祖母の形見分けで、わたしは宮沢賢治の詩集を受け取った。なんか高い宝石とかよりもそういうものの方がいい気がしたのだった。同じ東北の地を過ごしてきた宮沢賢治に祖母がなにをおもったかはわからない。生前は詩なんて無縁の脳筋経営者に見えていたから。
不思議なのだけれど、祖母が危篤状態で病院に運ばれた時、わたしは一人暮らしを始めたばかりで、室生犀星の詩集を読んでいたのであった。わたしが誰かの詩に感動して気持ちを寄せるとき、別の詩を愛する誰かが命を終えようとしていた。以来、詩を読むとそういうことが少しの間続いた。
詩を読むことは死を呼ぶことに繋がり、わたしの周りは死人まみれになった。仕事柄仕方のないことではあったが、死化粧を施しながら、詩に対する関係妄想と恐怖心が浮かんだことは無理もなかったのかもしれない。
そして今夜、わたしは清水昶の詩集を繙いている。「デスマスク」。わたしによくしてくれた前職の同僚が、地下鉄本郷三丁目の駅で詩の帯をつらねた壁装飾を眺めているわたしを見て、「これが好き」と言ったものである。
今夜詩に捧げられる魂は誰のものであろうか。