたものと言われています。

 

本州最西端の「吉母」(よしも)の地名は、

皇后が三韓征伐から帰国した際、当地で応神天皇を出産。

その時、海藻を集めた寝所を設けたことから「寄せ藻」となり、

それが今の「吉母」につながっていったと言われています。

 

 

 

 

 

 「本州最西端の地」の碑と

 神功皇后が帰国した時に上陸したと言われる畳石

 

日本海に浮かぶ「蓋井島」(ふたおいじま)の名は、

神功皇后が三韓征伐の際、

島の二つの井戸に蓋をしたことに由来します。

 

そして、「安岡」の地名も、

皇后が武内宿禰と軍議を行った後に休憩したことから

「やすらが丘」と呼ばれ、

それが転化して「安岡」になったと言われています。

 

 

 

 「史蹟 憩ヶ丘」の碑

 

 

※掲載写真については↓こちらもご参照ください。