ぴいなつの頭ん中 -21ページ目

ぴいなつの頭ん中

殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

毎日美味しい幸せを与えて運動をさせ、手から食べさせる

その手からでないと何一つ食することはなかった。

手術で3つに繋げられたからだの一つは呻き、一つは涙を流し、一つは完全に呆けて放歌していた。

階段のできるだけ断崖に隠れていれば星が二つしかなくても安全に隠れていられた。

この頭に浮かぶ無限の世界を説明する力がわたしにはなかった。ただただ、テントウムシを踏まないように歩くことしかできなかった。

人前では水は飲めない。大きな不安がそうさせるのだという。どこからともなく吐物の匂いが消えない。何でもかんでもフィルターを通して、綺麗にしてから体に入れる。どうして君はわたしには何も教えてくれないの。こんなにダメなやつなのにどうして妬まれるの。どうしてみんな、わたしに声をかけに来るの。どうしてみんな、わたしがうまくやったのを、彼ら自身のおかげだと思い込むの。俺が成長させたと。鐘の音は18時になったはずで、入る前にチャイムの音は聞こえたはずで、でもわたしはそれを無視した。肩をほぐすので精一杯で、文鳥に髪の毛をあんでもらっているところだったから。わたしを妬みに来たひとをわたしは無視するふりをして、それでも無視できない。わたしにあめない形でわたしの髪の毛はあまれてゆく。あまれる。アマレット。


実家には絶対にかえらない。かえれないから。文鳥がくちばしで髪を捻る音が耳元をやさしくくすぐる。声は変えられないのか。なぜ腰をかがめて歩くのか?それは恐怖がそうさせるのだ。自己防衛の気持ちがそうさせるのだ。見たかったけど見れなかったあらゆるもの。音など。大人の音なので、きみが愛されまくっていることが辛い。自分の化粧のしかたはわからないが、死化粧は心得ている。好きである。生前のことを思い出しながら、伝えて、わたしにだけ言ってくれたこと、と思い込んでいたあることないこと、呟きながら、独り言みたいに死人に声をかけ続けるのが好きだ。邪魔されたくはないんだ。DNRにおいて大切なこと。何よりも大切なこと。わたしが大切にしていることは、命を救うときの緊急性とは、かけ離れるようなのだ。死んだ後にしかやってこないわたしは、死神のようなものだ。



満月はいろんな夢を見させるようなのだ


職場の最近仲良いひとが、日が昇ると少年に変わってしまう夢を見た。バレるとまずいので匿ってあげていた。そうすることでより仲良くなれる気がした。夜は狭いソファに詰めて座って、小さなブラウン管の前でピザパーティーをして、いろんな話をした。オトナモードであれば背の高いひとなので夜の間はいくら寄りかかっても大丈夫だ。

いつしか眠ってしまって、ベルベットのカーテンを閉めた部屋に朝陽が差し込むと、そのひとの体はどんどん小さくなる。小学4年生くらいのサイズになる。カーテンの外は新幹線のホームから見る景色みたいにたくさんの高層ビルと華やかな雰囲気で覆われている。


小さな女の子が殺されそうになっているのを、昔住んでいた家の中に匿ってあげていた。玄関入ってすぐの狭いトイレの中にその子とわたしで入り込んで、息を荒げながら隠れた。ちっちゃな出窓から外の様子が見えた。その子の追っ手の行く手はすぐに遠ざかりわからなくなったけど、その子はすぐに元気になって居場所を見つけた。


アルコール性暴力を振る系の年取った患者の家族で、忘れられない娘さんがおひとりいる。(娘さんといってもその患者の娘なんであって、わたしよりも年上である)そのひとは、とても美しくてゆったりとしていて感じのいい人なんだけど、わたしがなにかの用で娘さんの目の前でパッと手を高く上げたときに、すごい速さと勢いで身をかばう動作をした。怯えた目をきつく閉ざして、できるだけ小さくなろうとするかのように、私の手から我が身を庇っていた。その姿を見たとき、ものすごくかなしくなった。その人の父である患者は、かつて暴力を振るっていたが今はくたくたの可愛いご老人なのだ。暴力を振るっていた面影はなく、たまに怒りっぽい姿もふにゃっとしていてまったくこわくない。

けれど、その可愛いご老人が、このとても美しいむすめさんに長年かけてつけてきた傷は、とてつもなく深い。その反応速度が早ければ早いほど、傷の深さ、難治性をあらわしているようなきがして、悲しかった。

まったくの他人なのに、わたしはとてつもなく悲しかった。

何回も謝罪して、でもなんで謝っているのかをなんとなくはっきりと言葉にしたくなくて、言葉にすることで娘さんの傷を抉るような気がして、行動から想いや記憶を勝手に察知されることの気持ち悪さを感じさせてしまうのではないかと思って、わたしはただ、なにも言い訳したりはっきりと言葉で示すこともできず、曖昧な滑舌で謝り続けた。
なんか楽しいことないかなーって言ってくる若い女の子に、私が楽しいことを提供するところ思い浮かべている。



午前中から渋谷の単館系で映画見て、昼はハンバーガーと瓶ビール。ポテトはフライドかマッシュか選べる。ビールが苦手ならアジア系の甘いビールかでっかいフルーツジュースを飲むといい。

高円寺に移動。シーシャを吸うか古本屋さんに行く。会話禁止のカフェで本を読んだり筆談したりして、ちょっと甘いものを食べて、夜はお酒を飲んで終了。



楽しいことを探している女の子。多様性に理解があって、甘えすぎず、自分からセックスの自慢をしてこない女の子がいいな。


夜勤明けのイェルサレムではコンソメパンチがよく売れる。夜勤明けの祈祷者たちの体臭が要約するとコンソメパンチの揚げ油の香りだからだ。この香りをかぐと否応なくコンソメパンチが食べたくなるのである。自分の、洗わないまま働き続けた、汚れた細胞の匂いであるにもかかわらず。私は、皆様に言えないような罪を犯しました。そんなの調書には書いてはいけない。実際には言っていないことだからである。
寝たきりでも文章が書ける。寝たきりでも文学作品が楽しめる。寝たきりでも音楽が聴ける寝たきりでも本は読める寝たきりでも考えたり話したり仕事をしたり、論文を書いたりすることが出来るようになってしまったのだがいつの間にそうなってしまったのだ、どうしてこんなことになったんだろう。手足が自由に動いていつでもどこでも自由に行ける私のような存在が、全てをなくし一旦諦めてまた這い上がってきた寝たきりのあの子に負けてしまうんだ。あの子は病院のベッドでいつもいつも考え事をしていて、今を生きるのに精一杯で何も考えていない私なんかよりずっとずっと考え事をしていて、私はいつだってずっと負けてしまう。どうしようもなく負けてしまう。あの子は手足ももう動かないのに。視線と声だけを使って機械を操ってそれで何でもできる。そんな世の中になってしまったから、私よりずっと辛いことたくさん乗り越えてきた、たくさん経験してきたあの子は、恵まれた環境にもかかわらずそれを生かすこともなくダラダラ生きてきた私なんかよりもずっと遠くにずっと遠くに行ってしまう。これがもし何十年も前のシチュエーションだったら、多分あの子は絶望してそのまま刺激のない生活をして、私は自由に動く手足を無駄遣いしながら持て余しながらそれでもあの子よりは素敵な人生を生きるであろう、いろんなところに行っていろんな楽しい体験をして。
でもそんなのは作られた誰かが作った虚構の上に乗っかって遊んでいるだけ。ただの表面的な楽しみ。全部虚構に過ぎないのに。手足が余ってるから……恵みが?恩寵が?余ってるから。自分に与えられたものを有効に使うことができないまま、限られたあるものを使いこなして生きるあの子に負けてしまう。
私はポテトフライの匂いを体じゅうから吹き出させて、あの子のことを考える。そしていにしえの偉人の、手が頭の回転に追いついていないために、一見きたない字が散らばってるだけにみえるノートを思い出す。あの偉人が、あの子の使っているような音声ワープロ機能のある時代に生きていたら、たぶん手で文字を書くなんてしなかったのじゃないだろうか。
あの偉人の時代に、そんなのがなくてよかったと思う。そんなのが早くから発達していたら今頃人類は手のひらの代わりにペンギンみたいなフリッパーを両腕の先からぶらつかせているだけの木偶になっていただろう。わたしはあの一見きたない字が愛おしいのだ。私と何も繋がることのない天才の、唯一と言えるほどの親しみやすい部分を感じるのだ。

退化してまで生きていたいだろうか

きたなさは親しみを呼び寄せる。度が過ぎたきたなさは人を遠ざけるけれど、ちいさなきたなさは親しみやすい印象を与える。 美しくても彫像とセックスしたいと思わないのと同じように、わたしはすこしくらいきたなくしている物事をあいする。