死んでしまえと頭の中で騒ぐ者がある
やらなければならないことをやっていない時や
やるべきことができなかった時
しっぱいした時
努力してもうまくいかないと感じた時
人と気持ちがすれ違ったり誤解を与えた時
八つ当たりをした時
死んでしまえと頭の中で騒ぐ者がある
声ではない
だから幻聴ではない
自然に湧き上がる思考のようなもの
必要な休息をしている時でもそれは騒ぎ出す
死んでしまえと
お前はどうしてまだ生きているのだと
死ねばみんな喜ぶし、誰にも迷惑をかけずにいられるし、みんなのためでもあるのだ
なにもできない自分や、愛されていない自分は世界に必要がない
さあ、死ぬのです
はやく死になさい
そう言われ続けている 毎日毎日
この騒ぎが起きたのはいつからだったか忘れてしまったが、気づいたらしばらくずっと続いていた
何回か死にかけた
電車に飛び込もうと思った
電気あんかのコードをカーテンレールに巻きつけ、そこに首をひっかけた
血管をシャープペンシルで滅多刺しにした
それでも死ねなかった
死ぬのが怖かった
気分がものすごく落ち込まないように、薬を飲みはじめた
医師は大したことはないと言った
わたしが話す悩みがまるで滑稽なものでもあるかのように
医師はいつも片頬でわらっていた
食欲が全くなくなって激痩せしたり一睡もできない日が続いたり真っ青でクマだらけになったり急に倒れたり、そういうわかりやすい衰弱があればわたしはもっと労られてたのだろうか
薬はあまり効かなかった
どれほど継続して規則正しく内服しても、頭の中の死んでしまえ騒ぎはおさまることがなかった
それでも薬を増やされるのが嫌で、受診の時は毎回「調子はまあまあです」と答えた
薬でドロドロに溶かされた人間をたくさん見てきたから
わたしはそうはなりたくなかったのだ
どんなに苦しくても、正気を保っていたかった
たくさん検索をした
わたしの状態に該当する症状は出てこなかった
日増しに辛くなってゆき
好きだった読書もできなくなっていた
やりたいことに没頭することも困難になっていた
他人へも影響した
わたしが自分を嫌いであるあまりに、周りの人々もわたしのことを嫌いに決まってると思った
それでもわたしの妄想を突き破ってわたしに声をかけてくれようとする人がいると
その人は人を見る目のない、唾棄すべき人間なのだと思うかもしくは、恐ろしい感性を持つ人間として避けて通った
マイナスの発言
不安感の表出
自分への悪口
すぐに諦める癖
死ねばいいと思う考え
苦痛やネガティブな感情をすぐに死と結びつける思考
それらもまた、他者を遠ざけていった
死だけが救いのように感じていた
人が楽しんでいる物事を楽しめなかった
どうしようもなく無様な人と出会った
その人はわたしよりも苦痛で、わたしよりも恵まれておらず、わたしよりも不細工で、わたしよりも頭が悪かった
そしてわたしよりも頑張り屋で、わたしよりも信じる心が強く、わたしよりも希望をもっていた
はじめは、その人を見下して優位になりたくて、わたしはその人に近付いた
その人の名をかりにAとしよう
Aは本当に愚かだった
すぐ間違い、すぐつまづいて転び、すぐ騙され、すぐ誤解され、要領もわるく、どこにいっても誰よりもなにもできない、役に立たない人間だった
Aは次々といろんなことを試していたから、どこに行っても新人で、どこに行っても素人だった
見かねて幾つかのアドバイスをするとAは笑顔でいつもありがとうと言った
Aの口癖はありがとうだった
それしか言葉を知らないのかと思うほどその人はありがとうを連発した
たまにきついことを言ってもAはありがとうかごめんねしか言わなかった
あるときAは言った
『あなたにしか言えないけど、たまにね、わたし、なんにもできないからさ、頭の中で、そんなにダメな人間なんだからもういなくなれ!死んじゃえ!って言われてるみたいな気になるの』
ほんとなにやってもダメだし、死んじゃえって思われてもしかたないよね、とAは笑った
わたしは驚いた
わたしと同じだったからだ
『でもね、前向きな言葉を心の中で叫んで、自分に言い聞かせて、打ち消してるの』
どんな言葉?
『なんでもいいんだよ、元気勇気、とか、これがしたい!とか、自分に合った言葉。最近はね、生きる!!って叫ぶことにしてる。死ねって言われたら、生きる!って全力で反抗するの』
こういう、空っぽな前向きさが、Aのいやなところだなと思った
自分が色々考えながら落ち込んでいる時に、空っぽの頭で元気だの勇気だのと言われると、自分が惨めに感じる
こうしている間も、わたしの頭の中では打ち消しようのない『死ね』が聞こえているというのに
わたしは自分のことも打ち明けずに、関心がないふりをした
自宅にかえってみると洗濯物がにわか雨で全て濡れていて、わたしの気分は一気に重たくなった
死んでしまえと頭の中で騒ぐ者がふたたび強まる
こんなことすら対応できない人間なんて生きている意味がないからはやく死になさいと言われている気がする
自分の脳内が生み出している現象だということはわかっている
セロトニンが少なすぎることも
自分でどうにかしたいからたくさん勉強したのだ
栄養も気をつけた
運動もした
朝の光を浴びながら
たくさん努力したのに
どうしていつもわたしは死ぬことばかり考えてしまうのだろう
具体性のない希死念慮は重要視されない
わたしは今すぐにでも入院させてほしい気分だった
この際薬でドロドロにされてもいい気がした
全てを失うとしても
わたしには最初から失って困るほどのものは持ち合わせていない
仕事もお金も、もうどうでもいい気がした
今度こそうまくやろう
うまく死ぬのだ
包丁に手をかけながら、それでも怖くて涙が止まらなかった
元気勇気
元気勇気
元気勇気
Aの声で頭の中にかすかな言葉が浮かんだ
小学生レベルの問題をテストでやらされているような、恥ずかしさとどうしようもなさで悲しくなりながら、わたしは試しに呟いてみた
元気勇気
元気勇気
元気勇気
元気のげでからだに力が入り
『き』の発音の時にわたしの力は歯の間からすうっと抜けていく
勇気、と発音するのにはこんなに力が必要だったのか
でも苦痛ではない
『ゆ』と発音する時にわずかだが『げ』と違う力が動いている感覚がある
2回目の『き』で肩の無駄な力が抜けて
馬鹿馬鹿しいと思いながらもわたしはいつの間にか何度もその言葉をつぶやいていた
声はだんだん大きくなり、『死んでしまえ』の声を打ち消すくらいに、大きな叫びになっていた
悲しみの叫びではなく
強い声だった
自分にこんな力があったなんてと思うほど声は遠くまでゆき、壁で反射してまた心に戻ってくる
最後にふと思い出し、とどめの一言を発した
生きる!!!!
『い』で息を取り込み
『き』で瞬間的に勢いよく吐いて
『る』ではっきりと切り裂いた
目の周りがぎゅっとなって涙が溢れた
包丁をしまい、椅子に座った
死んでしまえの声はまだここにある
しかし以前ほど脅威に感じなくなっていた
わたしにはこれと闘うための武器がみつかったから
死んでしまえというのは単なる思考の余り物であり
脳が作り出すイミテーションだと理解したから
短時間だがこれほどまでに、死んでしまえを吹き飛ばす言葉は今までになかった
またふくらみつつある死んでしまえを見つめながら
この方法を続ければもしかしたら
勝つことができるかもしれない
死んでしまえと頭の中で騒ぐ者に
別れを告げることができる日が来るかもしれない
そう思った
どうしても調子が悪い時には忘れてしまうかもしれないから
わたしは皮膚に小さく太く
生きる
と描いた