ももちゃん、もういいのよ。
もう幸せになってもいいのよ。
それはひとりになりなさいという母からの合図だった。
ふたりがピンチになった時に母から発されることになっていた合図。
母もわたしも別々の人間なのだと、わたしは今更理解したのだ。
歓びは全知全能ではなく、潮騒のように激しく、ときに痛くもあり、驚かされてはまた追いかけさせて苦しめる、きまぐれな妖精。
ももちゃん、幸せになるのよ
そう言って母は手綱を解いた。
わたしは母の目だった。
長いこと母の代わりに目の前の道を見て、世界を見て、文字を読み、母に伝えていた。
母はわたしがいなくなれば永久に、目を失ってしまう。
わたしは振り向いた。
ほんとうにそれでいいの?
わたしはお母さんがいないと生きていけなかった。お母さんの目であること以外、わたしは何もしたことがなかったから。
りんごの皮むきも、エアコンのフィルター掃除も、セーターをあらうことも、お釣りの計算も、なにもかもわたしには未体験のことだった。
いちまいのカードをわたされ、コンビニの弁当をふたりぶん買い求め、カードを店員に渡せばわたしたちは食べていけたから。
お母さんの目の中を見つめると、白く濁った眼球がまぶたから見えるか見えないかのところで留まり、そしてちいさくふるえた。お母さんの言うことを聞かない眼球が、この時だけはお母さんの意思にあわせて頷いているようだった。
お母さんはわたしに一つの本を手渡した。
臙脂色の分厚い本だった。
中にはやまほどのお母さんの写真が貼り付けられていた。
お母さんが見ることのできなかったやまほどの景色がそこにあった。
ももちゃんも自分の人生を生きて行きなさい。
写真の中のたくさんのお母さんがひとりずつわたしに話しかける。
今までごめんね。
もう一人で生きていいのよ。
あなたの幸せのことだけ考えていいのよ。
手綱はほどけている。わたしはいつでもそこから離れることができたはずだ。
けれどできなかった。お母さんがそこにいたから。
お母さんから離れるのは恐ろしかった。
お母さんの目ではなくなったら、わたしは何になればいい?
わたしにはなにもない。
おそるおそる、お母さんから離れていくと、お母さんはうっすらと影だけのひとになり、そのうち霧に隠れて消えてしまった。
それ以上振り返ることはできなかった。戻ってはいけない気がしていた。目の前の道に戻っていく。
わたしは自分だけのために目を開いた。
そこには空があった。土があった。緑があった。暖かい日差しがあった。歌があった。人があった。笑い声、泣き声、ゆたかな感情が小さな個体一つ一つからほとばしり、わたしの目に飛び込んできた。
わたしは自分だけのためにこの美しい景色を眺めた。