みんなそれぞれで努力している。お家生活の充実。配信による共有、会合、ライブ、などなど
わたしは基本紙の日記をつけているけれど、紙が手元にないときでどうしても問題行動を起こしそうになったときにこういう文章をちまちま書きためておくことにした。
自分の振り返りが、結果的に人へのケアに役に立つということがちゃんとわかっているから。
精神科領域では、自分の傾向を知らないで他人のケアなんかできるわけないのです。
わたしは家にいるのが基本得意ではない。外に出るのも面倒な時はあるけど、それでも家の中にいるときは『無為の時間』と決まっている。布団かソファに横になって過ごすのが自宅での時間と体に刻み込まれている。外に出るときは『外の時間』、わりとこれは意欲的で躁的な時間となる。活動の大体がここになる。何か書けているときは『創作の時間』であって、でも家にいると指一本動かすのも面倒なくらいとろけてしまっているので、大体カフェに篭る。特に昼間、家で何かをすることに成功したことはあまりない。料理かギターくらいか。
自粛によってわたしの無為の時間は格段に増えた。
無為は睡眠時間のように、増えすぎても減りすぎても自分をすり減らす。自分に合ったちょうどいい時間と質の『無為』にしか、自分を休め癒す力はないと言える。
しかしスイッチは『無為』のほうに傾いたまま。いつもなら寝るべき時間なのにまだ起きているみたいな感覚である。リズムの不穏なズレを感じる。
わたしは、この無為の中で、おうちで何かを楽しもうとしても楽しみきれないのだ。例えるなら…夜中に食べるラーメンは格段にうまいが、それが毎日続くと胃がもたれてしまって楽しくもなくなる。
夜にライブをしないし人との約束もないから、時間はたくさんあるのに、目の前に積まれた本たちにどうしても集中できない。
締め切りの文章、書きかけの小説、もう少しで仕上がる本、などがたくさんあるのに、時間だけが使い古しの伸びきったゴムのように撓んでまとわりつき、「1日が早く終わらないかな」とまで思うようになった。
もちろん配信は楽しい。オンライン飲み会も、ライブも、LINEや電話で友人と連絡を取り合うことも楽しい。
でも伸びきった時間は、つかんでも縮んだり弾けたりしてくれない。帰りにさびしくなりながら電車に乗る感覚、行く前に準備をして、夜気にあたりながら目的の場所に急ぐ感覚。時間はそういう時に風船ガムのように弾ける。
代替的な楽しみ方を得たとしても、今までの楽しみのうちの何かが失われたことを、否定することはできない。
気持ちを切り替えて、患者さんたちや家族たちや仲良しの人たちなど大事な人の命を守るために、おうちで頑張らねば、おうちで楽しまねばいけない、おそとであそびたい、みんなとあいたいなんて、わがまま言っちゃいけない、こんなことで悲しんだり悩んだりしてはいけない、と無意識に思っていたのかもしれない。
今わたしたちのくらしは避難生活なのだ。ストレスかかって当たり前であるし、時間がいくらあっても読書や書き物に集中できるわけもない。
不安に囚われてぶるぶるしすぎるのもよくないが、不安なんかないふりをするのもよくないな、と思った。
いまつらいこと、どういうことがつらいのか、どんな下らないことでもいいから自分で認めてあげる。
認めてあげないと、行き場を失った感情がわけのわからない方向に暴走する。
電車の中でマスクをしていない人や咳をした人を責めたり、いろんなものをまとめて買いあさったり、ごはんやお菓子をありったけ食べまくったり。
それが、窮地に陥った時に起こる自然な反応なのかもしれない。
案外、自粛生活が普段の生活と変わらないという引きこもり気味の患者さんたち(訪問先の)の方が、わたしなんかよりも落ち着いてあっけらかんとしていることがある。
統合失調症の慢性期、意欲がマイルドに低下した状態が維持されている人たちほど、なんだか今の状況にうまく乗れている気もする。
不安になっちゃいけない、わがまま言っちゃいけない、楽しまなきゃいけない、みたいな謎の義務感からは、彼らは解放されている。
彼らを見習って、すこし「こうでなければならない」から解放されることができたら、もうちょっと楽になれるのかもしれない。