ぴいなつの頭ん中 -10ページ目

ぴいなつの頭ん中

殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

ねえ 今から遊びに行こうよ

ねむるくすり 飲んじゃったけど

ねえ 今から遊びに行こうよ

遠くまで連れてって


電車賃かかってもいいから

くだらないお店に入って

使わないものを買おう

だらしないお店に入って

安いお酒で乾杯しよう

化粧もしないで行くから

パジャマにコートで行くから

そのままの姿で連れ出して

夜のひかり浴びさせて


ねえ今から遊びに行こうよ

ねむるくすり 飲んじゃったけど

ねえ今から遊びに行こうよ

遠くまで連れてって


雨が降って傘がなくてもいい

電車がなくたってかまわない

夜の車で走りだそうよ

ペーパードライバーだから

タクシー代は後で返すよ

だから遊びに行こうよ


ずっとわたしの目標でいて

ずっとわたしに夢を見させて

お返事は時々でいいから

わたしの前を歩いていてね


一緒にいようなんて言えなくて

たまに顔見られればそれで良くて

あなたのこと追いかけて行くから

わたしの前を歩いていてね

最近読んだ本や記事で出て来た、生きづらさについてのまとめをしようと思う。
(備忘録メモ的に)

・褒められないと何もできないひと
・少しの不快も我慢できないひと
・積み重ねが積み重なるまで待ってられないひと
・報われないと無理になるひと

このあたりは、思考のどうにかで変えようがある範囲の「どうにかできる生きづらさを持っているひと」のようなのだ。
いろんな問題があって生きづらい人をたくさん見てきたけど、これでどうにかなるものとならないものを見分けて考えてみたい。
こんなのでどうにかなる程簡単な辛さじゃないと多分言われるだろうけど、底の底を追究していくと結局この辺に終始するような気もする。




ていおんやけど


あかりがまぶしいからうつ伏せで寝るようになってしまった恋人の横でベッドの麓、正座して詩を書く


足首の神経を生かして殺して生かして殺して繰り返しながら体位をすこしずつずらしていく。


足先で虫たちが這い回り捕まえてマッチ箱にひとりずつしまってゆく、

その刹那、

ぷちっと音を立てて何人かをころしてしまう、

体液をもたない足先の虫たちは雪のはなびらになってすわすわと消える、

125匹あつまったらまた正座のしなおし、我慢できなくなるまで、自分の重さで、自分の脚を、思う存分、痛めつけてやる。


緊縛と解放緊縛と解放を繰り返して足先はだんだんと存在がわからなくなってゆき、足先の足先としての自信はフェイドアウトするようにだんだんとうすまる、そのミルクの混ざった黒い脚の指先にはいくつかのみずぶくれ


低い声で啼く足先を優しく抱きしめて自分でキスをする、この日のためにして来たストレッチ、自分の体の中で自分で愛撫できないところなどひとつもないのだ


くちびるにふれた足先があつい


いつの間にか熱傷は3度を超えていて足先にくっついた衣服と低い声、

ていおんやけど。


綺麗に虫たちを舐め取ってやりビリビリに破けた皮膚を虫たちの糸で縫い合わせる、虫たちの文句はわたしたちとは関係がないので

思うさま使ってよろしい

またひとりぶんやぶいて傷口にはりつける

その頃には箱の中身はいっぱいになっていてわたしの役目はおわる、おわる、汚穢に満ちた詩のことばを虫たちに喰らわせて、星の中にわたしの虫たちが吸い込まれないように守り続ける、

祖母の形見分けで、わたしは宮沢賢治の詩集を受け取った。なんか高い宝石とかよりもそういうものの方がいい気がしたのだった。同じ東北の地を過ごしてきた宮沢賢治に祖母がなにをおもったかはわからない。生前は詩なんて無縁の脳筋経営者に見えていたから。


不思議なのだけれど、祖母が危篤状態で病院に運ばれた時、わたしは一人暮らしを始めたばかりで、室生犀星の詩集を読んでいたのであった。わたしが誰かの詩に感動して気持ちを寄せるとき、別の詩を愛する誰かが命を終えようとしていた。以来、詩を読むとそういうことが少しの間続いた。


詩を読むことは死を呼ぶことに繋がり、わたしの周りは死人まみれになった。仕事柄仕方のないことではあったが、死化粧を施しながら、詩に対する関係妄想と恐怖心が浮かんだことは無理もなかったのかもしれない。


そして今夜、わたしは清水昶の詩集を繙いている。「デスマスク」。わたしによくしてくれた前職の同僚が、地下鉄本郷三丁目の駅で詩の帯をつらねた壁装飾を眺めているわたしを見て、「これが好き」と言ったものである。

今夜詩に捧げられる魂は誰のものであろうか。


報われないと思ったり満たされなかったり悲しかったりするときによく使っていた愚痴ノートがあった。マイ・デスノートとでも言っておこうか。
あるときそのノートのことがきゅうにものすごく嫌になって、楽しかった映画や行楽地の半券で女子高生のプリ帳みたいにみっちりと埋めた。
愚痴や呪いの文字はノリでシワシワにされたあと半券を隙間なく貼られ、息ができなくなって効力を失った。表面からも半券に隠れて見えなくなり、そのノートはデスノートから楽しい半券帳になった。
そのうち愚痴を隠す目的から半券をコレクションする目的に主旨が変わってきて(その頃にはもう愚痴のページは尽きていた)、かれこれ2冊目が終わる頃になっている。
映画の半券は、映画の内容が面白かったかどうかに関係なく幸せな思い出を帯びている。いつどんな映画を見たかの記録にもなるし、振り返って見てはにやけたりなどする。昔のアップリンク渋谷には半券がなかったから、アップリンクで映画を見たら、レシートに観た映画のタイトルを書いて貼っていた。
遊園地や動物園や博物館、美術館の半券もまた、幸せな気分を思い起こさせてくれる。同じところでも行くたびに違う絵柄の半券がまれにあったりして。可愛らしい絵のついた大きめのチケットをもらえるとうれしくなったりして。
コピー本や観光地図とかもたまに挟んだりしていて、ノートはボロボロな上パンパンに膨らんでいるのだけど、壊れないように紐解くその時間は自分を呪いから救ってくれるような気がしている。