これやばい。
恋愛もの無理なわたしでもひねくれた見方せず最高と思えた。
ツイッターで散々最高な評価を観ていたので、ハードル上がるかと思いきやそのハードルをやすやすと超えていったわ。
テルコのマモちゃんに対する「冗談だよ」という台詞がいちいち冗談じゃなくてつらい……
わざわざ馴染みにくいクラブにマモちゃんを呼び出したのも、劣等感を感じさせて「やっぱりわたしと一緒にいたいでしょ?」みたいな作戦なのかなと思ったら辛くなった。劣等感をくすぐるぐらしいか彼女は手段を持たないくらい、この恋愛に関して劣勢なのかなみたいな……
まだ好きだと思ってんの?という台詞も。本心じゃないのかなと思ったけれど、もう彼女の中ではたぶん好きとかの次元じゃなくなっちゃってるんだよね。好き以上?とでもいおうか。
大学生の時友達がある男にかなわぬ片思いをしていて、「あの人の友達になりたい。親友になりたい」って言っていたのを思い出した。もう関われれば近くに居られればなんでもいいという感覚。
執着なのかと言えばそうかも知れないけれど執着すら超えている感じがする。
普通のこじれた恋愛関係とか依存とかそういう形でもない。
恋愛映画では観たことのない関係性のような気もするけど、現実世界ではどこにでもあるような、見たことあるような気持ちがまっすぐ描かれている。
わたしは思ったことのない(たぶん)感情。こんなに都合のいい女になれないもの。めんどくさがりだし、執着は空想限定だし、その人のそばに何が何でもいるために「役に立つ女の子やいつでも応じられる便利な(になっちゃうんだよな)女の子になろう」とか思えないんだもん。
テルコは、「マモちゃんのお母さんになりたい、〜(中略)〜いとこでもいい。」って言ってから、だんだん変わっていって「マモちゃんになりたい」という気持ちになっていく。
相手になりたいという感情は相手への想いとしては至上のものだと思う。
三島由紀夫も言ってたわ。「愛の奥処には、寸分違わず相手に似たいという不可能な熱望が流れていはしないだろうか?」
と。
でもこの感情は「愛」でもない気がするんだよなぁ、「愛」以下とか以上とかではなくて…
行動心理学大好きでよく関連書籍を読んでいたことがあったんだけど、ミラーリングの一種で相手がコップを手に取った時自分も手に取るみたいなのが、好きな相手に対しては自然に起こるというのがあるのね。この映画の中でもそれが何度か出てきて、テルコはやっぱりマモちゃんが「好き」なんだなぁと(マモちゃんへのテルコの気持ちが「好き」という気持ちだと仮定して)思うシーンがたくさんあるの。
最後、イケメンの神林くんを紹介されたとき、神林くんのことをわざとよく見つめるけど、飲み物を飲むタイミングは合わないの。あーたぶんテルコは絶対神林くんのこと好きにならないな、とか思ったりして……。
この映画はすごい。純文学だと思う。でも小説にしたらきっとこの世界は壊れてしまう。映画だからこそ描けた純文学だと思う。
🔵陸に住む哺乳類の涙だけを養分にして成長する蛾がいるという
あるとき表参道で人を待っていると蛾に声をかけられた
蛾はちいさなボストンバッグひとつでわたしの自宅に転がり込み、その日から一緒に暮らすことになってしまった。
蛾はおなかがすくとわたしをゲオに連れて行き感動もののDVDをポンタのポイントで散々借りさせて無理矢理に涙を流させる
スプラッタ映画をたくさん借りてくるためにコツコツと溜めていたポンタのポイントが無残にもお涙頂戴ストーリーによって消費されていく。
狙っているのは感動の涙だと鼻白んでいながら、くだらないとおもっていながら、わたしは見ずにいられないのだ、そして一度見せられると泣かずに見ていられないのだ。
「動物が辛い思いをするやつと好きな人が死ぬやつはダメなんだよう」わたしは止まらない涙を顎にあてがわれたじょうごへ流し込みながら真っ赤になって蛾に抗議する。
蛾はじょうごの先、涙が溜まってきたビーカーの中で涙を飲み込みながら満面のドヤ顔をして黙っている。
またある時、蛾はハンバーグ作りを提案してくる、「ハンバーグには欠かせないよね」とゴーグルなしで玉ねぎを大量にみじん切りさせ、無理矢理に涙を流させる。玉ねぎを極度に冷やしてツーンとしないように試みるもそんな裏技はすでに蛾にとっては想定内なのだ。さあみじん切りになりなさい。落ち込んでもいないのに、鼻がツンとして涙が止まらなくなっていく。顎にじょうごをセットされたわたしの顔の下で、蛾はビーカーの中で楽しそうに涙をなめる。
意地汚いことに蛾はわたしが仕事で失敗するようにわざと鞄の中の資料にいたずらしたりする。職場で上司からカンカンに怒鳴られて嫌味を言われたのち、自宅に帰って思わず顔をしかめると、蛾は待ってましたと言わんばかりにわたしの顎にかぶりつき、溢れる涙をあつめる。
「俺はそれしか飲めないんだから」と蛾は言い訳がましくいう。
蛾を英訳すればかつて破壊を意味する動詞でもあったのだ
蛾はわたしの生活と感情に浸潤し、わたし自身の精神を破壊し、食いつぶしていく…
というのもわたしはすでに、蛾の存在なしには生きてゆけぬ体になってしまったのだ、蛾が涙を流せとわたしに命じるとき、わたしは無限の開放感と安堵を得られるのである。
こいつが突如わたしの前から姿を消したとしたら、その時は蛾にとっては有り余るくらいのごちそうをふるまってやれそうだが、その時にはわたしの涙は誰にも必要のない体液と化しているだろうと思うので、わたしはそのことについては言わないでいる。
日に灼けた物干し竿はもろくも崩れ去り自分を守るために生成した黒い色素がターンオーバーを繰り返し繰り返し脳内もターンオーバーを繰り返し繰り返し20代の頃見ていた映画は忘れてしまって狂い咲き目にあてた細い細いカミソリの切っ先だけをわたしは鮮烈に覚えている。
細胞賛歌が止まらない白い壁紙と6畳の薄い罠、迷彩柄のチャックを締めればそこから先は魔術の谷、妖精たちはそこに転げ落ちてはやわらかい正常の聖女のふところに舞い落ちる。
本当の名前なんか知らなくてもいいよ、わたしは目を見ただけであなたがわかるし、ここに来たということはあなたはわたしと同じ何かを僅かでも持っているはずだから。知っている物事の濃度が高くなくても低くなくてもいい ただここに
