明日から満員電車なんだろうか。
緊急事態宣言とはなんだったのかと方々で声が聞こえてきている。
わたしはほとんど何も変わらない生活をしていた。ライブがないぐらい。
とんでもなく安らかだった。知らない人と関わることが減るって、こんなにしあわせで楽なことなんだなと思った。
満員電車や街中や、知らない人だらけのライブハウスなど、わたしにはかなりのストレスだったのかもしれない。
基本、人が怖い。人間ぎらいとかかっこつけて嘯いてみても、やっぱり根底は恐怖心。なにしだすかわからない、どう出てくるかわからない、自分を簡単に傷つけ殺すこともできる他者の存在が怖い。わたしは簡単に精神的に死んでしまうので、身体が傷つくことよりも心が傷ついて精神がダメになることの方が怖い。
精神を傷つけられることは加害者自身すらも無自覚のまま、急に起こりうる。
誹謗中傷はいやだしつらいし、ない方がいいけど、それでも誹謗中傷を受けるくらい誰かの心に引っかかりたかったし人から知ってもらいたかったしその何倍も、愛されたかった。
もう無理なんだろうなと思いつつも、頑張っているみんなを見ている。興味を持つって簡単なようで難しい。そのハードルを易々と超えていきたくなるようななにかをわたしは人に対して提供できていたんだろうか。
誰かの真似をすれば、誰かみたいになれれば、うまくいったんだろうか。
わかりやすく、ポップで明るく、面白く。
みんな同じ、見たことあるものの方が入っていきやすい、そういう味がしそうなものを食べる、食べたことのないものはわからないと言って手をつけないで捨てられる。
綺麗になることの意味?自分を磨くことの意味?そんなものはない。振る舞い方次第でしかないので見た目をどう磨いたところで何かが変わるわけでもない。
愛されてみたかった。
天才であることがつらいと言って泣きたかったな
坂口恭平「躁鬱大学」
https://note.com/kyoheisakaguchi/n/n35a2eb4599f6
これがほんとーにすごい読み物であった。
要は躁鬱病(双極性感情障害)をもった坂口恭平さんが、自身や、みずからと同じ傾向をもつ人たちのことを「躁鬱は体質だ」という神田橋條治先生の言葉をかりて「躁鬱人」と呼称し、その特徴、生態と、楽に生きるためのライフハックを紹介する、というように見えるnoteである。
というように見える、というのは読み手からしたらそう見えるというだけのことで、実際ほとんどの内容は坂口恭平さんが自分に向けて、自分の特徴を客観的に見て書いたものであるそうで。
それがあたかも、自分に向けて優しく語りかけ、理解してくれて(これが「なんでわかるの?!わたしの心を読んだの?!」と思えるほどに的確で細やかな分析のもとに成り立っているのである)寄り添ってくれているように読むことができるのは、坂口恭平さんのちからなんだとおもう。
坂口さん自身は、躁鬱人が人に親切にするのが好きで上手なのは、元から親切な人だというよりも、人から「すごい」と思われたいからだと言うが、このほめられるためにかけるエネルギーの分量が半端ないのもまた躁鬱人の特徴なのだ。
神田橋條治先生のテキスト「神田橋語録」(これ普通に公開されてるからwebで読めるよ。
http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf
これに沿ったり話があちこち飛んだりなどしつつ展開する全17回の長文。しかし、当事者はうつの時なんかは特に、長文を読む気力がなくなる。そんな時のために、坂口恭平さんのnoteの記事は音でも聴くことができる。さらにうつになってどうしようもない時のために、坂口さんは自分の電話番号も公開している。
「躁鬱人は体質、だから非躁鬱人みたいにならなくていい」という言葉がどのくらい、躁鬱人にとって救いになることであろう。フツーにフツーのことができない、すぐに飽きてしまう、一個完結してないのになんか次の新しいことをはじめてしまう。急に気力がなくなって全て投げ出す。これって悪いことなんだろう、普通ではないことなんだろうと悩み続けてうつの時に自分をひたすら責めまくる、できない自分とできた時の自分が違いすぎてギャップにどんどんつらくなる、でもそれが躁鬱人にとってのフツーだし、なにも責めることはないんだと教えてくれる。
しかもこの躁鬱人と非躁鬱人の違いが詳しく述べられているから、具体的に「ここは違っても無理に非躁鬱人に合わせなくていいんだな」と参考にできる。
・躁鬱人には自分がない、つまり他人から見た自分しかない
・他人から褒められることが何よりも栄養
・いまなにがしたいか常に自分に問いかけ、自分にとって気持ちいいことをしよう
・常に心の向くままに、「万華鏡のように」生活しよう
それでいいのだと肯定されたような幸福感。
自分の振る舞いについてもそうなんだけど、それだけじゃなくて看護師としても勉強になった。
躁鬱の人には今まで、「波をできる限り穏やかにするために、躁のときもなるべく静かにしてましょう」なんて言うよう習っていたけども、とんでもない。退屈も鬱を呼ぶ。行動を躊躇ったり我慢していることも体に悪い。力を抑えなくてもよかったんである。
これからはわたしも「今何がしたいか自分に問いかけて、なるべく楽しくいろんなことをしていいんだよ」って患者さんたちに自信を持って言えそうである。
また、寂しいから鬱になるんじゃない、鬱になるから寂しさを感じるんだ、ということも刺さった。
読みながら、孤独感を抱えながらニコニコして、看護師にまで気を遣っている躁鬱人のことを思い出していた。
あと心がすっとしたこと(要約)
・きちんとやらなくていい、テキトーでいい
・窮屈感と、きちんとしなきゃという感覚と、怒りにはじゅうぶん注意せよ
・楽しいと思えた時にバーっと突っ走ることが、非躁鬱人にとっての努力に値するので、無理に努力しようとかしなくていい
最後に、
第16回の引用をさせていただこう。
"自分に興味を持ってくれてる人=仲間を探すんです。
躁鬱人は根っからの適当な人間であるにもかかわらず、人の顔色を見て気持ちを伺うという矛盾した存在ですので、仕事なんかの時は、つい、適当な自分を押さえ込んで、相手から依頼された通りに、それこそ額面通りに、四角四面にやろうとしてしまいます。もちろん、適当な人間ですから無理なんですが、真面目にちゃんとやろうとします。そうすると、努力発生の黄色信号なんですね。でもその裏には、とんでもない結果を残して世界最高と言われたいという野望も隠れちゃってます。そんなわけで努力している自分も世界最高と言われるためには仕方がないと思ってしまい、努力を肯定しちゃうんですよね。でも必ず窮屈になります。そして、ひどくなれば鬱になります。そこでこう考えてみるのはどうでしょうか。
「もうすでにお前は世界最高である」
と一度自覚するのです。
世界最高ですから努力はする必要はありません。あなたが持っているものだけを全て発揮すればいいんです。依頼に合わせて、きっちりやる必要もありません。カンダバシは「ちょっとだけはめを外すことがストレス解消につながります」と書いてます。依頼されたことよりちょっとだけはめを外して、提案するくらいがいいかもしれません。なんでもやりすぎると、下品です。上品にやってみようと心がけてみるのはどうでしょうか。そうすれば、指先にまで力を感じて、気持ちよく行動できるはずです。あらゆる行動が全て実は非躁鬱人にとっての練習とか努力に当たるような力を持ってます。何かのために必死に努力、練習を積み重ねるのではなく、やっている行動自体が常に努力、練習になっているというわけです。それが躁鬱人です。
しかし、注意すべき点は何かのイチローではあるが、それが何かは誰も知らない、自分も知らない、と言うことです。
とにかくわれわれ躁鬱人はこの現世のすでに存在しているなんらかの職業の世界最高ではありません。何かは誰にもわからないのです。今の職業の区分では見つけ出すことができません。それくらい別次元の世界なわけです。
ちなみに非躁鬱人は私の人生は不幸だ、終わりだ、絶望だと強く落ちていかない代わりに、「生きてて今とんでもなく幸せだあ!」とわれわれが時々感じるあの感覚がないらしいですよ。われわれ躁鬱人は幸福とは何かを追い求めることができる、希望を狩猟採集する、ハッピーハンターなわけです。生まれてきてよかったね。"
こんなに素晴らしい福音はあるだろうか。
これ読んでちょっと泣いちゃったんである。
もうこの素晴らしさを伝えるにはわたしの筆では足りない(しかも何文字あっても足りない)から、このブログ読んだ人は本文も読め。マジで。ていうかわたしの文章なんか読んでるヒマがあったら坂口恭平さんの文章読め。
ちなみに鬱を生き抜く時のコツもほんとにすごいことばかり書いてあるよ。これならやれるやん!ていう具体性が流石だと思う。
詩のないからだはぬけがらだ
がらんどうのおなかの
音もしない脂肪を毎日少しずつ削り取って生きている
気に入らないなら石でもなんでも投げればいいけどわたしの心には絶対に当たらない
はっきり言ってくれればいい あなたがきらいだと
あなたのその詩はわたしにはいみがわからないと
無関心よりも全力の嫌悪感を示せ
見てからじゃないとわからないその再生ボタンを押せ
見てからじゃないとわからない
その
再生ボタンを
押すんだ
わたしの心にあなたの投げた石が当たってひどい傷をつくるまで
わたしの心が血を流してすすり泣くまで
わたしのことを
ひらいて中身を見てからなら何を言われても構わない
はっきり言ってくれればいい あなたが目障りだと
その違和感の理由をきちんとあなたの中で明らかにしてからなら
わたしを嫌いな理由をわたしの前でちゃんと言えるなら
わたしはいま誰からも知られていない塊
嫌われもしなければ愛されもしない
わたしの心を開くにはわたしの言葉を読めばいい
わたしの心に入り込んできてくれたら
わたしはあなたの手につめをひっかけて
もう2度とわたしを閉じられないように
つかまえてやる
目を逸させないようにしてやる
そうよ
心の中に咲く花はいつでも待っている
次の獲物を
(朗読 1:30くらい)