ぴいなつの頭ん中 -20ページ目

ぴいなつの頭ん中

殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

たったひとりのために詩を作り続ける人や、つくらないと生きていけない人、それを上手にあつかう人、などにふれて、


自分はなんで詩を書こうと思ったかを思い出そうとした。


それは誰か好きな女の子が詩を書いていたとかいう憧れだったり、ひとと自分の考えていることがけっこう違うなって思ったり、見えてるものが違うことをうまく言葉で説明できなくて、でもそれはとても綺麗だったとか、それはすごく恐ろしかったとか、そういうことをうまく伝えたくて、始まったことだった。


見えてるものが違うと言ってもなにも幻覚を見てるわけでもなければ色が違うわけでもない。

同じ映画を見てもどこの場面が印象に残るかとかどの点に着目するかが違うとか、その程度。

同じ道を歩いてもサクサク前を向く人もいれば飛んでる蝶とか看板とかをいつまでも見ちゃう人がいるのと同じ。


そのうち、詩とか文章を形にして人前に出すと同じようなものを好きだったりする友達ができることがわかって、たくさんの人と出会いたくて、(でもそんなに人と喋れないけど)作品を作るついでに友達を作りにいくような感覚になっていった。

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やっぱりもっとたくさんの人と会いたいし話したい、価値観は一つではないのだ、景色は一つではないのだ、そしてそれらのうちどれが正解でどれが不正解だとか、そういうのもないのだ、と再確認したい。それができなくなると、怖くなってまた部屋に閉じこもる生活になりそうで恐ろしい。


評価されなかったとしても、うまくできなかったとしても、うまく伝えられなかったとしても、世界は味方で、価値観がたくさんあることは素敵なことだと、時々再確認するために、わたしは作品を作ったり見たりしたい。生きるために食べるのと同じくらいそれはわたしに必要なことなのだと思う。

小さい頃、小説を書くのにハマっていた時があった。漫画家志望の友達もいて、挿絵を描いてもらったり一緒にお話を作ったりなどして、とても楽しかったのを覚えている。


あの時書いていた小説のうちの一つのことについてお話しさせてほしい。

それはロミオとジュリエットの廉価版みたいなもので、周囲から猛反対される恋路を、ただひとり、主人公の少年の祖父だけが、応援していたのだった。


おじいちゃんはなにがあっても、

お前の味方だ。


これがこの小説の大切なキーワードだった。


しかし、味方、みかた、みかた味方、みかたみかたみかた、という字を、何回か書いてみて、なんとも言えない、しらじらしさを感じた。


当時、味方という言葉を私が一番頻繁に聞いていた場面は、母が被害妄想にとりつかれた時に、


あなただけがわたしの味方よ。


というふうに使っているとき。

その言葉は母娘の連帯感を再確認させる力というよりも、他の誰にもすがることのできない母の孤独感ばかりをぎらぎらと際立たせ光らせていた。


味方であるという声明は、本来こんなに孤独なものではないはず。


むしろ、口にしただけ、耳にしただけであたたかくなるような、やさしくて強い言葉であるはず。


なのに、優しくて強い意味合いの力をもつ『味方』ということばを、私はほとんど耳にしたことがなかったのだ。


味方ってことばがなんとなくそぐわなさすぎて、漢字が間違ってるのか?となんども辞書を確認したり当て字をしてみたりした。その時にわたしにささやきかけた勘のような違和感の正体は、おとなになった今ならはっきりとわかるが、当時の私にとって母の言うことは絶対、母は全知全能。なのでなにかあったら母の言うことを聞いていれば良い。母の心の闇とそれにより形成されつつある自分の心の歪みなど、知る由もなかった。



指、

の先で

そのうずまきの中心部でかるく

ふれるというよりも、

当てるようにその指先を、


薄い羽毛にうずめた。


ちいさな、指の先のいちばんちいさなうずまきと同じくらいちいさな、


拍動が、


しっかりと感じられる

指先で聞こえる

指先に耳ができたみたいに

どくどくとそれは、

わたしのと同じように


ちいさな心臓が脈打っている。

死ぬまでやまない筋肉の、収縮。


あたたかい。

羽毛の中に包まれているから?

ううん、

あたためてるの。

じぶんで、あたたかくなれるの。

この心臓で。

ちいさな心臓で。


声をかけると、見上げてくる両の眼はまっかな輪に囲まれて、くるくるとわたしを映す。

ちいさな声で鳴き、首を器用に傾ぐ。


ほんとうならこんな異種のわたしを愛するなんてかみさまには反するのかもしれない。


みんなに言っていたはずだ、

生めよ、殖えよ、地に満ちよと。

わたしも聞いてなかったわけではない。


わたしたちがいくら愛し合ってもふやしあうことはできない。


それでも、

握ったら潰れてしまうちいさなちいさな恋人に、


わたしは永遠の愛と忠誠を誓うキスをする


鋭利な嘴でひねられた唇の皮膚は蜜柑の果実のようにやわくやぶけ、


恋人の眼の周りのかざりに似たまっかな果汁が噴き出す。


汚れたくないのに汚したくないのに日頃の行いがわたしをどんどん汚していく。汚れたくないのに汚したくないのに洗えない服ばかり染まってゆく。汚れたくないのに汚したくないのに、匂いはつけたくてこすりつける。わるいもののにおいがすき。わるいもののにおいに近づく。できるだけ、近づく。笑顔を無視する。私じゃない人に向けられた笑顔は無視していい。その視線がむすぶラインの外にいるからといって劣等感をおもわなくていい。視線のラインの中にいた時に、外の人を必要以上に気遣わなくてもいい。自由でいい。もっと客として堂々としていい。常連は無視しろ。常連しか受け入れない店は最初から入れやしないもの。一見がいやなら張り紙でも貼っとけというのだ。


マウスピースのない吸い口からは鉄の味がして、誰かの唸る小さな声がして、口笛が聞こえて、わたしは、美しい複雑さで汚れた本を手に入れなかった自分が運命をひとつ逃したのではないかと、呪う。

電車を降りながらうまく降りられないから自分を新人の魔女だと思い込んで傘をほうきのようにかざして一般人から憐れみを受け取る。憐れみの魔法。可愛さの魔法。


叛逆をしよう叛逆をしよう叛逆を。

行動制限に関する痛ましい事故がありました。


27歳・英語教師のニュージーランド人男性が、双極性症状で大和市立病院に入院し、身体をベッドに10日拘束されたのちに死亡。遺族は「野蛮で中世のような」身体拘束の結果静脈血栓症で死亡したとして、「NZの病院であれば死ななかった」と嘆く。https://t.co/Z4FAwCrxR2


最近思うのです。


「ひぐらしのなく頃に」は、

疑心暗鬼にかられた人が自傷・他害といった危険な行動を起こさずに、よりみんなが平和に暮らせる、つらさを乗り越えられるようになるには、たくさん、ひとに相談をすること、信頼関係をつくり、みんなを巻き込むことが大事だと、観る者、読む者、プレイする者にメッセージを与えています。


そして、行動制限をなるべく予防することの鍵も、おなじことではないかと。

精神症状により自傷・他害のおそれがあるひとを閉じ込めたり縛ったりして、行動制限をおこなうことの反対側には、対話するということがあるのではないかと。


もしかして、コミュニケーションがうまくとれなくって、どうしようもないと思い込んじゃって、時間がなくて、行動を制限するという、本来であれば最後の砦みたいなものを、簡単に行使してしまっているのではないだろうか……


でもそれは神と同等のちからを使えるものがちょっと失敗した時に時間を巻き戻してやり直せばいいやと思うのとおなじくらい安直で。


フィクションの中のかれらは我々にない力を持っていてそれを使ったり使わなかったり使い方を間違ったりしてやっていくけれど、


いまのわたしたちには、その失敗したって思うこと自体が欠落しているように思うのです。

行動を制限して、ADLもコミュニケーションの機能も落ちていって


拘束すればそれでおわり、放っておけばいいというわけではないのです

みんなそのことはよくわかっているのだとおもうけど、目が回るような忙しさに対話の可能性が見えなくなってしまっている気がするのです


そして機能の落ちた人はお世話をたくさんしなくてはならない、わたしたちはもっと忙しくなり、余裕をなくしてしまう。素早く動けることが何よりもよくて、ゆっくり対話をしたり頭を使ったり悩み続けたりすることは現場の邪魔みたいになってしまう。


精神科に身体的ケアが少ないことの意味をもっと考えるべきなのだと思います


わたしたちは、身体科のナースにはあまり求められないことが求められていて、それはとても時間と頭と労力を喰う、対話というものなのです


わたしはひとと話をした後、延々と、失言がなかったか、などと反芻するとてもつらい反省会が自動的に頭の中で開催されてしまうので、つらいです。だから、人と話をするのが苦手ではありますが、行動制限をすることや、よくなるはずのひとを寝かせたまま放っておいてしまうのはもっとつらいです。


ひととたくさん関わってるうちに、ひととの信頼関係が、わたしのたった一言でダメになるかもしれない、と思うのはとても怖いです。

でもそれこそ、話す上で、失敗することを恐れている、やり直しをもとめる、安直な姿勢ではないか……


信頼関係なんてふわふわしたもの。

一回壊れたら、時間をかけて修復していくしかない。

話し方なんかうまくなくていい。心理なんか探らなくていい。やらなければならない。ひとと対話することを恐れてはならない。やり方は実戦で覚えるべきなのだ。