あっくんが生まれた日
忘れもしない
チョコレートが大好きだった小さくて白い犬の話
いつも小説みたいな記録を書くねと言われていた
八百屋の一番よく見えるところにひとりじめスイカが売っている
夏が来たんですよ
夏が
散歩していると研ぎ澄まされる
年々わたしの意識ははっきりしていくように思う
幼い頃が茫漠としているのは
記憶が褪せかけているせいなのか
飛ばされてしまったのか
それとも
わたしはずっと昏睡状態だったんだろうか
コーマスケールにも測れないほどの些細な意識障害
喪失していくのは
些細で幸せなひとときたち
つらい時の記憶ばかりが
マラソン大会の風景
カレーの匂い
はっきりとしている
なんで給食ってどこも同じ匂いなんだろう
慢性病棟もそう
どこに行っても甘ったるく煮こまれた匂い
人間の動物臭さってこういう匂いなのかもしれない
愛してきたものたちのこと
そのいくつかは忘れてしまっている
大好きだった絵本のタイトルをわたしは
思い出せない
ちゅんちゅんはね
籠の中で寝てるの
だからまた遊ぼうね
また起きたときに遊ぼうね
ちゅんちゅん軽く目を開いた
どうして鳴かないの
ちゅんちゅんに声をかけました
ちゅんちゅんは黙っています
黙ってこっちを見ています
フン、と鼻を鳴らしました
フンもちょっぴり出しました
フンじゃだめなんだよ
もっと大きな声で
たくさん鳴いて
世界を憂いて
思想を話して
心を打ち明けて
思ったことを言って
社会について話して
想像の世界について話して
もっとこれからどうなるんだろってみんなが期待するような話をして
面白い話をして
面白くない話をして
もっとみんなが「なるほど」と思うような
みんなを泣かせちゃうようなそんな話をして
されて辛かったことの話をして
美しい声で話をして
思ったことを叫んで
もっと大きな声でたくさん鳴いて
もっとだれにも負けない声でたくさん鳴いて
ちゅんちゅんは何も言いません
ただこっちを見下ろしています
ごめんね
ちゅんちゅんは何も言えません
今は何も言えません
わたしができることがまだあるなら
話の聞き手になることだけ
たくさんの声に耳を傾けるだけ
ちゅんちゅんはここにいるけど
今は何も言えません
ちゅんちゅんはわたしの心の中で鳴く小さな鳥
かわいくてちいさくてたまに乱暴で
でもとてもいい子
ちゅんちゅんはもう何も言いません
どうしてか何も言わなくなってしまったのです
そこにいるのに
そばには鉄柵が張り巡らされ
ちゅんちゅんの体からは自由が失われています
どうしてか何も言わなくなってしまったのです
ちゅんちゅんを籠から出して手のひらで包むと
ちゅんちゅんはやさしく指にかみつきます
ちゅんちゅんの目が潤んでいます
ちゅんちゅんは鳴きたい、いつだって鳴きたい
でもだめなのです
ちゅんちゅんは鳴き方を忘れてしまったの
どういうときに鳴いてどういうときに笑ってどういうときに騒いでどういうときに愛していいか分からなくなってしまったの
ちゅんちゅんの目が潤んでいます
やさしくてまるくて、綺麗な目
ちゅんちゅんは鳴きたい
もうちゅんちゅんを縛るものは何もないのに
ちゅんちゅんは縛られた形のまま固まって
自分がまだ縛られているかのように きつそうに手の中でいびつな形をしています
ちゅんちゅんは鳴きたい、いつだって鳴きたい
幸運の印を逆さまに貼って
幸せになりたいと思いました
てるてる坊主を逆さまにするのは雨を呼ぶためだって言いますね
幸運の印を逆さまに貼って
真っ赤な布に金色の文字 はらり
幸せになりたいと思いました
億劫な頭で草も木も寝ているところを見つめながら明け方になりました
誰のかわからない糞便がありました
お風呂に残った糞便は流れることも取り除かれることもなく、体の不調を暗示していました
お湯を沸かしてそのままにしておきました
わたしはいつかこんなふうに幸せになれるんでしょうか